今日は午後から大教会の神殿当番である。
それまで、少しだけ今朝の「おふでさき」が気になったので書いておきたい。
けふの日ハなにがみへるやないけれど
八月をみよみなみへるでな (5-56)
みへるのもなにの事やらしれまいな
高い山からをふくハんのみち (5-57)
このみちをつけよふとてにしこしらへ
そばなるものハなにもしらすに (5-58)
このとこへよびにくるのもでゝくるも
神のをもハくあるからの事 (5-59)
その事をなにもしらすにそばなるハ
せかいなみなる事をふもをて (5-60)
なにゝてもせかいなみとハをもうなよ
なにかめつらしみちがあるぞや (5-61)
だん/\とこのよはぢめてひハたてど
たれかしんぢつしりたものなし (5-62)
いかほどに神の心わせゑたとて
みなの心ハまたうゝかりと (5-63)
はや/\としやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん (5-64)
このよふのしんぢつねへのほりかたを
しりたるものハさらにないので (5-65)
このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに (5-66)
このみちをほりきりとふりぬけたなら
上下ともに心いさむに (5-67)
これからハなんでもせかい一れつを
いさめるもよふばかりするそや (5-68)
だん/\となに事にてもにほんにハ
しらん事をわないとゆうよに (5-69)
なにもかもせかいぢうゝへをしへたい
神のをもわくふかくあるのに (5-70)
それしらすせかいぢうゝハ一れつに
なんどあぶなきよふにをもふて (5-71)
とのよふな事でも神のゆう事や
なんのあぶなき事があるそや (5-72)
なにもかもよろずの事をだん/\と
ゆうていながらわかりたるなし (5-73)
これからハどふぞしんぢつむねのうち
はやくすまするもよふしてくれ (5-74)
せかいぢうをふくの人てあるからに
これすまするがむつかしい事 (5-75)
いかほどにむつかし事とゆうたとて
わが心よりしんちつをみよ (5-76)
この心すむしわかりた事ならば
そのまゝみゑる事であるなり (5-77)
にち/\に神のしんぢつはたらきを
しりたるものハさらにあるまい (5-78)
なにゝても神のぢうよとゆうものハ
めづらし事をしてみせるでな (5-79)
とのよふなめつらし事とゆうたとて
神のする事なす事はかり (5-80)
いままでハなによの事もしれなんだ
一寸みへかけたほそいみちすじ (5-81)
このみちをだん/\しといいくならば
なんてもむこにみへるほんみち (5-82)
これまでにとふりてきたるみちすぢハ
からもにほんもわかりないので (5-83)
このさきハなんぼからやとゆうたとて
にほんがまけるためしないそや (5-84)
このよふのもとはじまりのねをほらそ
ちからあるならほりきりてみよ (5-85)
このねへをほりきりさいかしたるなら
どのよなものもかなうものなし (5-86)
しかときけくちでゆうてもをもふても
どこでゆうてもをもふたるとて (5-87)
そのまゝにかやしとゆうハこの事や
神がしりぞくみなしよちせよ (5-88)
このお歌は、高山に対して、布教を始めるという話しである。
それも親神様が段取りをして、進めて行くと言われている。
けれども、教祖のお側の人々は、それが分からないために、世界並みの事と思って、いずんだり不安になっていると言われている。
現に、高山からの取り調べや弾圧が行われたのである。
それに対して、心を澄ます段取りをすることを求められている。
そして「澄ましたならば危ない事はない」。とまで言われている。
ここには
はや/\としやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん (5-64)
このよふのしんぢつねへのほりかたを
しりたるものハさらにないので (5-65)
このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに (5-66)
と、
「根ほる模様なんでしてでん」と言われている。
この「根」という言葉は、とても深い言葉だと思う。
「むほんの根」「病の根」を切ろう。と言われている。
「根」とは根本であり、根本とは心であると私は思っている。
自分自身の心をしっかりと掘り下げる事。
そして澄ます事。
その方法を教えて下さっていると思うのである。
親神様は、天理王命(てんりおうのみこと)である。
この天理王命は「10の神様」の総称と言われたり、天理王命の守護が10あると言われたりしている。
以前にも書いたが、これは多神教として見るか、一神教として見るかの違いで言い方が変わるだけである。
大切な事は、全ての「神の元である月日」が、相談をして、人間またこの世界を守護する道具を見定めて、それらを神としたという事である。
この世界中に神や仏が沢山ある。そして教えも沢山あるが、それらすべては、人間を育てるために月日親神様が、道具衆をこの世に使わして、教え導き、その道具衆を神や聖人として拝み教えを実行するようにと導かれたのである。
そして、その遣わされた神々は、それぞれの道具の働きしかできない。けれども、親神天理王命となれば、すべての働きを持っているので、どんな事でも出来るのである。
だから、これまで天理教のおたすけの上には、目の見えないものが見えるようになり、足の立たない者も立てるようになるという、不思議な事ばかりが現れたのである。
この事については、逸話編「天が台」170 に書かれてある。
「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」
「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」
「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」
「この世の台は、天が台。天のしんは、月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という。」
とても重要なお言葉であり、各地にある詣り所との関係も良く分かると思う。
そして、
善も悪も見定めて、すべてを支配しているのが親神様である。
人間の心を澄まして、陽気ぐらしが出来る心へと立て替えたいのが親神様の思いである。
「いんねんならば、通らにゃならん。果たさにゃならん。」のである。
しかし、そのいんねんを切り替える方法があるのである。
それを教えられているのである。
それが、心の切り替えである。
どのように切り替えるか、それは自分中心の考えから、人に助かってもらいたいという考えに変える事である。
他宗教の言葉に「カルマ」という言葉が良く出てくる。これは「業」「宿業」と言われて、定められたことと言われて、逃れられない事。とよく言われている。
まさしく、「なりたくないと思っても、なってくるのもいんねん」これは、宿業と言えるだろう。
けれども、成って来た事をどのように受け止めて、どのような心で行うかで、次が変わるのである。
「宿業」を現れて来た事だけで見るから、そこで止まってしまうのである。
宿業の元となっている心。これをしっかりと考える事が大切なのである。
この心は、自分の心もそうだが、相手また周囲の心も考える必要があるのである。
今、世界中で起きている事、これもすべては元になる心がある。
人間は生まれ変わり出変わりしているので、前生、前々生の心によって今の状況にそれぞれが生きているのである。
これをしっかりと心に置かねばならない。
そのためには、日々現れて来ることと、自分の心を照らし合わせて、
自分が助かる、自分の思い通りになる事ばかりを考えるのではなく、親神様の視点から、自分の役割を自覚する必要があると思う。
心を澄ますということは、物事に囚われないという事にもつながる。
生かされている事だけでありがたいのである。
その中に様々な出来事が起こり、喜怒哀楽を感じて、様々な経験を魂に刻み込んでいるのである。
自分の事だけではなく、人の事も心配できる心になる事。
人も、自分の家族だけではなく、多くの人々の事を心配できるようになる事。
これが親神様の求められている事ではないだろうか。
そのために、かしもの・かりものの話を教えられた。
なんども、なんども聞いて、また、心に悟りがつくまで、昔の先生は話をされたと聞く。
思いつくままに書きました。
読みにくい所はお許しください。
今日も一日、親神様に凭れて頑張ります。