昨日、アメリカ、ワシントンDCの周辺の地下に、迷路のように通路などが作られて、そこにとても沢山の子供たち、そして遺体などがあり、それをアメリカ軍が救助したという記事を見た。
以前からショッキングな事が起こると言われていて、それを一般人の人が見たら、大変な事になるとも言われていた。
この記事が書かれていたのが1月19日だったので、それから20日以上たっているわけであるが、その間に他にも様々な情報を聞き、世の中にとてもひどい事が、平然と隠れてされていた事や、現在でも情報戦が行われている事は分かっているつもりでいた。
けれども、この記事を目にした時には、ショックが大きかった。なによりも、その場所で議会が開かれているという事、議会を開いている人々は、本当にこの事を知っていながら、会議をしているのだろうかという事。これらが何よりも理解できず、不思議でならなかった。
その後、ランダムに表示されるYouTubeを見ていると、宇宙人からのメッセージの動画が目についた。「愛を伝える宇宙人」からのメッセージである。
その話を聞きながら、「いんねんならば通らねばならない」「嫌なものでも、見なければならない『いんねん』ならば、見なければならないのである。しかし、その与えられた物をどのように感じて、自分の心をどのようにコントロールするかは、自分の心次第。その自分の心をコントロールする事を学ぶなり、良い方へとコントロールすることが、教祖が教えられた『いんねんの切り替え』そのものだ」と思った。
実は、以前からずっと思っている事がある。
それは、「陽気ぐらし世界実現と言われるけれども、それを実現する主役は誰だ!」というものである。
今これを書いていて、簡単に表現するにはどうしたらよいかと思って、上記の言葉を書いたが、このようなことを思うようになったきっかけは、「秀司様が教祖の言うとおりに行わなかったからだ」とか、「天理教の教会長がしっかりとしていないから、うちの売り上げが下がっている」などという声を聞いたからである。
両方の言葉は事実である。秀司様も教祖のお言葉に従わずに行われた事柄は、『天理教教祖伝』にしっかりと書かれている。また、自分自身も教会長としてしっかりしているかといえば、そうではない。全くその通りである。
しかし、今私が問題としたいのは、「この言葉を言った人はどうなのか!」という事なのである。私自身を振り返ると、自分もこのように思っていた時がある。
ところが、かしもの・かりものを得心し、魂の生まれ変わりを信じるようになると、こうした考え方から抜け出す事が出来なければ、親神様が望まれる陽気ぐらし、病の根を切り、謀反の根が切れる陽気ぐらしには届かないと思うようになり、自分の心の切り替えを重要視するようになった。
そして「自分自身はどうなのか!」「このような状況に会ったら自分はどう思うのか。そしてどのようにするのか」と考えて、自分の心の中にある、善悪をしっかりと分ける事が大切だと思ったのである。
自分の事を棚に上げて、あの人がやってくれたならば、と思う心。これでは心の成人はない。自分自身に力はなくとも、出来る事からと自分自身から些細な事でも行い、心を変えたならば、それは心の成人となる。
そして、心を変えるという事は、自分の心の善悪を知り、悪を払い心を澄ますという順序があると思えるようになった。
「八つのほこり」で「ほこりでない事をほこりと思い違えたり。。。」と教えられている。混とんとしているものを、ほこりかどうかと分ける事が大切であり、その定規となるものが、「八つのほこり」の話である。
ところが、もう一つ「心を澄ます」という事から考えると、「おふでさき」に次のようなお歌がある。(3号)
こんものにむりにこいとハゆうでなし
つきくるならばいつまでもよし (3-6)
これからハ水にたとゑてはなしする
すむとにごりでさとりとるなり (3-7)
しんぢつに神の心のせきこみわ
しんのはしらをはやくいれたい (3-8)
このはしらはやくいれよとをもへども
にごりの水でところわからん (3-9)
この水をはやくすまするもよふだて
すいのとすなにかけてすませよ (3-10)
このすいのどこにあるやとをもうなよ
むねとくちとがすなとすいのや (3-11)
このはなしすみやかさとりついたなら
そのまゝいれるしんのはしらを (3-12)
はしらさいしいかりいれた事ならば
このよたしかにをさまりがつく (3-13)
このはなしさとりばかりであるほどに
これさとりたらしよこだめしや (3-14)
これらのお歌の注釈を以下に書き出す。
6註 信教は人々の自由であるから、この教に帰依する事を好まぬ者に強いて信仰せよとは決して言わぬ。慕うて来る者は末代までも安心の道が得られる。と仰せられたのである。
7 これからは水を例にとって教を説き諭しするが、水が澄んであるとは、人々の心にほこりが無くて奇麗な事であり、濁ってあるとは、人々の心にほこりが積もっている事であるから、それによって各々に悟るがよい。
8 親神が心から急き込んでいるのは、一日も早く中心を定めたいという事である。
註 しんのはしらとは、中心柱の意であって、元来は建築上の用語である。故にすべて、しんとなるものを言うておられる。
