首の手術をしてから、かれこれ10年になろうとしている。
最近では、結構寝込むこともなく、日々を過ごしていた。
そうした中に、11月の22日は久々に、朝、おさづけをしてもらって、大教会へ行ったものの、頭の痛みや胸が詰まる感じが治まらずに、お供えを届けるだけで教会に戻り、横になって過ごした。
翌日の大教会月次祭には、楽になっていたが、いつ辛くなるか分からない不安があったので、役割を交代してもらってつとめた。
月次祭がすべて終わったところで、とても楽になり、片付けは勇んでさせて頂いた。
用事が無い時に、体が辛くなって横になって凄く事は頻繁にあり、とてもありがたく感じてこれまで来たが、大教会の月次祭の準備の日という、行事のある時に、このような事になるのは、本当にない事なので、何事かなぁと思いながら過ごした。
「なってくる理を思案せよ」と教えられる。
自分として、やりたいと思っても出来ない事がある。
この時の思案の仕方で、「自分がやりたく無い」と思う時は、自分の意識から、体調を悪くすることがある。しかし、反対にやりたいと思う時は、そうならないものである。
そして、このやりたいと思う事が、他人の意思で妨害されることならば、その人に何らかの思惑があることになる。
これが、自分の意識からではなく、人の思惑からではなくて、自分自身の身体が動かないという事ならば、
それは、親神様の思惑を思案する必要がある、身の知らせという事になる。
と私は考えている。
「いんねんならば通らにゃならん。通って果たさなやならん。」わけで、ここで「いんねんの現れ」と悟り、「たんのう」してそのまま置いておくことも一つあるだろう。
けれども、この場合は、慢性的な病状が主で、それでいえば、私が首の手術を行う事となった「後縦靭帯骨化症」という疾患がそれにあたり、今回の事例とは違う気がする。
この文章を書きかけたのが、11月の24日で、今は25日である。
今、身上が突然楽になった時を、何があったかと、思い返した時に、一つ思い当たる事があった。
それは、月次祭をWEB配信できるようにと、機材の準備を進める中に、月次祭終了後にWEBカメラを購入すじに行こうと約束した事が思い当たる。
その約束をした時には「その時に体調が良ければね」と言っておいた。その後、祭典講話になり体調が良くないので、自室へ戻り横になった。少し楽になったので、大教会長さんの挨拶には神殿に戻り、「この挨拶が全部内に届くのは、会報を読んでもらっても、2カ月後だなぁ」と思いながら、話を聞き終え、やっぱりWEB配信は必要だと思って、終了の挨拶をしたところで体がすっきりしたのであった。
そして、片付け後にすぐにWEBカメラを購入しに行ったのだった。
親神様が望んでおられると思い、創立130周年の記念祭に向けて、そのようになっていくだろうと思う。