・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

刃裏の汚れたハサミは切れない

2015年04月14日 | つぶやきの壺焼

100円ショップのハサミも、よいのに当たればよく切れます。
シャリシャリと音だけはよくても、支点のネジがすぐゆるみ、使っている途中で締め直さなければならないものもあります。

XXとハサミは使いようと言いますが、使いようの前に、使えるようにしておくことが、切れ味を保つ要諦です。
最も肝心なのは、刃の裏面をきれいにしておくことです。

どこかの国で、側近の汚れが目立ち過ぎて、自分では切れ味鋭いつもりでいらした大統領も、さぞ眉にしわを寄せていらっしゃるだろうという事件が起きています。
事件というのは、報道されたときに生まれます。
いつも汚れていれば、汚れが事件ではなく、すっぱ抜かれることが事件なのです。

その国では、切れ味などは意に介さず、ぐいぐいと切り刻む、ハサミとはそういう道具なのだとされているのかもしれません。
焼き肉屋で目の前に出された肉の大きな塊を、大型の裁断挟で切り分けて食べさせる、豪快さというか強引さというか、あれが日常なのでしょう。

汚れが当たり前の国とのつき合いに、相手をきれいにしてやろうと考えて何かを仕掛けても、ほとんど徒労に終わります。
切れ味のよさを味あわせてやろうと思うのは、こちらの独りよがりです。
かと言って、おつき合いにこちらが汚れる必要はありません。
汚いところでは汚いことをしてやれと、バカな高校生が何か仕出かしたようですが、グローバルではなく愚弄バカを演じてみせたのは、切れていないあたまのどこかに汚れカスがついていたのでしょう。

作り話を歴史物語と勘違いしてTVドラマに夢中になっていると、あたまの汚れカスはだんだん溜まってきます。
ご用心、ごようじん。

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原理主義はなぜ嫌われるのか

2015年04月13日 | つぶやきの壺焼

原理原則はそうなっているあたりまえのことと尊重されるのに、原理主義と名がつくとなぜ嫌われるのでしょうか。

主義のあたまにつく原理は、そうなっていることでも、そうでなければならないということでもなさそうなのです。

あたまの働き、こころの動きが、どうしても引きずられてそうなってしまう何かなのです。
姿を見せずにじっと構えている気味の悪いその何かは、人のこころをつかんで離しません。

ものごとのひとつひとつに判断過程を経ないことには変わりはないのですが、判断の要らないのが原理で、判断をさせない許さないのが原理主義であるように思えてきました。
「なってしまう」のだから判断を許さない、なんでもひとと同じでなければならない、これでは窮屈でたまりません。

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旗の力は 見る方向で変わるか

2015年04月12日 | つぶやきの壺焼

旗には、それぞれにそなわった力の強さがあります。

国旗は、外から見られるときも内から見るときも、力の強さは変わりません。
布で染められても、紙でつくられても、国旗はその力を変えません。
儀式のときに国旗掲揚の是非を論議しているような、奇妙な状況からそろそろ抜け出さなければ、外からその国旗を見る人に、力を感じさせることはできないでしょう。

同じような形をしていても、力を持たない旗もあります。
そのときの目印というだけの旗です。
目印の旗は、外からの視線にだけ力が集まりますが、その力には時限があります。

国会がひとまず終わったあるとき、「ある程度の旗を示せた自負はある」と某党を代表した総括発言がありました。
「旗を示せた」と言われたときのその旗には、内側からしか見えない微弱な力しかなさそうです。
立てたという言葉だけの、幻の旗だったかもしれません。
外から多くの視線を集め、見る目にまばゆいほどの力をもつような旗であれば、旗を立てたつもりであったと後付けの言い訳のような説明もいりません。
細かい銭勘定論争や、酒席での言葉の揚げ足取りなどで時間をつぶしているようでは、力をもった旗を立てることは、いつまでたってもできないでしょう。

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子どもの遊びで 大人と呼ばれる

2015年04月11日 | つぶやきの壺焼

子どもが駄々をこねても、それが遊びであるうちは、「やってるな」としか見られません。
大人が子供の真似をして駄々をこねれば、ほとんど醜態と見られるでしょう。
子どものまねをしているのを、それが大人の遊びだと言ってのける心の大きな人も、なかにはいます。

子どもだましという行為があります。
子どもでないとだますことができないくらい、幼稚なことなのですが、ときにはその仕掛けに乗ったふりをする、大人の遊びもあるでしょう。

しかし、そんなことが許されるのには、場と時間の区切りがなければなりません。
大きな団体が世界中に向かって、何年かは続きそうな子どもだましを仕掛けたのでは、大人の遊びどころではありません。
囃したてるほうも、あまり高価な入場料は払わないようにしないと、仕掛け人は図にのります。
入ってみたら、入場客どうしが大勢でわいわいやっているだけで、しばらくすると楽屋はもぬけのから、それもないとは言えません。
座長は、縄張り拡張で名を挙げよとしている、子どもだましの名手だったということもありますから。

