大東亜戦争が勃発してから69年の歳月が流れた。昭和16年12月8日、僕は小学校5年だったが、まだ、あの朝の感激が昨日のようによみがえってくる。大東亜戦争は結果として広島、長崎をはじめ数百万人の尊い生命を奪い、アジアの人々にも迷惑をかけた。しかし、この戦争はたんなる侵略戦争だったのだろうかー。僕はけっしてそうは思わない日本人の一人である。僕はここにお国のために生命を賭して戦った一人の勇士を紹介したい。歴史の表舞台には登場してこないが、かっての日本にはこういった日本男児がいた。その人は新穂智(にいほ・さとる)陸軍少佐である。
新穂智は大正5年(1916年)鹿児島生まれ。地元の旧制中学を卒業後満州に渡り満鉄に勤務。現地入隊で台湾歩兵連隊に入り,甲幹試験に合格して見習士官となり東京の中野学校の第一期生となった。中野学校は諜報関係の幹部を養成する所であった。ここを卒業後新穂は昭和15年、第二次日蘭会商の随員としてバタビアに派遣された。随員は名目で任務はパレンバン(スマトラ)の石油の現地調査であった。16年6月、日蘭会商は決裂したが、新穂は帰国せず、同盟通信(現在の共同通信)の特派員として、さらに調査に当り結果を東京に報告した。
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。日本は和蘭に宣戦布告していなかったが、蘭印(インドネシア)在住の日本人は一斉に逮捕されて、貨物船に乗せられ豪州の砂漠地帯にあるラブダイ抑留所へ送られたが、新穂もその一人であった。しかし、幸い抑留者交換で17年9月、新穂は東京へ帰国できた。新穂は暫く母校の中野学校で教えていたが、18年初め新しい任務を帯びて西部ニューギニアへ出発するが、ここでの新穂の話は別稿にする。
大東亜戦争の緒戦の勝利を決定づけたのは17年2月14日の陸軍空挺部隊のパレンバンヘの落下傘降下であった。パレンバンの油田地帯、製油所を確保したことにより、シンガポールを陥落させ、ジャワ島進攻作戦を勝利に導いた。日本軍は1月、メナド(スラウェシ)2月クーパン(西チモール)にも海軍落下傘部隊が降下しているが、規模の大きさや成功度はパレンバンが一番であった。当時、僕は銃後の小国民であったが、パレンバン落下傘部隊は”空の神兵”として歌にもなり、映画にもなったのを覚えている。この"空の神兵”の成功の陰には、新穂の事前の精密な調査と努力があったことは知られていない。
(写真は昭和16年の同盟通信職員録 新穂智の名前がある)
新穂智は大正5年(1916年)鹿児島生まれ。地元の旧制中学を卒業後満州に渡り満鉄に勤務。現地入隊で台湾歩兵連隊に入り,甲幹試験に合格して見習士官となり東京の中野学校の第一期生となった。中野学校は諜報関係の幹部を養成する所であった。ここを卒業後新穂は昭和15年、第二次日蘭会商の随員としてバタビアに派遣された。随員は名目で任務はパレンバン(スマトラ)の石油の現地調査であった。16年6月、日蘭会商は決裂したが、新穂は帰国せず、同盟通信(現在の共同通信)の特派員として、さらに調査に当り結果を東京に報告した。
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。日本は和蘭に宣戦布告していなかったが、蘭印(インドネシア)在住の日本人は一斉に逮捕されて、貨物船に乗せられ豪州の砂漠地帯にあるラブダイ抑留所へ送られたが、新穂もその一人であった。しかし、幸い抑留者交換で17年9月、新穂は東京へ帰国できた。新穂は暫く母校の中野学校で教えていたが、18年初め新しい任務を帯びて西部ニューギニアへ出発するが、ここでの新穂の話は別稿にする。
大東亜戦争の緒戦の勝利を決定づけたのは17年2月14日の陸軍空挺部隊のパレンバンヘの落下傘降下であった。パレンバンの油田地帯、製油所を確保したことにより、シンガポールを陥落させ、ジャワ島進攻作戦を勝利に導いた。日本軍は1月、メナド(スラウェシ)2月クーパン(西チモール)にも海軍落下傘部隊が降下しているが、規模の大きさや成功度はパレンバンが一番であった。当時、僕は銃後の小国民であったが、パレンバン落下傘部隊は”空の神兵”として歌にもなり、映画にもなったのを覚えている。この"空の神兵”の成功の陰には、新穂の事前の精密な調査と努力があったことは知られていない。
(写真は昭和16年の同盟通信職員録 新穂智の名前がある)