goo blog サービス終了のお知らせ 

「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

反原発とCO2(二酸化炭素)濃度400PPMの矛盾

2015-05-08 05:15:20 | Weblog
大型連休中の「子供の日」に東京の霞が関.通産省前で反原発を唱え座り込み中のテントに対して、”突撃ラッパ”を吹いて「右翼」の男が突入し、警察に逮捕されたニュースをネットで知った。民主党政権時、閣僚がこのテントを訪れたのを知っていたが、いまなお座り込みを続けていたのには驚いた。調べてみたら、裁判所は一審も二審も国の訴えを入れ、テントの撤去を命じているが、最高裁の決定待ちて、抗争中なのだそうだ。法治国家なので仕方がないが、動画をみると、まるでホームレスのテントみたいで汚い。

米国海洋大気局{NOAA}が世界の大気中のCO2濃度が世界40か所の観測所で、3月初め、危険数値の400PPMを超えたと発表した。CO2の排出量は地球温暖化の原因とされ、その規制をめぐって、今年末までに世界的な規制枠組みをつくり、2020年実施を目指している。世界最大の排出国米中二か国は、昨年その量について合意しているが、国際的な合意が得られるかどうかだ。

わが国は2009年、当時の鳩山由紀夫首相が、国連で排出量を2020年までに1999年比、25パーセントに削減すると出来もしない国際約束してしまった。その後福島原発事故もあって、とうてい実現不可能であり、逆に火力発電への依存度が高まり、CO2排出量は増えてきている。現在、わが国の原発は稼働していないが、いつまで、この状態が続くのは不可能である。口で原発中止を唱えるのは簡単である。しかし、地球温暖化現象に対して、人類としていかに対処すべきかである。

無責任なノーベル賞作家の発言といい、あまりにも単純な日本人が多すぎる。最高裁は一日も早く、国有地を占拠する”無法な”行為を排除すべきである。

”箱根の山は天下の険”

2015-05-07 05:41:32 | Weblog
先日、老人会でボランティア女性二人のフルートに合わせて僕は「中学唱歌」箱根八里を”朗々”と歌って会場をわかせた!?。”箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千刃の谷”で始まる「箱根八里」(作詞 鳥居忱 作曲 滝廉太郎)は、歌詞は漢詩や中国の故事を駆使していて、子供には難解だが、勇壮なメロディで僕の愛唱歌の一つである。

首都圏居住者にとって箱根は最も身近な観光地である。僕のアルバムにも昭和9年、両親と元治元年生まれの母方の祖母と一緒に旅した時の箱根神社前の記念写真が残っている。以来、80年近く何回ともなく箱根に旅しているが、今回のように大涌谷地域限定というものの、警告レベルが1から2に引き上げられたのは、あまり、僕の記憶にはない。

たしかに箱根の山は火山なのだが、過去に噴火したという歴史的記録がないため、僕らは忘れがちだが、なん千年、なん万年単位でとらえれば、いつ噴火してもおかしくない。1991年6月、フィリピンのピナトゥボ火山が400年ぶりに大噴火した例もある。噴火前のピナトゥボ山は、熱帯雨林に覆われた普通の山であった。幸いピナトゥボの場合は噴火の前年、周辺でM7.8の大地震があり、ある程度噴火は予測されていたそうだが。

地震とか火山噴火については、全く素人だが、東日本大震災のように予測を越えた自然災害もある。歴史的な記録がないといって油断してはいけない。昨年の御嶽山のような例もある。これから夏の観光シーズンを控えて、関係者は大変だが、やはり人命が大切である。天変地異の多い、この国の宿命なのかもしれない。

韓国の”いちゃもん” 国民徴用令と世界文化遺産 

2015-05-06 05:47:33 | Weblog
北海道の道央道の苫小牧市内に三軒茶屋というICがある。その地名の由来を知る人は少ないが、戦時中の昭和18年、東京世田谷の三軒茶屋商店街の人たちが国家徴用令に基づき、ここに入植した跡地である。国家徴用令は14年7月、戦時下の重要産業の就業人員確保のため、政府が国民を徴用できるという法律で、戦争が激化した18年、9年になると、東京の商店街の中には、満州や北海道の開拓へ街を上げて入植した。

韓国のメディアが、日本政府が「明治日本の産業遺産」をユネスコの世界遺産としてイコモス(国際記念物遺跡会議)に勧告したことに”いちゃもん”つけている。その理由は、23か所の遺産のうち7か所は、日本の植民地時代、徴用工として朝鮮半島から強制徴用された6万人の犠牲の上に建てられたといのである。国家徴用令が朝鮮半島出身者にも適用されたのは19年9月からであって、わが国が朝鮮半島を併合したのは、明治43年(1910年)だが、産業遺産はすべて、併合以前のもので、もちろん、徴用制度などなかった。

