きのう遠縁の49日法要があり、生まれ故郷へでかけた。といっても、故郷は東京の
ビルの下。昔の名残はもう何も残っていない。僅かに昔JR山手線と貨物列車が走っ
ていた土手が残っているだけだ。土手の上を今も山手線は走っているが、冬には屋
根の上に雪を積んで走っていた貨物列車はもうない。
昭和10年代、僕はこの土手の上の踏み切りを渡って通学した。踏切番のおじさんが
いつも数人詰めていて、学童を安全に見守ってくれた。でも時には貨物列車が長い列
をつくり、この間僕らは"一台、二台、三台・・・”と数えながら通過を待った。戦争末期
にはこの線路の上を大勢の出征兵士を載せた列車が通っていった。僕らに手を振って
元気に戦地へ向かっていったが、そのまま戻らぬ若者も多かったのだろう。
納骨した墓地の上の高台に、むかし「建武神社」という、出来たばかりの神社があり当
時、人一倍、神がかっていた校長の命令で、僕らは神社の掃除を強制された。その神
社は戦後いつの間にか撤去されてしまった。その石垣の一部が残っているが、戦後生
まれの世代は、だれもそれが何の跡だか知らなかった。
法要のあった天台宗のお寺の境内には、1600年代に建造された石仏が二つ残っている。
徳川時代初期のものだ。400年の風雪戦火にも耐えて残ってきた。かたや「建武神社」は
僅か半世紀で破壊された。いかに今の時代の変遷が激しいか、望郷などといった生易し
いももではない。
ビルの下。昔の名残はもう何も残っていない。僅かに昔JR山手線と貨物列車が走っ
ていた土手が残っているだけだ。土手の上を今も山手線は走っているが、冬には屋
根の上に雪を積んで走っていた貨物列車はもうない。
昭和10年代、僕はこの土手の上の踏み切りを渡って通学した。踏切番のおじさんが
いつも数人詰めていて、学童を安全に見守ってくれた。でも時には貨物列車が長い列
をつくり、この間僕らは"一台、二台、三台・・・”と数えながら通過を待った。戦争末期
にはこの線路の上を大勢の出征兵士を載せた列車が通っていった。僕らに手を振って
元気に戦地へ向かっていったが、そのまま戻らぬ若者も多かったのだろう。
納骨した墓地の上の高台に、むかし「建武神社」という、出来たばかりの神社があり当
時、人一倍、神がかっていた校長の命令で、僕らは神社の掃除を強制された。その神
社は戦後いつの間にか撤去されてしまった。その石垣の一部が残っているが、戦後生
まれの世代は、だれもそれが何の跡だか知らなかった。
法要のあった天台宗のお寺の境内には、1600年代に建造された石仏が二つ残っている。
徳川時代初期のものだ。400年の風雪戦火にも耐えて残ってきた。かたや「建武神社」は
僅か半世紀で破壊された。いかに今の時代の変遷が激しいか、望郷などといった生易し
いももではない。