あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

既成概念と教理・教祖のひながた。。。

2021年07月02日 21時38分11秒 | 思った事

ある人のコメントを見ていたら「既成概念にとらわれて、本来の信仰を見ることが出来ない。」という言葉を見た。

既成概念という事から考えて見たい。

まず、「既成概念」を検索してみると、

既成概念

読み方:きせいがいねん

既成概念とは、すでに世間広く浸透し「そういうものだ」と定着しているような、認識考え方枠組みを意味する表現。すでに出来上がっている概念物事捉え方)。
 
と出て来た。

つまり、「テレビの報道は絶対に正しいのだ」「天理教の会長のいう事は絶対に正しいのだ」
という事である。
 
「テレビの報道でも、間違った報道をする事もある。」「天理教の会長でも人間である。間違ったことを言う事もある。」
 
これが正しい見方であろう。
 
ところが、人間というものは、自分の好むものを正しいと思いたいものである。
我が子供が間違いを起こしても、「我が子に限って」と思い込んで、詳しく聞かずに人を非難したりするものである。
 
これは、よくテレビドラマでよく見た。
また実際に、そのような場面にあった事もある。

さて、そんなことで、「既成概念」で見誤る事のないようにする必要があると思う。
 
そうした中に、私が思う、既成概念にとらわれていないかという事を数点書いておきたい。
 
一つは人の魂について、そして宇宙人についてである。
 
以前、『正文遺韻抄』で「人間の数について」を掲載したと思う。
この文章を読んで、皆さんはどう思うだろうか?
 
 
また、「こうき話」16年本を読んでどう思われただろうか?
 
私は、この二つの資料に出てくる「天」という言葉がとても気になっていた。
 
「人間の数」では、
鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、
 
と出てくる。
そして「こうき話」では、
 
 此の訳左に
 くにとこたちの命は、天にては月様なり。この神は男神にして、御姿は、頭一つ、尾は一条(註:ひとすじ)の大龍なり。此の世界、国床を見定め給う。此の理を以てくにとこたちの命とゝ云う。又国を見定め給う故に国見定めの命と云う。人間を宿し込み給う時に、上より突くが故に月様と云うなり。月様が先に立つ故に日月とは云われず、月日と云う。三十日を又一月と云う。仏法にては、釈迦如来と現れ、仏法を授け給う。又、先に出でて法を始め給うにて、ぜんじゆう様と云う。人間身の内目の潤いの守護の神様なり。則(註:横に?)目は此の神様のかりものなり。
 おもたりの命様は、天にては日輪様、此の神は女神、御姿は頭十二の三条(註:三すじ)の尾に三つの剣ある大蛇なり。この神様は人間宿し込みたもう後は、日々に身が重くなる故に、おもたの命と云う。日々に理を増す故に日輪様と云う。尾に三ツの剣ある故に、此の理をあしきな女は邪険と今にても云うなり。頭十二ある一つの頭にて、十二月の間、一月づつ頭代わりて守護を事。日々代わりて守護。又、十二時(註:十二とき)つゝ頭代わりて、目を一時とす守護ある故に一ケ年を十二月と定め、一日を十二時(註:十二とき)と云う。十二支の方頭(註:ほふかしら)を取り巻きありて守護あり。此の理を以て十二支と云うなり。仏法にては三尊(?)(註:三づん)の弥陀如来、又、心澄んだる理を以て、勢至観音、大き見える故に、寛大とも云う。観音と云うも同じ理なり。人間の身の内温みの守護の神、又温みは此の神様のかりものなり。
 此の二柱の神様は、此の世の人間の実の親様。人間には此の世御照らしの如く入り込み、御守護なされ、故に、自由自在を叶うことなり。
 後なる神様は、此の二柱の神様の守護に依って、御働きあることなり。
 国さつちの命、この神様は天にては源助星、女神様なり。御姿はかめなり。かめと云うは、皮強き、地につきても踏ん張り強く、倒れぬ者で、土色なるの故、くにさつちの神と名を授け、女一の道具に仕込んだ故、亀甲(註:かめこ)の理を以て、おめこと云うなり。おなごと云うも同理なり。人間皮繋ぎの守護、仏法にては普賢菩薩、達磨大師、弁天、結びの神、黄檗山(註:おふはくさん)の神の守護なり。此の世の金つなぎ、または、よろづつなぎものは皆此の神の守護なり。人間の身の内皮つなぎは、(此神様の借ものなり。万づつなぎ物は、此神の守護なり。《補・梶本本22》)
 月よみの命様は、此の神は、天にては破軍星にて、男神なり。御姿はしちほこと云う。又、鯉のこせたる者も同ことなり。しちほこと云うものは、勢い強く、変にしゃくばるもの故に男の一の道具に仕込み給う。男の道具は此の理を以て、せいのこと云う。又、男と云うは、とこわ宿し込みのとき、突くが故に、此の理を以て月よみの命と名を授け給う。仏法では、八幡様と云う。聖徳太子様、此の神様の御守護なり。人間身の内骨の守護なり。
 (雲読之命《補・梶本本22》)、神様は、天にては朝明神の星となり。女の神にして、此の姿、うなぎなり。此の者は、頭の方へも、尾の方へも出入りする者で、つるつくものである故に、人間の飲み食い出入りに使うた道具なり。故に、くもよふみの命と名を授け給う。仏法にては、文珠菩薩、龍王、神農、薬師如来、水神様。此の神、飲み食い出入りは、此の神様のかりものなり。此の五柱神様の守護によつて、これを五体と云うなり。
 かしこねの命、此の神様は、天にては未申の方に集まる星なり。男神にて、御姿はかれと云うなり。此の者は身薄き者で、故に、人間の息の、風の道具に使うた。故にかしこねの命と名を授け給うなり。仏法にては、大日如来、円光大師様、此の神様の守護なり。人間の息此の神様かりものなり。息は風、風で吹き分けて物を言わすなり。
 人間身の内は、六柱の神が入り込みて守護を下さる故に、自由に叶う事故、これ全く、此の神のかりものなり。此の六柱の神様は南無阿弥陀仏なり。南無と云うは、目、温み。阿弥とは、皮繋ぎに、芯の骨なり。陀仏とは、飲み食い出入りに、息の事なり。南無阿弥陀仏と云うは、人間の身の内の事なり。これで身の内六台と云うなり。火と水は一の神なり。風よりほかに神はなし。息は風なり、風は神なり、如何なあしきも吹き払うなり。
 おふとのへの命、この神様は、天にては宵の明神の星なり。男神にて、御姿はくろぐつな也。此の者は勢い強く、引きても切れぬ者故、人間の食物、立毛、万物引き出しの道具に使うた神なり。引き出すには大綱が要る。又、引き出す者は玄人(註:くろと)と云う。何事にても、先立つてする者は、玄人云う名今にあり。此の理を以ておふとのへの命と名を授け給う。仏法にては、不動明王と名を授け給う。尚又、弘法大師、役行者、此の神様の御守護なり。故に百姓の神なり。
 たいしょくでんのみことは、此の神様は、天にては艮の方にあつまる星なり。女神にして、御姿ふくと云ううをなり。此の者は、食えば中る(註:あたる)ものである故、人間の死に生き、縁を切り道具に使た。ふくと云うもの、人間も大食すれば、寿命を無くなる。よく中る故に、此の理を以て大食天の命と名を授け給う。仏法にては、虚空菩薩、妙見菩薩、鬼子母、県さん、此の神様の守護に同じ事なり。此の神様は鋏にて、よろづ切る。
 (伊邪那岐の命、此《補・梶本本22》)神、天にて、天の川隔てにして現れある星なり。七夕様と云う。げぎよふ、または、人魚とも云ううをなり。此の者は今の人間なる様な姿にて、心も真っ直ぐなるもので、これを雛形として、人間の種に使たもの、これは人間の父様なり。この証拠に、伊勢の内宮様、天照皇太神宮、此の神なり。
 いざなみの命は、此の神様は、天にては天の川隔てにしている七夕様という星なり。女神にて、御姿は白くつななり。しろくつなと云うは、此の者も人間の肌にて、綺麗なる者、心も真っ直ぐなるもので、これを人間の苗代に使うた。これは人間の母親なり。此の証拠に、伊勢の外宮様、天照大神宮様は此神なり。

