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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

強制連行をいまだに発信している「アジア女性基金」

2015-03-08 05:50:14 | Weblog
昨日僕はいわゆる”従軍慰安婦”の虚妄についてサイトなどを通じて、史実を世界に発信している会の事務局長、茂木弘道氏の講演会を聞きに行った。千葉県船橋市の会場は入りきれないほどの人で一杯、いかにこの問題の関心が強いかを物語っていた。茂木氏らは日本語サイト(http://hasssin.org/)と英語サイト(http://www.sdh-fact.com/)のほか英語の冊子を発行、韓国のいう”従軍慰安婦””性奴隷”が如何に虚妄にみているかを発進続けている。

僕はこの運動に共感している。幸い日本国内では昨年の朝日新聞の誤報謝罪から、軍による慰安婦強制連行を信じる者はいなくなったが、残念ながら世界的にはまだ国連をはじめ欧米では、日本軍が戦争中20万人もの韓国女性を連行し、”性奴隷”にしたといった話が横行している。朝日新聞が誤報を訂正したらといって、すぐに”はい、そうですか”という声にはならない。本来は日本政府が、これを取り消す声明を出すべきなのだがー。

ところが逆なのである。この問題の”元凶”ともいえる村山富市元首相が作った「アジアのため女性基金」のサイト「レジタル博物館」には、基金が解散したにも関わらず、基金の歴史考証委員の一人であった、倉沢愛子元慶応教授のインドネシアでの慰安婦強行連行が依然として流れている、しかも日本語のほかハングルと英語である。

インターネット上に「慰安婦問題の基礎知識Q&A」という、ある地方の私立大学の女性教授のサイトがあるが、これには”日本政府と政府に協力した「女性基金」に基づくものだ”と断り書きがしてあり、この中で倉沢教授の強制連行の話を引用している。日本の大学の教授でさえ、これなのだから、外国人が読めば、慰安婦の強制連行はあったと信じるのは当然だ。解散したのに、こんなインチキな話を依然、流す必要はない。このサイトには村山富市の署名がある。村山元総理は、せめての”罪滅ぼし”である。今すぐに、これを撤去すべきである。

(倉沢教授は戦争中スマとラ.ブキティンギにあった旧日本軍司令部で防空壕建設の際、現地人労務者を虐殺したという百パーセントウソの話を自著に書いた人物、1996年には名古屋の民放番組のコーディネ―ター役として,インドネシアの慰安婦番組制作に協力、あたかも日本軍による強制連行があったかのような番組を作っている)

オランダ350年の植民地終焉の地、カリジャティを知らない日本人

2015-03-07 06:00:52 | Weblog
カリジャテイ(Kalijati)といっても大方の日本人は知らないかもしれない。カリジャティはインドネシアの西ジャワ州サバン県にある小さな町だが、73年前の1942年(昭和17年)3月9日、オランダの東印度軍が、上陸してきた日本軍の全面攻撃に会い、僅か10日足らずの戦闘で敗北、降伏式が行われた地である。インドネシア人は学校の歴史でこれを学び、和蘭350年の植民地終焉地として皆知っている。

1942年3月1日、ジャワ島の3か所の知から上陸した今村均将軍率いる第16軍は、東印度軍の激しい抵抗に会ったが、僅か4日で首都バタヴィア(ジャカルタ)を占領した。この結果、オランダの植民地政府、東印度のチャルダ提督とテル.ボール総司令官は、降伏を申し入れ、空軍基地のあったカリジャテイで、9日今村司令官との間で調印式が行われた。この調印式の建物は今「歴史の間」(Rumah Sejara)という名の博物館として残っている。

カリジャティは今もインドネシアの空軍基地として使われているが、その敷地内に73年前の戦闘で戦死した旧日本兵の記念碑があり、インドネシア空軍が管理してくれている。数年前までは、戦争中この地にいた陸軍航空隊のOB会「カリジャティ」会が毎年8月15日に訪れ参拝していた。しかし、今は会員の高齢化で訪問できなくなっている。「カリジャテイ」会としては在ジャカルタ日本大使館に、年に一度、代わって墓参してくれと申し入れていたそうだが、実現したかどうか。

