あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

祈りましょうという動画を見て。。。

2021年02月04日 13時00分19秒 | 思った事

やらなければならない事があるのですが、落ち着かずにいる中、次の動画を見つけました。

【ご報告】今まで有難うございました - YouTube

感謝をして祈りましょうという動画なのですが、その中に様々な言葉が出て来て、これはすべて私たちが聞いて来ている事柄だと思い、ついつい書き出しました。

ちょっとだけお付き合いください。

まず、天理教を一宗教ととらえるのではなく、教祖のお話を、人間をこの世界を作った創造主からのメッセージが詰まったお話ととらえた時、ここに記される言葉は、すでに聞かされている事です。
けれども、教団の発展などにとらわれすぎて、大切な教祖のお話を聞き洩らしていないかと思ってしまいました。

教祖が夜な夜な話をされた時に、かしもの・かりもののお話が、しっかりと心に納まった方に、その次の話をされたという話しがあります。

修養科などで、学ぶ話は、教祖のひながたでありますが、教えられた言葉を学ぶ事はとても少ないです。そうした言葉は「逸話編」その他、昔の先生方の遺された書物に残っています。

その具体的な言葉がとても重要だと最近は思います。だから、このブログで、そうした書物を紹介してきました。

借りている体があるから、心が動き、気づく事が出来ます。
隣にいた人がいなくなったから、それぞれに気づきが出来ます。

そして、かしもの・かりものをしっかりと心に納めるように努力しましょう。
隣の人も、隣にいる家族も、物もすべてが借り物です。
心ひとつが、我がの物です。
そして人の幸福を願って、自分の役割、父親・母親・子供の役割もあります。また、それぞれの仕事も一つの役割です。

現在、情報が不安定です。本来信じていた物のウソが表面化して、不安定になっています。
だからこそ、親神様への思いをしっかりと持つことが大切だと思います。
物事全て、親神様の采配です。それぞれの「いんねん」に応じたものを見せられ聞かせられ、心の成人を促されています。

おさづけで不思議が現れる事、ただの洗米である「ごく」さんで不思議が現れる事。
そして、何一つなくした中山家の屋敷に、そのような不思議を体感した人々が、お礼の気持ちを持って、天理教の教会本部、神殿などが出来た事。
これ全てが、親神様がおられる証拠です。

表統領先生が、復元をずっと唱えていた事、そして今再スタートと言われること、しっかりとそれぞれが考える必要があると思います。

「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」がなぜ第1節なのか。
本来ならば、かづらづとめの「だし」として「ちょいとはなし」が最後に教えられたので、よろづよ八首と同様に、「ちょいとはなし」が一番初めに来るはずなのですが、「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」が一番初めなのです。

「かんろだい」を立てるのは、神楽づとめをつとめて、甘露を授けたいというのが、親神様の思いです。その甘露をそれぞれの心を見定めて、我々に渡して下さる。それが親神様の計画でした。

その甘露をもらうためには、心がきれいで、誠の心がつかえなければ、頂けないのでした。
だから、その甘露をもらうために、人間自身が心の掃除を自らするだろうと思われていました。

けれども、人間はその時だけの心でしかありません。「30日経ち60日経てばコロッと忘れてしまう」と言われたように、その時の助かりだけで、親神様の望まれる、人を助けたいと思う誠真実の心の人が少なかったのです。ましてや、せっかく渡したおさづけも悪用して、自分の方が本物の天理教だというような人も出て来ていたのです。

だから、2段まで出来た石の甘露台を没収させて、「あしきはらい たすけせきこむ いちれつすます かんろだい」としていたお歌を、「あしきをはろうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい」に代えて、「あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと」も「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」とも変えられて、今あると私は思っています。

「あしきをはろうて」の手ぶりは、胸を払います。胸は心です。心のほこりを払ってもらうのです。だれに!親神様にです。

これは自分の思案ですが、第一節の「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」は自分の事を願う事のように思えます。自分のほこりをはらてもらい、「ちょいとはなし かみの いうこと きいてくれ このようの ぢと てんとを かたどりて ふうふをこしらえ きたるでな これはこのよの はじめだし なむてんりおうのみこと」と、親神様の言葉を述べるのです。その後、「あしきをはろうて たすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」と世界中の人々の心を澄ますことを願っているように思えるのです。

自分の事も願い、人の事も願う。そして、願う限りには、心定めて日々を勤める事。

かしもの・かりものの思案を忘れない事、教祖の言葉を間違えないように、心を定めて自分の役目を自覚して通る事が大切だと思います。

ついつい熱くなって書いてしまいました。失礼しました。

 

親神様、教祖、どうぞ、大難は小難にとお守り下さいませ。

コメント
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