☆ ブログ光のチャレンジ ★「魂の似顔絵」テレパスアートは「テレパスアート」のHPからお問い合わせ&お申し込み出来ます♪

1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

共鳴する時空

2012-11-20 | 「アズミックアート物語」21~ その後
最近初めて気が付いたことがある。
12月21日の「アズミックアート」展の準備のために歌を録音して聴き直していた時のこと。

この歌が出来たいきさつはまた別の機会に譲るが、この歌はすでに2002年(平成14年)に友人がそのご自宅で歌ってテープに録音してくださったものだが、今回はそれをMDに録音し直したのだ。

そのために何度も同じ歌を聴くことになったのだが、何度聴いても涙が出そうになるぐらいの感動がある。
そのことが私にはとても不思議だったのだ。
(決して自画自賛では無く、、)
なぜなら10年前に彼女のその歌声を聴いた時にはそのような感動は一切無く、むしろ少し物足りない気持ちを覚えたぐらいあっさりとした感じを受けていたので。

そして今回こんなに胸に深く沁みるのは、(もちろん自分の感じ方や感性も変化しているし)たぶん久しぶりに聴くのでその「感傷」もあるのかなぁ~?などと、まるで「懐メロ」を聴いた時のように思ったりもしたのだが、実はそうでは無く、もしかしたら実際的にもその歌声が変化している!?のかもしれない。

それは、この歌を歌っている彼女の「今」とも繋がっていて、今の彼女ならこのぐらいに歌えるに違いないと思えるし、まさに「こんなふうに歌って欲しい」と私が願っていたような変化が、保存していたテープに起きた気がする。

今流行の「塩麹」ではないが、保存してあった歌声が劣化するのでは無く、年月がそれを「発酵」させ、熟成させてくれたということ以上に、私はむしろ「今現在の彼女の状態」がこの歌声にイコールして、単なるシンクロ(「共時性」)現象を超え、直截的に繋がり、時空的に共鳴しているのでは☆ とはっきりと感じたのだ。

例えば売れなくなった歌手が何かのきっかけでまたヒットを飛ばすということはよくあることだが、そういう時にも社会情勢が変わったとか、リバイバルブームとか、そういった理由よりも、むしろその人自身の「今現在」のあり方や「波動」が、その歌に「乗り移り」?そのような結果を生むということかもしれない。

ついでながら、もう一つの体験をご紹介する。
テレパスアートを描いている時によく感じることだが、過去も未来も「今ここ」にあるというふうで描いているうちに絵がどんどん変化していく。

ある時、ある人の絵で、橋の上から身を投げる(誤って落ちた?)姿がふと浮かんで来て、「あっ!」と一瞬ドキッ!としたのだが、するとこれまで何も無かったその橋の下の川の中に突然「島」が描かれ、その落ちた人はあやうくそこに軟着陸して助かったのだ。
取りつく「島」も無いのでは無く、何かあってもこの人は助かるし、何とかなる!と信じることが出来てほっとしたのだが、実はこの体験には後日談がある。

実際にその頃に知人が歩道橋から落ちて足をくじく(救急車で運ばれて入院するぐらいの骨折)というハプニングがあり、彼女は危うく命拾い!したのだった。

それはそのアクシデントが「この絵とも関係している」ということが言いたいのでは無く、もしかしたらその時間帯にどこかで誰かが身投げしようとしていたかもしれないし、彼女はその影響をもろに受けたとも言えるのかもしれない。
あるいはまたその身投げしようとした人は私が絵を描いていることは全く知らないとしても、もしかしたらその瞬間に急に気持ちが変わって?思い留まり、その「余波」!?が知人に及んだということがあるのかもしれない。

そういったふうに、何が真実かはその表面的な「事実」からだけでは決してわからず、その元になった原因も幾つもあるだろうが、それ以上に大きいのは、「今現在」の自分自身の「選択」や行動が及ぼす「他への影響」ではないだろうか。
全ては連鎖し、「時空」は大きな透明な「輪」となって共鳴しながら動いているような、そんな気がする。

そしてこの瞬間にも全てが刻一刻と変化していき、お互いに大きな影響を与え合っていることを思う時、自分自身のする一つの「決断」や「選択」が、如何に他に対し、また「時空」全体にその波紋を広げ、反響やこだまを呼ぶかということを深く考えさせられるのである。

これまではそういったことに気付かずに、知らずに「自己本位」な行動をしていた人たちも、これからはそういうことも自然にわかってくるようになるにつれ、これからの世の中も、また人々もお互いを「思いやる」ことの出来る時代になっていくのではないだろうか。

阪神淡路大震災の頃に私の受けたメッセージは『泣かないでひかりのくにに入ろう』というものだった。

その時には「泣かないで」ということの意味がよくわからなかったのだが、東日本大震災があってから、その意味がより深く鮮明にわかるようになった。

そして「ひかりのくに」というのはどこか遠くの別世界や高い別次元にあるのでは無く、まさに「今ここ」こそ、その「ひかりの世界」なのだと感じる。

エドガー・ケーシーを日本に紹介した第一人者の福田高規先生はいつも「そんなふうに思い込むこと」「感じる」こと(「どんな感じかな、、」)を大切にしておられる。
もし私のこのような考え方が単なる私の「思い込み」(独断)だとしても、それで全くかまわないのだ。

人それぞれ、みんな自分はもう「ひかりの世界」の住人なんだと、すでにその世界に住んでいるのだと感じ、そう「思い込む」ことでより幸せに生きられ、気持ちが楽になるとしたら、こんな嬉しいことは無い。


下記の絵は『メディテーション』です。
(この絵は個人所蔵で、残念ながら今回の展示会には出展されません)




無断転載、コピーはご遠慮ください。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遺伝子交配で出来た?人類 | トップ | テレパスアート友の会 »