空軍管理内にあるので、手続上、墓参が難しいことは解るが、ジャカルタから百数十キロ、2時間あれば行ける距離である。管理してくれているインドネシア側への感謝をこめて、大使館がダメなら、日本人会が変って、年に一回ぐらいは墓参して貰いたいものである。

NHKは何故「軍歌」を放送しないのか

2015-03-06 06:20:05 | Weblog
NHKは「軍歌」の取り扱いにについて何か特別な放送基準があるのだろうか。昨日の早朝のラジオ「深夜便」の”日本の歌心の歌」コーナーで作詞家佐伯孝夫の特集があるというので楽しみにしていたが、彼の戦時中の名曲「ラバウル航空隊」が流れてこない。変って「明日はお発ちか」放送された。二つの歌とも、戦時中少年時代を送った僕には懐かしかったが、どちらかといえば「ラバウル航空隊」の方が当時ヒットした作品ではなかっただろうか。

「深夜便」は放送開始25年だそうで、先日東京でファンの集いがあって盛況だった。僕もそのファンで、特に午前3時代の「日本の歌心の歌」を楽しみにしているが「軍歌」が放送されたことがない。戦時中を生きてきた世代にとっては、毎日のようにラジオから流れてくる「軍歌」は、数少ない娯楽のようなものであった。今からみれば、軍国主義を煽動した”悪物”かもしれないが、当時はそうではなかった。

”歌は世につれ、世は歌につれ”と俗にいうが、確かにそうである。佐伯孝夫の作品を改めて調べてみる、日支事変前の「こんがらがっちゃ嫌よ」(昭和11年)は、戦争前の退廃的な空気を反映しているし「森の小径」(15年)「燦めく星座」(15年)は戦時中とはいえ、大東亜戦争前の歌である。大東亜戦争期の歌は「明日はお発ちか」(17年)「ラバウル航空隊」(19年)が代表作だ。そして戦後は、がらっと変わって「東京の空の下」(23年)「東京のカンカン娘」(24年)である。

視聴者としては、佐伯孝夫の作品を通じて、その時代時代の自分の生きてきた道を振り返ってみたくなる。「明日はお発か」を久しぶりに聞いて僕は嬉しかった。多分「明日はお発か」は”勇ましくない”「軍歌」なので放送されたのかもしれない。同じ内容でも、”わが大君に召されたる”で始まる「出征兵士の歌」(生田大三郎作詞)は金輪際、NHKの電波に乗ることはなく、忘れられていく運命にある。

忘れられた「3月4日」のわが街の空襲

2015-03-05 06:36:05 | Weblog
70年前の昭和20年3月4日の日曜日、集団学童疎開で地方に疎開していた東京の6年生は、中等学校(旧制中学校、高等女学校)受験のため帰京したが、まるでこれに合わせるかのように、早朝、B-29爆撃機の編隊が飛来し谷根千(谷中、根岸、千駄木)地域を中心に爆弾や焼夷弾を投下した。それから6日後の3月10日の下町大空襲が10万人もの大犠牲者をだす惨事だったためか、この「谷根千」空襲は都民の記憶に薄い。

この「谷根千」空襲と同じ朝、今、僕が住む目黒区柿の木坂の江戸時代からあった末広稲荷が爆弾で破壊され、たまたま甲府の学童疎開先から家族の許に帰ったばかりの近くの6年生の女性徒も直撃弾を受けなくなっている。この空襲については、近くに住んでいた警視庁カメラマンの石川光陽氏の写真も残っているが、末広稲荷境内の掲示板には”3月の空襲で焼けた”とあるだけで日時の記載はない。目黒区の区内の空襲をを記録するHPにも書いてない。