本教では、おつとめの時はかんろだいをさし、人の時にはこの道の中心になられる方をさし、心の時には中心思想を言う。
即ち、人類創造の理を現し、たすけ一条の信仰の中心地点を示すかんろだいを、「にほんのしんのはしら」と仰せになり(第八号八五参照)
本教の中心たるお方を「うちをおさめるしんばしら」と仰せになっている。(本号五六参照)
本歌は、かんろだいのつとめの完成を目指して、この双方にわたり、建設確立をお急き込み下さっている。
9 この柱を早く入れたいと急いでいるが、皆の心が澄んでないので、入れる事が出来ぬ。
註 当時、かんろだいの模型は出来て居たが、その立てられるべきぢばは未だ定まっていなかった。又、親神様は中山家の後継者にしてお道のしんばしらたる可き人を、櫟本の梶本家の三男真之亮様に決定しておられて、早くおぢばに定住させたいと思うておられたが、そばな者はこの親神様の胸の中を悟らず、各々勝手な考えを抱き、皆の者が一致していなかった事を、仰せられたのであるという。
10 註 もよふだては、催合う立てで、皆の力を合わせて準備計画を急ぐ事。
すいのは、ろ水のうで水こしの事である。
11 この水こしは何所にあるのでもない。各々の胸と口とが水こしである。即ち、悟り諭しによって、よく心を治め思案して親神の意に順うがよい。
註 むねとくちとは、悟り諭しの意。
12 この親神の話を早く人々が悟る事を得て、親神の意図に心を寄せるならば、すぐにも中心の柱を入れるであろう。
註 本号、八註参照。
13 この柱さえぢばにしっかりとすえた事ならば、それで、この道の基礎が確立し、次第に教化が世界に及んで世の中の治まりとなる。
14 この道は諭し悟りの道であるから、このたとえ話をよく悟る事が出来てしんばしらが定まり、かんろだいが建設され、人衆そろうてかんろだいのつとめをするようになったならば、それで世の中が円満に治まるようになる、という親神の意図が実証されるであろう。
とある。
3号8の註を見ると、註 しんのはしらとは、中心柱の意であって、元来は建築上の用語である。故にすべて、しんとなるものを言うておられる。
本教では、おつとめの時はかんろだいをさし、人の時にはこの道の中心になられる方をさし、心の時には中心思想を言う。
と真の柱について三つの見解がある事を述べられているわけだが、その後、これらの一連のお歌については、 本歌は、かんろだいのつとめの完成を目指して、この双方にわたり、建設確立をお急き込み下さっている。
と甘露台についてと、限定をされて解説が進められている。
これを否定するわけではないが、3号の7で、
これからハ水にたとゑてはなしする
すむとにごりでさとりとるなり (3-7)
7 これからは水を例にとって教を説き諭しするが、水が澄んであるとは、人々の心にほこりが無くて奇麗な事であり、濁ってあるとは、人々の心にほこりが積もっている事であるから、それによって各々に悟るがよい。
と言われている事から、これらのお歌をそれぞれの心に真の柱を入れるようにするための歌と読んだ場合はどうなるかと、思うのである。
また、甘露台をすえるために、ぢばを澄ますためと考えても、澄まされるのはぢばに集う人々であり、その人々を見分けするという事とも思える。
ともかく、それぞれの心の善悪を分けて澄ますにしても、人々を善と悪とに見分けるにしても、その条件は、「すなとすいの」という事であり、この「すなとすいの」は「胸と口」と言われる。
注釈では「諭しと悟り」とされているが、誠真実の解釈で、「誠真実とは、口と心と行いがあったもの」と聞かせられることを思うと、具体的には、「胸とは心や行動で、口とは発言」とも考えられると思うのである。
つまり、すでに誠真実の人々と、そうでない人々を分けるという事もあろうが、まだ誠真実を使えるまでになっていない人々が、誠真実が使えるようになるために、「しんのはしら」を入れる工程をも示されているようにも思うのである。
そのように考えると、自分の周囲に現れる事柄に対する、自分の「心と行いと言葉」を冷静に思案する事。これが「ほこりの心」に気がつく上で、まず重要な事のように思える。
そして、自らが陽気ぐらし実現の一員となる事ではないかと思うのである。
史実としては、つとめ人衆が揃わずに、甘露台を据える事も叶わず、教祖が25年の定命を縮めて、人々の心を澄ます世界だすけに出られての今日である。
こんものにむりにこいとハゆうでなし
つきくるならばいつまでもよし (3-6)
6註 信教は人々の自由であるから、この教に帰依する事を好まぬ者に強いて信仰せよとは決して言わぬ。慕うて来る者は末代までも安心の道が得られる。と仰せられたのである。
と言われているが、この教えに触れて、親神様の不思議を体感したり、感銘を受けたものは、なってくることを他人事と思わずに、心を澄ます努力が大切で、「しんのはしら」を入れる事が、これまた大切だと思うのである。
長くなりましたが、思うままに書かせてもらいました。
最後まで読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。
親神様・教祖、どうぞ、大難は小難にとお守りください。