月次祭も無事に終わって、昨日お下がりも配らせて頂いた。
普通ならば、昨日は私がダウンして、奥さんがお下がりを配りに行ってくれる。
ところが、それが反対だった。
朝、奥さんから、「今日は調子が悪いから、一人で行ってくれる?」と言われた。
何も考えずに「うん」と私は返事をして、用事をしていると、電話が鳴った。
奥さんが出ると、部内の奥さんから「お下がりを届けてもらうのは、午前中がありがたい」との事だった。
いつもは、午後から出かけるのだが、そういう事で、私はこれまた、何も考えずに「うん」と答えた。
いつもは会計をするのだが、昨日は私の誕生日で、多くの方からフェイスブックやラインでお祝いのメッセージを頂き、
その返信をどうしようかと、文書を作っていたのだった。
少したって、奥さんから「早く行かないとお昼過ぎになるよ」と催促される。
そこで、簡単なお礼だけを書くだけにして、「そうだな」とこれまた何も考えずに準備を始めて、教会を出る。
そしてその方面の家へお下がりを届けて、一度教会に戻る。
やり残した会計を済ませて、改めて大教会へ「月次祭の御礼」とそちら方面へのお下がり配りへ出かける。
夕方教会に戻り、奥さんに「大丈夫か?」と尋ねると「大丈夫。あの時はふらついて仕方がなかった。」との返事だった。
私たちは、同じ年である。
私自身は首の手術をしてから、ほとんどお下がり配りには出かけなくなって、奥さんひとりの事が多くなっていた。
それが、何ともなく名古屋一周を済ませる事が出来た。そして留守が一軒もなかった。
それぞれの家の方の顔を見せて頂けたこと、そして何よりも自分自身の身体が動けた事がとても嬉しかった。
そして今日は、朝一番から気になるニュースが目に付き、これは記録すべきと記事とコメントを記録した。
この作業が結構時間がかかる。
けれども、以前「これは絶対にフェイクニュースで、人心を誘導している」と思ったニュースが、コメントの書き込みが激しい事から削除された事があり、こうした事がフェイクニュースの証拠となるのに!と悔しく思ったことがある。
しかし、こうしたコメントを読むと、本当に色々な考えの人がある事が分かる。
国内のニュースで3件もしてしまった。
最後のニュースは、途中で読み込みがされなくなり、「コメントが消されたか!」と慌てた。
以前と全く同じ状況になったのである。
幸い、画面には表示させていたので、その分だけは記録できた。
相対的に、コメントを見ていると、人を誹謗中傷するコメントは少なくなり、都合の悪い事を削除する事も少なくなったように思う。(YouTubeはまだまだひどいようである)
ともかく、様々な情報が飛び交っている。
以前「予言」として、教祖が戦争が起こる事について「神が心配」といわれた言葉を紹介したが、本当にそうだと思う。
また、「あくじはろうて」とか、ほこりの中に入らないようにと、注意をされている。
しかし、どれだけ先に言っておいても、聞く耳を持たねば、変わらないのである。
それも、「おふでさき」に記録されている。
「おふでさき」には先に知らし置く、として様々な事が書かれて、そのようになっているのだが、周囲のものは聞きいれないために、「ざんねん」と言われるのである。
「おふでさき」や「おさしづ」また「ひながた」で、先の事を知らせてくれているのだからと思い、自ら悟ろうとする事が大切かと思う。
親神様は、大難は小難にとしてやりたい。小難は無難にしてやりたい。
これが親心である。