昭和19年11月から始まった米軍による東京空襲は敗戦の20年8月15日まで、ほとんど毎日のように続き、僕も5月23日の空襲で自宅近くに落ちてきた焼夷弾の破片を”火たたき”で消火したことがあるが、当時空襲の実態や被害については公表がなく新聞も伝えていない。だから、70年経った今では、体験者も年々すくなくなり、風化し始めてきている。わが家の近くの繁華街、自由が丘の空襲を伝えるHPには、3月10日の空襲で駅前が焼けたと記載されているが、僕の記憶では5月23日の空襲である。しかし、どちらが正しいかは断定できなくなってきた。

戦前 戦中 戦後 バナナの想い出

2015-03-04 05:47:32 | Weblog
タマゴと共に物価の優等生と言われたバナナが、このところの円高のせいか値上がりしている。散歩がてらに行く近くのミニ.スーパーでは一房百円は百円だが、小さな房が僅か三本だ。健康食として毎日ヨーグルドと一緒に食べている僕にとっては、値上がりは痛い。

バナナぐらい、その時々の想い出のある食品は少ない。初めての想い出は戦前昭和の頃、家の近くの駅前通りに出ていた夜店のバナナのたたき売りだ。戦前バナナは”おなかに悪い"という理由から、子供には買ってくれなかったが、ねじり鉢巻きカラクリ紋の男の啖呵(たんか)が子供心に面白く想い出深い。

戦時中、東京の駄菓子屋からは菓子類はいっさい店先から消えたが、何故か真っ黒の乾燥バナナとニッキだけが売っていた。多分、台湾か新しく占領した南方から加工して運んできたものだろうが、あまりおいしくなく子供には人気はなかった。しかし、どういうわけか、映画「轟沈」の主題歌が頭に残っている。
             轟沈(作詞 米山忠男 作曲 江口夜詩 昭和19年)
           ♯ 可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナが黄色く熟れて
             男所帯は気ままなものよ 髭(ひげ)もはえます 無精髭

戦後バナナが安く庶民でも買えるようになったのは昭和30年代になってからだった。31年生まれの長女の誕生日祝いにバナナケーキを買って帰宅したのを想い出す。ペコちゃん人形が大人気の頃、ケーキなどなかなか手に入らなかった時代だ。今は何でもある時代だが、バナナはやはり庶民の果物。80老にとっては想い出と共に最大に好物だ。

昭和16年のバタヴィア(ジャカルタ)の動画と当時の日本

2015-03-03 05:40:07 | Weblog
先日小ブログでジャカルタの交通渋滞について書いたところ、コメンテーターの「朱雀」さんから戦前蘭印時代(昭和16年)の珍しい動画(Duch EastIndia in HD color)あると紹介された。大東亜戦争が始まる直前のバタヴィア(ジャカルタ)とバンドンの町風景や人々の生活をかなり長尺にわたってカラーで撮影している貴重なものだ。

動画の中には1862年、幕末期に川幕府が「和蘭行御軍方」として派遣した榎本武楊ら一行が約1週間滞在していたバタヴィアの「ホテル.デス.インディス」もある。一行がバンカ島沖で座礁し、他船に乗り換えるための間、宿泊していたものだ。また、蘭印時代最古の建物と言われた「ハルモニー」(東印度会社のクラブハウス)もある。これらの歴史遺産物は、残念ながらスハルト(第二代大統領)の”開発”政策よってすべて、取り壊されてしまった。

動画からは、当時の蘭印の一見、平和な豊かな市民の生活が垣間見られる。モダンな乗用車に混じってドッカル(馬車)やベチャ(三輪車)が今は撤去してなくなった路面電車と並行して走っている。パッサール(市場)にはうづ高く、南の果物が積まれ。子供たちが露店でおいしそうに飲食している。バンドン郊外では水牛を使って農夫たちが、ゆっくりと田を耕している。

当時の日本はどうだったかー。亡父の昭和16年の日記の後記には”聖戦すでに4年。さすがに国内物資が欠乏してきた。肉がなく魚もない。野菜がなくむろん菓子など滅多に手にはいらない。どれもこれも配給で、行列しなければ手に入らない”時代になっていた。街行く自動車は、蘭印からの禁油にあい、ガソリン不足から木炭車が走っていた。