韓国のメディアは、日韓併合時代の歴史について勉強不足である。”従軍慰安婦”と女子挺身隊との混同もそうである。すこし、あの時代の歴史を紐解けば解かるはずだが、いまだに在ソウル日本大使館前でデモをしているグループは”挺身隊”を名乗っているそうである。戦争末期、朝鮮半島から大勢の徴用工が来日したの事実である。僕が動員されていた軍需工場にも半島出身者が働いていた。しかし当時は半島出身者だけでなく、日本人はすべて戦争遂行のため徴用されていた。しかし、これは「明治日本の産業遺産」とは、全く関係のない話である。

"ごっこ”遊びがなくなった!

2015-05-05 05:36:33 | Weblog
昭和10年代、僕が小学生だった時代は”ごっこ”遊びが色々とあった。”ごっこ”遊びとは”ある物事の真似をする”こと(広辞林)。ちょっと想い出しただけでも”電車ごっこ””チャンバラごっこ””鬼ごっこ””お医者さんごっこ””兵隊ごっこ”-etcと懐かしい。”ママごと”もこの範疇の一つであろう。

その中でも”兵隊ごっこ”は僕らにとっては忘れられない。昭和12年、小学校に入学した僕らの世代にとっては、文字通り”銃後の青少年”であり、遊びにも戦争が反映されてた。ガキ大将の呼びかけで、僕たちは原っぱ脇の崖下に掘られた”兵舎”に入隊、日ぐらし、”兵隊ごっこ”に興じた。捕虜にされたものは、”支那兵”みたいに服を後ろ前に着せられ、縄で数珠つなぎにされたりした。日本軍は木刀を持っていたが、”支那兵”は、棒きれの青竜刀であった。

街の至る所に、ローセキで書かれた線路が続き、縄で囲んだ電車が幼い子供をお客にして走り回っていた。原っぱの片隅には女の子たちが、地べたにゴザを敷き”ままごと”遊びをしていた。東京の区部でも、まだ原っぱがあり、自動車の往来も少なかった。僕らは、西の空に夕日が沈み、母親が夕飯だよと呼びにくるまで遊んだものだ。

”ごっこ”遊びが子供の世界から来てからひさしい。”ごっこ”は大人の社会を遊びを通じて自然に学習する遊びだという学者もいる。そういえば、最近の事件の中には、あまりにも子供じみたものがある。子供のときに”ごっこ”遊びをしなかった、そのツケなのであろうか。子供の日でも、家の周囲には子供の遊ぶ姿はない。

理解できるフジテレビの「ワイドナショー」の低視聴率

2015-05-04 05:31:25 | Weblog
連休初日の昨日、ツレツレなるままにテレビをつけたら、報道番組の鳥越俊太郎がうつった。僕は、自分の専門外のことまで”したり顔”して解説するコメンテーターは、あまり好きでないので、チャンネルを切り替えようとしたところ、同じ画面にお笑いの松本人志や武井壮の顔もみえる。”対比”の面白さにつられて、そのまま見続けたが、これがフジテレビ低視聴率の象徴ともいえる「ワイドナショー」であった。

暫らく参考までに、お付き合いしたが確かにひどすぎる。松本人志が先の安倍総理の訪米は、親分(米国)の所へ杯(杯)を貰いに行ったようなもの。米国はウルトラマンで、日本はライダーマンだという。アニメ好きの同世代人には理解できるのかもしれないが、僕にはさっぱりわからない。それ以前の問題として画面の容姿が汚すぎる。それに言動が親分ビートタケシの物まねである。

スポーツマン出の武井壮に至っては、鳥越俊太郎もあきれ顔していたが、真面目な顔をして政治家試験制度を提案していた。その昔民放に10年間ほど席を置いたとき、上司から番組つくりはの秘訣は、”ミーハ―”的センス、つまり自分の視線でつくってはいけないといわれた。多分「ワイドナショー」の製作者も、そうなのだろう。さもなければ難関の試験を突破してテレビ局には入れない。

言葉は悪いが、鳥越俊太郎も落ちたものだ。たんなるタレントではない。その昔、テレビの創生期(昭和31年)評論家の大宅壮一が”テレビ総白痴”論の警鐘を鳴らしたが「ワイドナショー」は、まさにその典型である。4月の大幅番組改編で、フジテレビは報道番組にテコいれしたが、どれも低視聴率だという。「ワイドナショー」を垣間見て、理解できる気がした。