と、全てに天での星が現わされている。
 
つまり、私たちの魂は、全て天の星々に、宇宙に関係しているのではないか。と思えるのである。
 
地球上の事や日々の事ばかりで、そんなことない。という「既成概念」にとらわれると、この発想にはならないと思う。
 
これが正しいかどうかは分からない。
 
しかし、「元の理」を思案する時には特には、「そんな魚がいるわけない」という既成概念にとらわれていないだろうか。
 
昔の先生方は、教祖の言葉を聞いたそのままに受け止めておられた。
 
そうした中に、親神様の不思議を見せて頂いて来た。
 
しかし、私たちは教えを、今の世界の常識といわれる、既成概念という色眼鏡で見てはいないだろうか。
 
今、中国共産党の侵略によって、また、アメリカの情報開示が始まったことにより、それらを元に研究をして、世界や日本の歴史を見直す動きが出てきている。
 
そしてインターネット上では、今まで学校で教わったこととは異なったことが言われ始めているのである。
 
また、色々な宗教もそれぞれの教えを、公の場で話し始めている。
 
しっかりと「既成概念」にとらわれずに、教祖の教えをひも解く事が大切だと思う。
 
そうそう。
一番「既成概念」に囚われやすくて、それによって理解しずらい事は、「宮池へ身を投げようとされたこと」や「黒ほうそうのおたすけ」ではないかと思っている。
 
また「仏教見立て、神道見立て」という十柱の神様のお働きも、これから大切な事だと思われる。
 
思うがままに書きました。
参考になれば幸いです。
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人間の数について。。。『正文遺韻抄』

2021年07月02日 20時45分52秒 | 正文遺韻抄

資料として、書換えておく。

「人間の数について」  『正文遺韻抄』153頁

 ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
 『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。

 

 

(2021.7.2作成)

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