「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

    "HORAS INDONESIA " 北スマトラの楽器演奏会

2011-04-10 10:02:59 | Weblog
北スマトラにシンガポールがスポッと入る位大きな湖、トバ湖があります。日本ではあまり知られていませんが、風光明媚な観光地です。この湖周辺に住むバタックは、独特の言語習慣を持ち、とくに抜群の音楽センスをもっています。このバタックの人たちが熱帯雨林の保護を訴えて、民族楽器GONDONG(打楽器)の演奏会を東京で以下のように開催致します。
▽日時 5月14日(土)開演 16:00
▽場所 日本海運会館大ホール
▽入場料 2,000円
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問い合わせ、申し込みは
080-3918-1205(ルビス)
045-362-8972(小池メイワテイ)
日本語でOKです。
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HORASとはバタック語で「こんにちは」「お元気ですか」「ウェルカム」の意味のある便利な言葉です。
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さきの戦争中、作家の林扶美子も報道班員としてトバ湖を訪れています。

         スマトラへの郷愁「メダン会」

2011-04-10 07:02:49 | Weblog
東日本大震災の自粛ムードの中、関係している会合のほとんどが中止されているが、昨日乞われて昔の知人が主宰する「メダン会」に出席した。「メダン会」はスマトラ第一の都会、メダンに戦前住んでいた人、戦争中、ここに駐屯していた元軍人軍属、それに戦後アサハン計画などで居住していた人たちの時代をこえた郷愁と親睦の集まりだ。

僕は1997年に約半年間、長期滞在したのを含め66年から前後8回もメダンを訪れている。メダンは19世紀の終わり頃、オランダがタバコ、ゴム。あぶらヤシのプランテーションを始めて急発展した町で比較的新しい。古い歴史的建造物もないし、風光明媚な場所でもない。それなのに僕がメダンに魅かれているのは、明治以後のこの町と日本との関係だ。

古い記録によると明治中期から大正の初めにかけてメダンには500人から600人の”唐ゆきさん”がいた。サンダカンなんかの比ではない。初期のオランダ植民地経営は家族連れが許されてなかったため、独身者が多かった。”唐ゆきさん”は彼らの現地妻やハウスキーパーであった。当時の植民地の現場を書いたオランダの作家のベストセラー「ラバー」(ゴム)にも、この”唐ゆきさん”や関係する日本人が大勢登場してくる。大正に入って”唐ゆきさん”は日本の恥じだということで廃止になったが、昭和の初期メダンを訪れた詩人の金子光晴は、かって”唐ゆきさん”がいた日本旅館に旅装をといている。

時代が移って戦争中にはここに近衛師団の歩兵三連隊の司令部が置かれた。昨日の集まりにも当時の兵隊さんが二人参加したが、話は紘原神社(ひろはら)になった。紘は当時の戦争スローガン「八紘一宇」の紘で、原はメダン(インドネシア語で原の意)からきている。当時オランダ軍の捕虜を使って建てた立派な神社だが、なんと当時の社務所の建物が今でも残っており、地元のお金持ち階級の高級クラブとして使われている。

戦後80年から90年にかけては、メダンは、アサハン・アルミ計画に従事する日本人の後方基地で、日本人学校も設置され、一時は百名を越す生徒もいた。しかし、計画が完了した今、メダンには百名前後の日本人しか滞在していない。日本人学校も10数年前閉鎖された。寂しい限りだが、やがてメダンに郷愁を感ずる日本人もいなくなろう。

(僕の別のブログ「1000都物語」(索引可能)で”こだわりのインドネシア45年”でメダン、北スマトラ、アチェの想い出を書いています)