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この指とまれは 子どもの遊び

2015年04月10日 | つぶやきの壺焼

♪ ギンコごっこするもの__この指とまれ
ギンコごっこするもの__この指とまれ
はやくしないと__指きるぞ__指きる__ぞ指きった

子ども銀行は、審査なんて難しいことは言わないの。
わたしが選んだ理事さんが、なんでも相談すればいいのよ。
おとなしい理事さんたち、きっと私の言うことをきくでしょ。
相談をどこでいつやるかは、私がそう思ったときにしらせるから。
とにかく集まること、おカネ集めがだいじなのよ。
集めたおカネ、いつどう返すかって、そんなことはじめからわかるわけないでしょ。
あなた、返してもらうつもりなの。ケチ。
もう遊んであげないから。

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逆ではだめなこと

2015年04月09日 | つぶやきの壺焼

逆転の発想などとよく言われますが、ものごとで逆転が許されるのは発想の手法としてであって、自明の理であることまで逆転させようとすると無理が生じます。

始末の悪い逆転もあって、公と個の逆転、目的と手段の逆転などがその部類に入ります。

公は個の組み合わせですから、個が公より上位ということはあり得ません。
公の顔をして、ときどき中の個が公らしくないことをしでかすこともあります。
その場合には、弾劾されて当然なのですが、ダンガイの気流に酔ってしまい、場合の当否も見極めずに公を攻め立てる、外れた個もあらわれます。


科学研究などは、個が単独で行えることはたかが知れていますから、公の中で行われることが多いでしょう。
その場合には、研究成果は公のものであって、個の領分は研究の過程でしかありません。
成果を得られたことが公に貢献して、公から賞せられることもあるでしょう。

しかし、公から賞せられたからといって、その成果の分け前を自分のものにしたいという個の考えは強欲でしかありません。
公のなかで行ったことを、個人の権益の材料にするのは大間違いです。

国内でそれが認められないからと、頭の中にあることや体験から得た技術を、外国に出て売り歩く行為は、まさに公と個の逆転です。

発想には大いに逆転を、しかし逆転が目的になっては人間失格、サルに逆戻りとうことになります。

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選挙公報が来た

2015年04月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

4日後に行われる県知事選挙の公報が配られてきました。
片面3段に組まれています。
立候補者が2人しかいないので、表の下3分の1は空白です。
裏も空白で枠線だけではいくらなんでもと思ってか、投票日と投票時間を、灰色の大きな文字で印刷してあります。

表の下端欄外には、これも灰色の文字で、こう書かれています。
「この選挙公報は、候補者から提出された原稿を、そのまま写真製版によって印刷したものです」

規定に外れない範囲で精いっぱいの知恵を働かせた証拠を、シッカリと刷りこんであります。

表面の空白は、なぜ埋めなかったのでしょうか。
埋めてはならない規定になっているのでしょう。

では、こうなった場合に有効な記事を埋め込むことができる規定に、なぜしないのでしょう。
いくつかの理屈を埋め込んでみます。
1.候補者が2人しかいないような状況は、想定外にしておかないと、地方政治への意欲を減退させる、かもしれない。
2.人間の感覚は微妙なもので、その記事によって投票者の意思に影響を与える、かもしれない。
3.空欄をそのまま残すことで、その選挙の空虚感を忘れさせない効果がある、かもしれない。

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持ち主不明の土地がまだあった

2015年04月06日 | つぶやきの壺焼

インドネシアには島が2万もあって、政府もその数を把握できていないという話を聞きました。

へぇーと笑っているわけにはいきません。
日本でも、島どころか、本州で持ち主不明の土地が増え続けています。
持ち主はいないのではなく、所有の手続きをしないからわからないというだけのことです。
私の土地だと言えば税金をとられるからそれが嫌で、知らん顔の人が増えるのはわかっているでしょう。

届けると不利だから届けない、それなら、届けなければ不利にすればよいのではありませんか。
不明の土地を見つけたら、公告を出し、一定期間応答がなければどんどん国有地にしてしまいましょう。
そうせずに、島でなければ大丈夫だろうと呑気にかまえていると、いつのまにかずる賢いどこかのひとに占領されてしまいます。

もちろん、国有化などとんでもないと反対する人はいます。
その人は、多分自分の一族に持ち主不明土地をもっているか、あるいはそのおかげで何か特権を得ているに違いありません。
解釈自由なふにゃふにゃ憲法が邪魔なら、芯のとおった条文に早く改めましょう。

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爪に火はともらなくなった

2015年04月05日 | つぶやきの壺焼

札は掴んで持ち、投げ捨てるように使うもの、それが大人-タイジンのすることと思っている国があります。

爆買い、何かが爆裂したかのような買い方、それをするときに働くのは、店の棚に並んだものすべてを自分のものにしたいという欲望だけです。
持ち帰ってどうする、運ぶのにどうする、そんなことはどうでもよいのです。
一度に品物がなくなったら、その日のうちにきた次のお客さんが困らないだろうかと、無用の情けが頭をかすめるようでは爆買戦士にはなれません。

