あずまクラブ(越前の守)です。正しい心の探究をします。

”人間は夢とロマンを持つから動物とは決定的に違う”から始めます。正しい心の探究です。

昭和天皇行幸

2011-08-31 00:25:33 | 日記
心に届けたい 自由な風より転載です。

ねずきちの ひとりごとさん
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html
アクセスを増やすために記事を書くのではない。
ブログで日本人の心を伝えたいのです。。と語る、
ねずきちさんに転載の了解をいただきました。
大変感動したお話だそうです。。
長文ですので、こちらでは、一部略してあります。
全文は、リンク先のブログでお確かめください

昭和天皇行幸
お腹を空かせた者がいたら、パンを与える。
けれどそれでは一時しのぎにしかならない。
なので、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を
諭すのがより良いことだ、そんな話を聞いたことがある方も
多いのではないかと思います。
だけど日本には、それ以外の第三の道がある、というお話しです。

昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が
支配する闇市があちこちに立ち並びました。

それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。
その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。
そこで昭和24年5月に、陛下の佐賀県行幸のときのお話しを、書いてみたいと思います。
感動です。

昭和天皇の行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。
実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。
この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。

~~~~~~~~~
この戦争によって祖先からの領土を失い、
国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく
歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることが自分の責任と思う。
~~~~~~~~~

当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の
大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。物価も高騰する。

お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。
そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなとき、陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。
中略。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある
因通寺というお寺に行幸されています。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを
百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の
御許に奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が
戦死者に対して詠まれた次の二首です。

 やすらかに
  眠れとぞ思う きみのため
   いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん
  ことのはもがな たたかいの
   にはを偲びて すぐすやからを

というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、
御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。
陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。
その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、
などと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと
集まった方々に声をかけていたといいます。
中略

陛下が寺の山門に到着します。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。
そうです。

石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。
陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。
中略

この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。
「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。
預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申された。
住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。
この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。

頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。
そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。
すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、
お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。
これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。
次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申された。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。
それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。
重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。
陛下の目は、一点を見つめています。

そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになります。
「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。
「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、
きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。
だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。

部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
そして陛下は、「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。
そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。
その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。
子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。
その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、
自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。
陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。
でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。
軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもう
かなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。
そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
そばにいた者全員が、この様子に涙した。
遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。

そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。
実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても
天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、
私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、
深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、
日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」
陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。
「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
そして、
「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、
戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。
俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。

いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申したそうです。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。
御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。
宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ

※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
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