マレー作戦の勝利と藤原(F)機関の諜報活動

2015-03-02 05:40:20 | Weblog
大東亜戦争緒戦のマレー作戦の日本の勝利は、完璧な諜報活動がもたらしたものと英国側が分析していることが英国国立公文館所蔵の秘密文書の中にあることが判明した(産経新聞3月Ⅰ日付け首都圏版1面、3面)。「イスラム国」(IS)問題で、わが国の諜報(inteligence)活動のあり方が問われている時だけに、70数年前のマレー作戦の際の日本の諜報活動が、どのようなものであったかを知るのは参考になる。

マレー作戦の諜報活動の主役は、陸軍中野学校の教官であった藤原岩市少佐(当時)率いる藤原機関であった。藤原機関は、藤原のFとFriendoshipのF,それにFreedomのFをとって、現地では(F)機関とも言われていた。たまたまであるが、僕は今年4月出版する新書「大東亜戦争とマレー昭南(シンガポール)ボルネオ(英領)虐殺の真相」(朱鳥社 ☎03-5358-3984 FAX03-5358-3986)の中で、藤原機関と当時の日本の諜報活動について詳述している。どうぞ参考にして下さい。

藤原機関は開戦前からタイのバンコクに活動の拠点を起き、開戦X日を想定して入念な準備をしていた。その主目的は「マレー英印軍内のインド兵の戦意破砕、投降と離反を促し、マレー在住70万人の反英独立運動を起こす」(「陸軍中野学校」)であったが、同時にマレー国内の地勢、住民の習慣、文化などを在留日本人ネットワークを通じて調べ上げていた。これらの情報は、上陸作戦の際「これだけ読めば戦争に勝てる」(辻政信参謀編)という冊子にして全軍兵士に配られた。

戦後昭和30年代、アニメや漫画で有名になった「怪傑ハリマオー」は、戦前からマレーに在住していた、当時理髪店の息だった谷豊を藤原機関が利用し戦闘を勝利に導いた話である。今、ハリマオーの事は日本人の間では忘れかけられているが、現地ではサルタンの墓地内にきちんと丁重に葬られているとのことだ。

60、70歳代は年寄りではない 欽ちゃんの大学入学に想う

2015-03-01 06:39:36 | Weblog
タレントの萩本欽一さんが(73)が駒澤大学の仏教学部の社会人入試に合格,晴れて4月から大学生になるとのこと。萩本さんが生まれたのは昭和16年だが、この年、発表された童謡「船頭さん」の1節には”村の渡しの船頭さん、今年60のお爺さん、年をとっても”とある。戦前の日本人の平均寿命は50歳といわれていたから60歳はお爺さんであった。しかし、欽ちゃんは、すでに還暦を越え、古希の70歳まで祝っている。時代も変わったものだ。

昨日、地域の老人会の誕生日パーティに老妻と一緒に出席したが、年々参加者は減る一方。それも一見したところ、僕と同年齢か、あるいは上の80歳前後の”御婆さん”ばかりである。全参加者36人のうち男性は僅か5人で、うち3人までが僕より高齢で、70歳代は1人しかない。老人会には65歳から入会できるが、どうも都会の老人には、老人会は余り人気はない。おそらく、あと10年も経てば、老人会は、御婆さんだけの会になってしまうだろう。

誕生日会に地域の包括センターの職員が来て、僕ら老人には多少耳にタコになっている「振れこめ詐欺」と「認知症」の説明である。寸劇をまじえて、僕ら年寄りに解かりやすく説明があったが、同じ老人でも介護のデイサービスのお年寄りとは違う。老人会に出てくる老人は、自分の意思で社会参加しているし足腰もしっかりしている。席上、職員たちは、認知症予防だとして”後出しジャンケン”を披露、全員に参加を求めた。目くじらたてるほどのものではないが、これでは若い人は老人会には出てこない。

超高齢化社会の到来で、一口に老人といってもライフスタイルが多様化し変化してきている。大学生に対して、認知症予防体操を”強要”すれば、二度と出たくない気持ちになるだろう。誕生日パーテイは、年を忘れて楽しんだほうがよいと思うのだが。

ジャカルタ 世界一交通渋滞都市からの解消

2015-02-28 06:14:21 | Weblog
世界一と悪名高いジャカルタの交通渋滞解消のため三井物産.住友物産企業連盟が都市交通鉄道(MRT)と地下鉄を組み合わせた”鉄道インフラ”契約をインドネシアとの間に結んだ。この半世紀近く年に一度はジャカルタを訪れている僕にとっては朗報である。ジャカルタ市内の交通渋滞は、慢性的でラッシュ時にはニッチもサッチも行かず、大気汚染も局に達していた。完成はまだ先のようだが他人事ながらほっとしている。

僕が初めてジャカルタに駐在していた1966年(昭和41年)当時は今のような渋滞はなかった。まだ中心部のロータリーでは暴走族の遊び場になっていた。しかし、モータリゼーションの波ととに、公共交通機関がバスだけの”交通地獄”化に陥った。しかも都市政策の判断の誤りから、有料道路の建設を優先させた。このため一見、道路インフラは整備されたが、本来の機能は失ったままである。

オランダ植民地時代には当時の街の中心部、コタから郊外のオランダ人住宅地を結ぶ路面電車もあった。また市内には二つも立派な鉄道の駅舎もあり、ジャワ島各地を結ぶ鉄道も整備されていた。戦前、この地を訪れた川義親侯は、著書「じゃがたら紀行」(中公新書)の中で、その立派さに触れている。しかし、僕が駐在していた時には、路面電車は軌道が部分的に残っているだけで廃止されていた。鉄道も荒廃していて、僕は滞在していた期間、一度も利用したことはなかった。

ジャカルタはラッシュ時には、三人乗車していないと、中心部に入れないという規則があり、そのために郊外の入口には小遣い稼ぎの女性や子供がたっている。こんな姑息な制度で、どの程度で渋滞が解消されるかわからない。こんな状態だから、せっかく市内には、”じゃがたらお春”時代からの旧跡や博物館などがあるが、観光バスが走れない状態である。一日も早くジャカルタ市民のマスク姿が消えることを祈っている。

民主党はあまりにも”重箱のスミ”すぎないか

2015-02-27 06:55:46 | Weblog
また「政治とカネ」の問題で日本の政治が停滞している。西川公也農相が”解からない人にはいくら言っても解からない”と変な”捨て台詞”を残して辞任したが、民主党はこれを先途と安倍総理の任命権を問題にし、さらに今度は今度は、下村博文文科相の後援会の活動が政治資金規正法に違反していると連日、国会で追及している。

”政治とカネ”の問題は今一つ国民には解からない。第二次安倍内閣になって、この問題で辞任した閣僚は7人もいると民主党幹部が勝ち誇ったように言っていたが、僕からみれば、”政治とカネ”といえばむしろ民主党政権時の鳩山由紀夫総理や小沢一郎幹事長の顔が浮かんでくる。これだけ、いつも問題になり、政治が停滞するのは何故なのか。政治家のモラルがおかしくなったのか。それとも、これを規制する法律自体に欠陥があるのではないのだろうか。

民主党の下村文科相の疑惑について新聞報道をみたが、素人の僕がみても違法性があるとは思えない。ここまで問題にするのは”重箱のスミを楊枝で突っく”みたいなものだ。民主党はさきの党大会で”批判ばかり”という世論に対して反省し、政策中心の党にすると公言したばかりだが、今国会を見る限り、これまでの通りの”揚げ足取り政党。下村文科相に次いで、次は望月環境相、上川法相の”疑惑”を追及する構えだという。

それにしても、どうして政治にそんなにカネが必用なのか。次元は違う話かもしれないが、奈良県吉野郡のの町村議長会の懇親会で公費を使用してコンパニオンを呼んで大騒ぎしていたという。これでは、いくらおカネがあっても足りない。永田町の先生方には、このような方はいないと信ずるが。