「平和憲法」が施行された時代

2015-05-03 05:35:51 | Weblog
今日5月3日は国民の祝日「国民記念日」である。昭和23年制定の祝日法によれば”日本国憲法(22年5月3日施行)を記念して、国の成長を期する”ことを趣旨とした祝日である。今年で68回目だが、今年もこの憲法改正を巡って国民の意見が割れている。"国の成長を期して”制定された憲法ではなかったのかー。成長に反するのであれば改正しなければならないし、やはり決着をつける時にきているように思えるのだが。

朝日新聞が最近行った郵送によるアンケート調査によると、憲法改正不要が48パーセント、必要が43パーセントで、ほぼ意見は半ばしている。1980年代の中曽根内閣時代には改正反対が大きく上回っていたそうだから、国民の考え方も変わってきた。そんな中で安倍内閣が憲法改正の布石ともいえる集団的自衛権行使について閣議決定し、国会で採決する運びになっている。僕は流れとしては、それでよいと思っている。

新憲法が施行された時、僕は旧制中学5年(高校2年)だったが、戦争放棄を規定した、画期的な「平和憲法」に誇りを持った。敗戦から2年、世の中あげて平和への願望が強かった。原爆被災の広島、長崎をはじめ戦災を受けた街の公園や通りの名前には「平和」がつけられ、煙草の名前まで「ピース」(平和)、学校名まで「平和」がつけられた。

憲法改正反対論者の中には、改正によってわが国が再び戦争への道を歩み出し、徴兵制になるのではないかと心配している。しかし、あの悲惨な戦争を体験している日本人はそんなに愚かではないと僕は思っている。戦後70年、時代が変化し”国の成長に期する”と思った中にも、そうではなくなってきたものもある。今日も各地で改正の是非をめぐって”実のない”集会が開かれるが、あまり意味がない。

石川啄木の「あこがれ」と日露戦争 

2015-05-02 05:58:26 | Weblog
親友(故人)の夫人に誘われて昨日、老妻と共に目黒区駒場の旧前田侯爵邸内の一角にある近代文学館で開催中の「少年少女雑誌にみる近代」展を見学してきた。同じ区内に住みながら、今まで一度も訪れる機会がなかったが、さすが加賀百万石の殿様の屋敷跡だけに豪華な建物も広大な庭園も一見の価値は十分にあった。

戦争中”銃後の小国民”だった同世代の僕らは、戦前の童謡雑誌「赤い鳥」から戦中の勇ましい少年少女雑誌まで懐かしく拝見、参観記念として一枚の絵葉書を貰った。葉書には昔の古い書体で「新體詩集 あこがれ 石川啄木著 文学士 上田敏書序 與謝野鐵幹書跋」と書かれた啄木の処女詩集(明治38年5月出版)の表紙が印刷されてあった。

啄木が岩手県の渋民村から”笈を背負って”19歳で上京した年の出版である。序文を書いた与謝野鉄幹は32歳、上田敏は31歳である。東北から上京したばかりの青年が、どのようにして多分、その時代には有名人だった与謝野や上田と知り合い序文まで書いて貰ったのか―。今の時代では考えられないことだ。

もう一つ、僕が注目したのは詩集の発刊が明治38年5月、あの”皇国の興廃、この一戦にあり”の日本海海戦があった同じ月である。大東亜戦争を体験している世代にとっては、想像がつかない。戦争の規模や大きさが違っていたのであろうかー。

前田邸の最後の所有者、前田利為侯爵は、戦時中、陸軍司令長官として英領ボルネオ、ラブハン島で飛行機事故で戦死されている。最近、僕はこのことを本に書いたばかりなだけに、前田侯爵邸を見学して不思議な縁を感じた。また一枚の啄木の絵葉書から日露の役を想起するなど、僕らの世代の悲しいサガなのかもしれない。






武田薬「アクトス」28000億円和解 日本では

2015-05-01 15:39:16 | Weblog
糖尿病治療薬「アクトス」を服用して膀胱ガンになったという米国の患者の訴訟を受けて、製造販売元の武田薬品が先日、原告団に対して2800億円を支払う和解に応じた。同社はこの結果、業績予想の最終損益が1450億円の赤字となり、昭和24年の上場以来初めて赤字に転落となる。僕はこのことを新聞の経済欄で読んで知ったが、医学的にはどうなのかー。新聞は触れていない。

{アクトス」と膀胱ガンとの因果関係については、すでに10数年前、フランスが疫学的に”黒”と認定し製造販売を禁止していつ。米国でも各地で訴訟が続発している。にも拘らず厚労省が「アクトス」について発売禁止したという話は聞いたことがない。今回、武田薬品は和解に応じて文書を発表しているが、依然、自説の正しさを主張しており”患者さんに対して革新的な治療薬の開発に一層注力すると述べている。つまり、今まで通り「アクトス}の発売を続けるということだ。

2010年の1月と6月、僕は膀胱ガンで2回、患部の切除手術のため入院した。2000年に初めて膀胱ガンにかかったが、抗がん剤の注入で完治し10年間再発がなかった。ところが、2009年秋ごろから血糖値が上がり始め、主治医の指示で「アクトス」をのみ始めた。その頃、新聞でフランスが発売禁止になったと報道された。僕は主治医にその旨を伝えると、厚労省からも使用上の注意の通達があったと、服用をスットプした。

大手薬品会社の赤字転落はたしかに大きな経済ニュースだが、医学的に「アクトス」が大丈夫かどうかの方が、より大きな問題だ。マスコミは何故そこまで深く突っ込んで取材しないのか。薬品会社との間に癒着があるのだろうかー。

ベトナム戦争終結40年 今は観光ブーム

2015-04-30 05:15:43 | Weblog
ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が終結してから今日(4月30日)で40周年に当たる。外信部(国際部)記者だった時代(1956年―69年)のほとんどがインドシナの混乱期と重ねあっている僕にとって、忘れられない日の一つである。あれから40年、今は戦火は去り、ベトナムと日本は相互の観光ブームに湧いている。ベトナム観光局の調べ(2013年)だと、日本人は年間60万人余ベトナムを訪れており、一方、ベトナム人の日本観光も8万人と急増している。

毎月家に届く大手観光会社のパンフレットを見ると、記者時代何度も記事にした懐かしい名前がる。北ベトナムの首都だったハノイ、南ベトナムの米軍基地のあったダナン、また、当時の北の大統領だったホーチミンの名前が、当時、南の首都であったサイゴンに代わって呼ばれている。

ベトナム人の親日度は97パーセントだという調査がある。これが相互の観光ブームの礎なのだろう。大東亜戦争中、日本軍は佛印を占領、サイゴンには南方軍総司令部が置かれたが地上戦はなかった。これに対して、ベトナム戦争では、南と北それに外国軍まで入り乱れた戦争になったが、幸い、日本はいっさい、この戦いには関与しなかった。同じアジア人でも、中国は北を支援し、韓国やタイは米国軍の支配下で北と戦った。なかでも中国は戦後すぐ領土問題で紛争をおこし最近も西沙群島で争っていて評判が悪い。

ベトナム戦争中「ベ平蓮」(ベトナム平和運動)で、米国の軍事介入に抗議した世代もすでに定年を迎えている。ベトナムを訪れる観光客の中にもこの「ベ平連」世代も多いという。やはり平和は好いものだ。

「昭和の子供」「小国民進軍歌」「昭和の子」

2015-04-29 05:16:14 | Weblog
今日は国民の祝日「昭和の日」である。すでに平成も27年経ち”昭和も遠くなりにけり”である。昭和の”御世”に生を受け、半生をこの時代に生きてきた世代にとっては感無量なものがある。中でも昭和を前、中、後と三期に別けた場合の最初の20年間(戦前)は、最も印象深く、記憶に残っている。

はるか遠い記憶の中に”昭和、昭和、昭和の子供よ”の繰り返し言葉(リフレイン)で始まる「昭和の子供」の歌(久保田宵二作詞、佐々木英作曲)がある。歌詞はほとんど忘れてしまったが、昭和の子供のリフレイン部が、そのメロデイと共に頭に残っている。大正の”御世”が終わり、新しい年号、昭和になった喜びを「昭和の子供」の歌として表現したものだ。

昭和6年僕が生まれた年に満州事変が勃発しやがて12年、盧溝橋の支那事変として戦火は拡大し、16年大東亜戦争へと時代は移ってゆく。世の中は戦争一色、この中で僕は小学校(国民学校)時代をすごした。僕ら子供は、銃後の小国民と”讃えられ”、17年には霧島昇が歌う「小国民進軍歌」がレコード化され、発売されている、軍艦マーチの前奏で始まる勇ましい歌である。
♯ 「少国民進軍歌」(作詞軍人保護院 作曲佐々木すぐる)
とどろくとどろく足音は お国のために傷ついた 勇士の護り
僕たちは 共栄圏の友と行く 揃う歩調だ,足並みだ

時代がヅ―ッと下がって戦後昭和の歌に「昭和の子」という歌がある。昭和25年生まれのイルカが作詞作曲、自分で歌ったものだ。
♯ 「昭和の子」  
一、おやつが足りなきや はんぶんこ 僕らおおおぜい 昭和の子
  おしくらまんじゅう 泣きません
一、僕らしぶとい 昭和の子 がんばることが好きなんだ
  僕ら腹ぺこ昭和の子 うまいもんには弱いんだ
どれもその時代の「昭和」を反映した歌である。国民の祝日の「昭和の日」、過ぎ去りし過去を振り返ってみるのも一興かも。