あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

本部神殿奉仕にて。。かんろだい。。小難は無難について。。

2021年10月09日 08時10分57秒 | 思った事

今月も無事に、本部神殿奉仕を終えさせて頂く事が出来た。

緊急事態宣言が解除されて、先月急遽お休みされていた先生方も来られて、いつものように余裕を持った時間配分での勤めとなった。

先月に引き続き、今月も「かんろだい」の話が出た。

先月は北東に傾いていたのだが、北へ傾きながらも、背骨のように曲がりくねったようになっていた。

また、上から3段目がはっきりと回転してずれている事が分かった。

そして、撤饌の時に、一番上とその下の台の間にすき間がある。という事が分かった。

つまり、台が縮んで、ほぞの部分が長くなり支えられているのである。

それで、背骨のように曲がっており、回転してずれる現象も起こるわけだと理解した。

 

「かんろだい」は、人間を宿しこんだ場所であるぢばに据えられているから、かんろだいなのである。

同じようなものが作られたとしても、それがぢばに据えられていなければ、かんろだいではない。

この点を間違えてはならない。

その理由の一つは、「人間宿仕込みの証拠としてかんろだいをすえておく」と言われ、その人間宿仕込みの場所は、ぢばであるからである。

だから、石のかんろだいが2段まで出来ていたが、それが取り払われて、ぢばに置かれていなければ、それは「かんろだい」ではないのである。

人間宿仕込みの証拠として、陽気づとめ・たすけづとめ・かぐらづとめをつとめる中心に据えられて、「かんろ」を受けるための台ではなくなるのである。

一昨日、教会で朝読んだ「おふでさき」が17号の最後の区切りであった。

けふまでハとんなみちやらしれなんだ
これからさきハみちをしらする (17-56)

このみちハどふゆう事にをもうかな
月日ざんねんいちじよの事 (17-57)

このざねんなにの事やとをもうかな
かんろふ大が一のざんねん (17-58)

このざねん一寸の事でハないほどに
どんなかやしを月日するやら (17-59)

どのよふな事がありてもうらみなよ
みなめゑ/\にしてをいたのや (17-60)

このさきハせかへぢううハとこまでも
高山にてもたにそこまでも (17-61)

これからハせかい一れつたん/\と
むねのそふちをするとをもへよ (17-62)

このそふぢなんとをもうぞみなのもの
神の心をたれもしろまい (17-63)

月日にハどんなざねんがあるとても
いまゝでぢいとみゆるしていた (17-64)

さあけふハ日もぢうふんにつんできた
なんてもかやしせずにいられん (17-65)

このかやしなにの事やとをもている
神のさんねんばかりなるぞや (17-66)

このざねん一寸の事とハをもうなよ
つもりかさなりゆへの事やで (17-67)

月日にハせかいぢううハみなハが子
かハいゝばいをもていれども (17-68)

それしらすみな一れつハめへ/\に
ほこりばかりをしやんしている (17-69)

この心神のざんねんをもてくれ
どふむなんともゆうにゆハれん (17-70)

いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
これからさきハさとりばかりや (17-71)

このさきハなにをゆうやらしれんでな
どふぞしかりしやんしてくれ (17-72)

さと/\たをと/\びよさま/\ (17-73)

このはなしあいづたてやいてたならば
なにゝついてもみなこのとふり (17-74)

これをはな一れつ心しやんたのむで (17-75)

であった。

「かんろだい」が取り払われた事が一番のざんねんであり、そのざんねんを晴らすための道を行うと宣言されている。

そして、

「どのような事が起きても恨むな、すべて自分たちでした事なのだから」

と言われるのである。

教祖が現身を隠される時の問答で、応法の道が始まった事が明らかにされている。

今その法が世界中で問われている。

不正選挙で当選をして、自分勝手な法律を自分勝手に作り上げようとしている事が表立ってきている。

「人間は法律があるから、神様の言う通りには出来ません」と言った言葉が、どれだけ人間思案の言葉であるかと思えてならない。

心が澄む事。心を澄ます事。

そして、親神様の心を心にうつす事。

これが何より大切だと思った。

「ざねんのものは何時に夢見たように散るやしれんで」

おふでさきの一節だと思ったが、身上になる事を嫌ってはならない。

身上になり、その身上から親神様の思いを悟らせて頂いて、心を澄ますのである。

身上になる事は辛い事である。

私も何度も何度も身上で苦しんできた。

特に痛みはとても辛いのである。

 

けれども、その痛みが無ければ、神様には願わないのである。

神様に願わないという事は、自分中心の勝手な考えで、ほころの心を積んでいる事にすら気が付かずに、人の上に立ち、人を惑わしている場合もあると考えられるのである。

 

先日、

大難を小難にして頂く事ばかりを考えていた。

ところが、小難を無難にして頂いている事に、ワクチン接種の副反応で苦しんでいる方々の記事を見て、気が付いた。

とFacebookに書いた。

無難にして頂いている事。これに気が付かないと、自分は大丈夫だからと、大変な事に加担している可能性もあると思えたのである。

この、大難は小難に、小難は無難にという事は、自分のいんねんを悟っていないと分からないものである。

このいんねんもただ単に、身上や事情が起きるという考えではなく、特に無難は、自分の癖・性分から自覚しないと分からないものであると思う。

 

人間の記憶というものは、本当にあやふやなものである。

聞いて思っても、そのように行動できない事があるのである。

聞いて思って、そのように行動できることがどれだけ素晴らしい事か。

これが無難なのである。

しかし、これを当然と思う中に、間違いが起こってくる。

かしもの・かりものである。

心通りの御守護。心通りに、思い通りに体が動く事がどれだけありがたい事か思うのであるが、それ以上にありがたいのは、神様から身上の印を頂いて、心を変える事が出来る事だと、思えるのである。

 

すべては、いんねんによるものである。

見るもいんねん聞くもいんねんであり、

同じものを見ても聞いても、受け取り考えるはその人のいんねんの心である。

世界中が陽気ぐらしが出来るための、受け取りが出来るような心にならせて頂きたいと思う。

 

おぢばから名古屋へ帰る前に、ちょっと時間があったので、思うままに書きました。

読みにくい文章、お許しください。

親神様・教祖、今日も一日よろしくお願いいたします。

 

コメント
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