「おふでさき」の冒頭の8首は、「よろづよ八首」であることは、だれでも知っている事であるが、
「よろづよ八首」が、「みかぐらうた」の一番最後に出来た事は知っているだろうか。。。
まず、「よろづよ八首」と「おふでさき」を記しておく。
《第四節》【よろづよ八首】
よろづよのせかい一れつみはらせど
むねのわかりたものはない
そのはずやといてきかしたことハない
しらぬがむりでハないわいな
このたびはかみがおもてへあらわれて
なにかいさいをときゝかす
このところやまとのぢばのかみがたと
いうていれどももとしらぬ
このもとをくはしくきいた事ならバ
いかなものでもこいしなる
きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるを
かみがでゝなにかいさいをとくならバ
せかい一れついさむなり
一れつにはやくたすけをいそぐから
せかいのこゝろもいさめかけ
(なむてんりわうのみこと)(よしよし)
【おふでさき】
1号 72才老女 明治2巳年正月従
よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから (1-1)
そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや (1-2)
このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする (1-3)
このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい (1-4)
このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる (1-5)
きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん (1-6)
かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる (1-7)
いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて (1-8)
だん/\と心いさんてくるならバ
せかいよのなかところはんじよ (1-9)
このさきハかくらづとめのてをつけて
みんなそろふてつとめまつなり (1-10)
みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむる (1-11)
「おふでさき」は、その後のつながりが分かるように、11首まで書いておいた。
次に、作成順を示すために、「改訂天理教事典」の年表を示しておく。
慶応2年(1866年)に第一節「あしきはらいたすけたまへてんりわうのみこと」が教えられる。
慶応3年(1867年)にみかぐらうた「12下り」の歌(正月から8月)と手ぶり(以後3か年間)を教えられる。
そして、
明治2年(1869年)におふでさき第1号を(正月)に、 第2号を(3月)にご執筆になる。
明治3年(1870年)に「ちょとはなし」及び「よろづよ八首」を教えられる。
このちょとはなし」は「かぐらづとめのだし」として、「よろづよ八首は12下りのだし」として教えられた。
だしとは、出だしという意味で、その事により、12下りの前によろづよ八首が歌われている。(かぐらづとめの順序については、今回は省略しておく)
「よろづよ八首」の意味が分かりやすいように、次に「おふでさき註釈」を記しておく。
よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから ( 1号001)
註釈 1
親神がこの世を創めてから永い歳月の間には、幾億という数知れない人々が生を享けて来ているが、いつの時代を眺めても、広い世界の中に、たれ一人として胸の分かった者がない。
そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや ( 1号002)
註釈 2
それも無理のない事で、今までこの真実の教を説き聞かした事がなかったから、止むを得ない事である。時々その時代の聖賢を通じて説き聞かした事はあるが、是等は総て時宜に応じた神意の現われであって、最後のものではない。これは、未だ旬刻限が到来しなかったからで、止むを得なかったのである。
このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする ( 1号003)
註釈 3
しかし、この度こそはいよいよ旬刻限が来たので、親神である天理王命が、この世に現れて、親神の意中を万事詳細に説き聞かそう。
註 このたびとは、天保九年十月二十六日、旬刻限が到来して、教祖様をやしろとして、この教をお始め下さった時をいう。
神がおもていあらハれてとは、教祖様を親神様のやしろとして、即ち、教祖様のお口を通じて、親神様のお心を、世の人々へお話下さることをいう。
このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい ( 1号004)
註釈 4
ここは大和のぢばのかみがたであると言うているが、何故ぢばがかみがたであるかという元は知るまい。
註 しバは、ぢばで、親神様が人間を最初に宿し込まれた所、即ち、我々人間の元の親里を指す。
かみがたは、神館の詰まったものと解す。
このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる ( 1号005)
註釈 5
大和のぢばがかみがたであるその元来の訳を詳しく聞いたならば、どんな人でも自分達の元の故郷であるぢばが慕わしくなるのであろう。
きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん ( 1号006)
註釈 6
この根本のいわれを聞きたいと思うならば、尋ねて来るがよい。この世の成り立ちを初め総ての理を詳しく教えよう。
かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる ( 1号007)
註釈 7
真実元の親神がこの世に現れて、無い人間無い世界を創造した親神の恩ちょう、たすけ一条の道を詳しく説き聞かしたら、世界の人々の心は、真実の教によって皆いそいそと晴れやかになる。
いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて ( 1号008)
註釈 8
たれ彼の差別なく総ての人々を、一日も早く救けたいから、親神の胸の中を悟れるように世界の人々の心を勇ませる。
註 以上八首は、「みかぐらうた」の「よろづよ八首」にあるものと殆ど同じである。ただ「おふでさき」に於ては五七五七七となっている和歌調が、「みかぐらうた」に於ては五七五七五となっている。
と、示されている。1下り目が「正月こえのさづけはやれ珍しい」と始まるわけだが、不思議な農作物の豊作、そして助けを表す話が出てくることと、そのためにおつとめを勤めさせたい思いが、次のお歌から出てくることを思えば、よろづよ八首が12下りの出しとして、はじめに歌われる事も理解できるように思う。
次の3首も記しておく。
だん/\と心いさんてくるならバ
せかいよのなかところはんじよ ( 1号009)
註釈 9
世界の人々の心がだんだんと勇んで来るならば、煩もんしたり焦ったりするような心持は無くなり、皆が、互い扶け合いの精神で、各々自分の仕事に励むようになって来る。従って親神もその心に添うて守護するから、世の中の生産は豊かになり家業は繁じょうして、何処へ行っても争いなどは無くなり、人々は平和に幸福に暮らせるようになる。
註 よのなかは、よんなかとも言われ、豊じょう満作の意。
このさきハかくらづとめのてをつけて
みんなそろふてつとめまつなり ( 1号010)
註釈 10
これから親神は人々にかぐらづとめの手振りを教えて、人衆そろうてつとめをするようになるのを待ち望むのである。
註 かぐらづとめとは、かぐらづとめでかんろだいを中心にして、元初まりの十柱の神様の理をたたえて、十人の人々によって奉仕するおつとめであって、このおつとめによって親神様にお勇み頂き、済世救人のお働きをお願い申すのである。
このおつとめは又、場所の上からかんろだいのつとめとも、又、神人共に勇むという理の上からよふきづとめとも、又たすけ一条のつとめである上からたすけづとめとも仰せられている。(第六号30註、第十号25-27註及、第十五号52註参照)
このおつとめは、ぢば以外に於ては許されない。「おさしづ」第391-392頁、第405頁参照。)
みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむる ( 1号011)
註釈 11
人衆そろうて一日も早くかぐらづとめをするならば、親神は人間の実の親であるから、子供が喜び勇む有様を見ると親心として親神の心も勇んでくる。
と記されている。
「おふでさき」は、読まねばならぬが、「みかぐらうた」はいつでもどこでも唱えて、踊る事も出来る。
「よろづよの世界一列見張らせど、胸のわかりた者はない」
である。
胸が分かるようにしてやりたいのが、親神様の思いでもあろうかと思う時、「つとめ」と「原典」に親しむことで、成人の歩みが進むのだと改めて思った。
「人が神やで」とも聞かせてもらう時、それぞれに親神様は入り込み、導いてくれているとも思う。
今朝のおふでさきが、一号の最後の区切りだったことから、このような事を書いた。
悟りばかり。。。である。
今日も一日頑張りましょう。