戦士はひとりでは戦いません。
武士ではないからです。
戦士には集団行動が欠かせません。
もし買い尽くせなければ作戦失敗、そうならないためにはタグチームが必要ですから。

爆買作戦には大量の札束が必要です。
弾薬補給を切らさないためには、カネを集めなければなりません。
カネを一挙に集めることのできる最強の機関は銀行です。
世界中からカネを集めれば、世界中で爆買いができると思うのでしょうか。
その考えは「世界中」というところだけに向いていて、ほかのことは眼中にありません。

カネを集めるには「名目」が必要です。
出す側にも名目が必要だからです。
「名目」、それは文字どおり名前の目玉です。
することは銀行ゴッコのようなことでも、夢の香がすれば欲の皮は自然に寄ってきます。

「インフラ」この言葉は「福祉」と並んで強い集金機能をもっています。
「福祉」では外国からカネがやってこないので、やはり「インフラ」でしょう。
広大な土地とインフラ、さまざまな遠大なイメージが湧きます。
カネを動かしたい人の心はそれに吸い寄せられます。

彼の国からはるばるやってきたバクという動物は、夢を食うのだと、むかし聞いたことを思い出しました。

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昔の味は美味かったのか

2015年04月04日 | つぶやきの壺焼

昔はよかった、今を嫌う人の言葉です。
もちろん若い人はそう言いません。
昔を知らなければよかったこともわかるはずがないからで、あたりまえです。

昔はよかったという言葉には、食べものの味のこともあります。
言葉にも好い言葉と嫌な言葉があるように、味にも好い味と嫌な味があります。

好い味は、みな美味い味かというと、そうでもなさそうです。
いまの味より不味くても、それが懐かしいこともあります。

懐かしい味には、その食べものが元来持っていた素材の味もあれば、添加された味もあります。
懐かしい味が、調理の過程から生まれたものでない場合は、自分で作り出すことはできません。

ソーセージのような加工食品にしても、昔の味を懐かしがられても、そんな味しかつけられなかったのをいまさらということもあります。
また巡り会えることを望んで、待っていても、探し歩いても、たぶんその機会はもう来ないでしょう。
これが本当の味だなどと粋がっても、それに値段がつくのは、もの好きが生きている間のことで、それほど長く続かないかもしれません。

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結んで開いて手を打って

2015年04月03日 | つぶやきの壺焼

屋根の形の違うバスが、並んで止まっています。

排気孔のあるものと、密閉されたもの、多分密閉型のほうが新しい型なのでしょう。
新型は拍手で迎えられたことでしょう。
排気は室内温度もいっしょに連れ去りますから、孔は省エネルギーの敵でした。

ところが、密閉すれば空気浄化が必要になり、それにはエネルギーを消費します。
密閉は閉塞感を生み、それに対抗する心的エネルギーを働かすことにもなります。

ムダのもとを閉じ込めたつもりが、また無駄をこしらえる、この星の人は何をやっているのでしょう。
隣の星から超々望遠レンズを通して眺めた、ある駅裏バス停の風景です。

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キャッチのつもりがズッコケ寸前

2015年04月02日 | つぶやきの壺焼

新千歳空港は、温泉あり、シネコンあり、これが空港かというすばらしいところと報じられています。

この報で耳に残ったのは、「最後の観光地」というキャッチコピーです。

最後は、同じ発音で最期を連想させます。

「入り口でない、出口の空港」という言葉も入っていました。
出入りよりも「待ち場」はどうか、町場にも通じそうなどと思ってもみました。

しかし、最後、最期、出口、ではね、どうもあまり心地よい響きに感じられません。
思いつきだけにおまかせの名づけは考えもののようです。

気持ちのどこかに引っかかりができるようにしておくのもキャッチの技法だよ、そんな声も聞こえそうですが、ズッコケ寸前の負け惜しみのようでもあり、キャッチの技は、野球でも言葉でも、なかなか難しいものと、あらためて思っています。

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略称は どこか不気味に聞こえる

2015年04月01日 | つぶやきの壺焼

略称が、妙に不気味に聞こえるときがあります。

気の狂ったパイロットは、何の心配もせずにいた乗客を、いきなりあの世へ案内するパイラーになります。
健康診断でも、友人との話の節々にも、予兆があって見抜けなかったのは、ジンケンとコジンジョーホーの擁護保護の考えに、どこか歪んだところ、それが言い過ぎならば、行き届かなかったところがあったのです。

信用という名目で、かかわりを浅くする逃げの空気の濃度がだんだん増えていく、そんな傾向が人間社会にはありそうです。

LCC Low Cost Carrier を呼ぶこの名も、操縦桿をちょっとひねると、Last Century Carrier という恐ろしくも不気味な言葉になります。

問題は、人間がシステムの外にいられるように望む構成の考え方にありそうです。
何もかもシステムにすっかりおまかせでは、人間の世紀はそのときが最後になってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。

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