あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

ご本部の月次祭。。。私の身上は遺伝子の異常。。。

2021年07月26日 22時27分57秒 | 思った事

きのう、25日は講社祭と息子のオープンキャンパスの送り迎えをした。

そしてその後支部の会計さんとの話し合いの予定としていた。

時間的にどうなるかと思っていたが、オープンキャンパスの迎えから教会に帰ってきたら丁度、会計さんが来られたところだった。

すごい。何というタイミング。。

とありがたく思った。

 

さて、今日は26日。

ご本部の月次祭である。長男、次男、4男が一緒に出掛けた。また長女も仕事が休みで、一緒に参拝させて頂けた。

朝7時過ぎに教会を出て、9時半過ぎにおぢばに着いた。

中庭の木の陰で立って参拝させて頂いた。

以前は、神殿講話を聴いてから参拝場に上がっておつとめをしていたのだが、中庭にパイプ椅子があるので、

神殿講話が終わると北礼拝場の賽銭箱前で参拝をして、そのままパイプ椅子でおつとめをするようになった。

そして教祖殿の階段下の賽銭箱前で参拝、祖霊殿の階段賽銭箱前で参拝して、神殿を後にするようになった。

廻廊を廻らないだけ、時間短縮となった。

その後、法人課へ願書の提出などの用事をすませて教会へ戻った。

今月の中庭は、27日に行われる、3代真柱様の奥様の年祭のために、祖霊殿前にテントが張られており、

参拝者には、そこのパイプ椅子がとてもありがたかったと思う。

 

今月の大教会の月次祭は、前半の地方に当たっていた。

しかし、のどの調子が悪く、余り声が出なかった。

けれども、今日はとても調子が良く、マスクをしながらお歌を唱和させて頂く事が出来た。

 

今、様々な事が起きている。コロナだけではない。

世界中ではワクチンでの死亡者や水害での死亡者などなど、大変な中である。

みかぐらうたを歌いながら、すべてはそれぞれのいんねんで成ってくることだが、何とか大難は小難にとお守り頂けるように、少しでも親神様のお心が伝わるようにと願った。

そして、今日の祭典講話は、山本利彦本部員であった。

一つ上の先輩である。とても大きな声で張り切って話をされた。

こどもおぢばがえりが中止となって、今までどれだけこどもおぢばがえりに依存していたか、実感していると話された。

また、人助けの上に心を配る事、誠真実をつくす事の大切さを話された。

正しくと思う。直接おたすけに関わらなくても、誠真実をつくす。

これがすべての種であると私も思う。

教会に帰って来て、夕づとめをしながら、私の身上の事を思った。

 

私の身上は、遺伝性のもので、遺伝子が原因かもしれない病気なのである。

そして、私のこの身上は、今の医学では治療方法はないのである。

今のワクチンは遺伝子組み換えワクチンで、人間の細胞の遺伝子を変えてしまうワクチンである。

同じようなものだなぁと思ったのである。

私がこの難病を知って、治療法がないと聞いた時から、すべて親神様のなさる事と受け止めて、出来る事を出来るだけさせて頂こうと思って通って来た。

それ以前にも、椎間板ヘルニアの時にその心定めはしてあったのだが、それがより強いものになったのである。

私の身上はすぐさまに出直すという事ではない。段々と体が骨化して動けなくなるのである。

それがいつになるかは分からない。

また、突然のショックで首内の神経を切らないための、手術をしてもらったので、その後遺症で、肩や背中また頭の中が凝る。そのために、揉んでもらわないと動けなくなってしまう。

そんな状態なので、動けるだけありがたい。

私の首の手術は、東日本大震災の一年前に行った。

手術後1カ月もたたずに、教養掛をつとめた。30分の修練(おてふり)を立って教える事が出来なかった。

15分で終わりにして、あとはビデオで自習をしてもらって通った。

また、妻の運転で、末期がんの方のおたすけにも通わせて頂く事が出来た。

そして、東日本大震災の時には、まだまだ首もしっかりしておらず、冷やすといけない事も分からなかった時である。

しかし、何とか役に立ちたいと、救援物資を埼玉まで運んだ。

そして、何とかという思いを同級生が汲んでくれて、そのお陰で何度も被災地へ行かせて頂く事が出来た。

 

その数年後、ご本部の神殿奉仕のご命を頂いた。

当時、本当に終日神殿で勤める事が出来るかと心配だったが、かけて頂いた声を神様の声と思って勤め始めた。

今では寒さに気を付けながらすれば、普通のようにつとめさせて頂ける。

また、首が十分に回らずに、無理は効かないけれども、それなりに運転も出来る。

これが親神様の御守護でなくて何といえるだろうか。

だから、コロナであろうが関係ない。

けれども、周囲の目というものがある。相手の気持ちというものがある。

だから、相手に会わせて、来ても良いと言われるところならばおたすけにも行く。

ただし、自分が保菌者となった時に、他人にうつしてはならないとの思いからマスクはする。

 

そしてまた、いつも「癖性分」という事をここに書くが、

私の性分は「思い立ったら止まらない」というのがある。

私は丑年である。

日頃はのんびりで、ぐうたらである。けれども、いざ思い立ったら突っ走る。

先の手術後の事でもそうだが、どれだけ周囲に心配を掛けた事か。。。

だから、今では、少しでも体調が悪く感じると、神様が止められていると思い、心を落ち着けて、休むことにしている。

そして、出来なければ、それも一つ。と思うようにしている。

 

そのように思えるようになったのは、大教会の会報作成である。

首の手術の前、肩も目も痛み、辛い中でもやり続けた。

けれどもついに出来なくなって、休刊にした。

その時に、体が動くから出来るのだと思った。すべては神様の思召しの中と。

そして手術を受けた後、ある青年が会報を作成すると言い出した。

私は「別に会報は無くても良いと思う。神様が必要ならばさせてくれるだろう。」

「点検する事くらいならするけれども、パソコンの前での作業はしないよ。」と言って、点検だけを引き受けた。

その数か月後、その青年が「もうできません。間に合いません」と言ってきた。

私は、「折角そこまで作っておいて」と思い、パソコンの前に座った。

そのとたんに、肩が痛みだして作業が出来ない状態になった。

それから、大教会の会報については一切キーボードに触れる事はない。

今、このブログを書いているが、この作業が出来る事、これは親神様のお許しがあるからこそだと思う。

スマホで様々な情報を得て、フェイスブックで発信できる事。

これもお許しがあるから出来る事だと思っている。

また最近は、ブログやFacebookを見るのも見ないのも、人それぞれのいんねんによると思えるようになった。

すべては、親神様のお導きのままである。

いくら「あれもこれもしたい」「これもそれもしてあげたい」と思っても、親神様のお許しがなければ出来ない。

そう思い、自分の思いだけでしないようにしている。

これが、私自身の身上から学んだ事である。

そして「真のたすかり」の道中にあると思っている。

 

さて、今日はこれで終わりにする。

明日は何がさせてもらえるだろうか。

 

最後まで読んでくださった方、何かの参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする