あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

身上かりものの説き分け。。「正文遺韻抄」より

2021年06月15日 13時33分29秒 | 正文遺韻抄

今ならば「依存症」と言われるだろう症状で、とても困っていた時、何度もおぢばへお詫びに通った。その時に、必要な時以外は外に出ないで、教えを一から学び直そうと思い、本を読み始めた。その時、本を読むだけではもったいない。いずれ役に立つだろうからと、ワープロで入力しながら本を読んでした。そしてこの『正文遺韻抄』の書き換えを思い立ち作成していた。

その後、コンピューターに移り、ホームページを作った時に、ネット上での参考資料になればと、手直しをして、註釈をつけたものである。

今回、「元の理」の表をブログに掲載する時に、HTML書式のものを使える事を知り、今回掲載することにした。

当時とは違って、今は簡単に写真も掲載する事が出来る。今回は画像も含めておく。

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「身上かりもののときわけ」   (文) (註) (注意)  

[2003.11.23 訂正、追記] 「2021.06.15 画像追加」

(「正文遺韻抄」p186 現代文に書換)

  このようは一れつはみな月日なり 人間はみな月日かしもの
 当神様のみ教えは、このお歌の通り、人間の身の内は、神からのかしものであり、銘々は月日様より、身体を借り受けて、自由自在に、心の思う通りに、使わせて頂くことが出来ます。
 身の内さえも借り物であるならば(1)、よろず一切はみな借り物。世上世界に、ある全ての物は、食物、着物、住む家をはじめとして、すべてみな神様の物であります。これらは月日様の自由(思いのまま)にできまして、月日様が、支配してくださるのです。そして銘々人間の心だけに、よろず貸し与えて重宝させて下さるのであります。


 よって、銘々の物、人間の物と言ってはみても、人間の物である物は何もございません。一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)(2)。月日様の世界であります。人間は身上を借り受けて、にぎわしく、暮らさしてもらうのであります。そこで、身上かしもの、かりもの。心一つが我がの理。これが、教えの台でございます。

 月日様が人間をこしらえて、この世をお始め下されて以来、今日まで、何千年、何万年もの間、知恵も仕込み、学問も仕込み。心直しのため、人や国々が睦まじくなる(にんきやわらぐ(3))ために、真実の道を教え。病気助かるために、医者薬の道、または祈祷まじないの法も教え。みな修理肥のために、神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)そして今日では、知恵が進み、学問がたけ、医者の道にすればどんな手術も施し、どのような治療も致すようになり。科学においては、いかなる機械も発明し、だんだんと便利になり。おいおいと進歩発展する(開明(4)になる)ばかりで、日にまし、月にすすみて、いよいよ結構になってまいります。
 百里、二百里(約400~800キロ)隔たっていても、一日に行き着く事が出来ますし、五百里、千里(約2000~4000キロ)の遠きところでも、一日の中に便りをすることが出来ます。それに連れて、十分(ばんばん(5))便利になって、実に結構なる今日であります。

 そして、今日まで結構になりました、この二、三千年の間というのは、誰がどういうことを始めた。何という人がこういう物を発明した。誰はどうして世の人を助けた。彼はこうして世上の利便を図った。国家のためになったと言うように、ちゃんと書物に、その事歴が伝わってありましょう。
 また、人間は、その人を偉い者や、感心な者や、ありがたい人や、尊い方やと、心に深く感じて(感ぱい(6)して)、尊敬しております。
 しかし、その元である、月日様のご守護によって、神様のお入り込みによって、お働きによってなってきた、ということが分かりませんので、人間同士がお互いに、知恵を磨き合い、勉強をしあって、その結果に、発明もし、便利も図り、文明になってきたのだと思っているでしょう。実にそう思うのが人間心の当然でございます。
 けれども、神様のお話を聞かせて頂いて思案いたしますと、第一に『火と水とが一の神』と仰せられまして、これが月日様(火は日様、水は月様)であります。この火水の徳によって、人間も生き、また万事が生育し、よろずの機械も発明されて、また運転も出来るのでございます。何でも彼でも元は火水です。火と水とのお徳がなくては、かなわぬ事なのでございます。


 そうですから、『このようの一れつはみな月日』と、仰せられますので、いかに人間が賢くても、強くても、身の内から火と水とが退き、息まで退いたら、どうしようもございません。心一つとなっては、知恵も力も宝も持って使うこと(かすこと(7))は出来ません。
 だから、身の内に月日様が入り込んで、お働きがあるので、銘々が心だけの考えもさせてもらえる。又力も出さしてもらえる。どんなことも、人間として勤めるべきだけの勤めは、働かせて頂くことが出来るのでございます。

 そこで、人間は人間だけの勤めをさせて頂けば、神様は心にのって、自由のお働きを下されますから、銘々の勤めが肝心でございます。たとえば、百姓が立毛(作物)を作るのと同じ事で、種を蒔く、修理をする、肥を置く(肥料をやる)などのことは、百姓そのものの勤めでございますから、怠ってはなりませんが、芽を吹っ切る、芽を伸ばす、段々のばして花を咲かす、実を結ばせるというのは、これは誰の力でございましょう。いくら百姓自身が、「おれは上手に作る。おれはどうする」と申したところが、出来るものではございません。
 これが神の自由(じゅうよう)、月日様のご守護でございまして、いわば、神様のお役でございます。人間は、種を蒔く、修理をする、肥を置くという事を、みなそのちょうど良い時期に従って、怠らずにさしてもらうから、その心に添って、神様のお働きが頂けます。そして、花も咲けば、実もできるということになります。


 何事もその通りで、人間の勤めと神様のお働きと、共々に行かねば、結構にはなりません。すなわち、神様が人間に、それぞれのするべき勤めだけを、与えて下さっているのですから、その勤めをしなければ、神様のご守護は頂けないのでございます。
 さて、人間という者は、その理を知りませんから、みな銘々に、自分自身の力で、事が出来るようにばかり思っていて、親神様のご恩があることが、さっぱり思いつかない人が多くあるのでございます。
 そこで、前に申しました通り、人間は、誰それ、彼それ、どういうこと、こういうこと、ああ偉い者や、尊い人やと、申しますけれども、真実のおやさま(親である神様)のご守護、お働きをありがたく、尊く思う者が無いのでございます。
 このたび、おやさま(親神様)より御じゅうよう、御働き(神様の自由と働き)の理を聞かせて下さいまして、前申します通り、「知恵も仕込み、学問も仕込み、よろずの事、段々と教えてきて、十の物なら九つまで教えたで、このたびは、その残り一つを教えるで」と、聞かせられます。

 そこで、これまでに九つまで教えて頂いてあるから、世上においては、何も不自由不足はない。便利で、重宝で、結構な世界であります。しかし、たった一つ、銘々に思うことが、思うようにならない。しようと思うことが思うようにならずに、しようまい、なるまいと、思うこともなってくる。全く、銘々の思うようにばかりにはいかんというのが、これが、一つの不足であります。
 「その不足の無いように、思い通り、思惑通り叶えてやったら、それで十分やろ。この度は、ここの一つを教える道であるで。十の数なら、一番しまいの十目の教え。すなわちとめの教えや。だめの教えやで。この道は立て通さにゃならん。末代続く、切りなしの道やで。」と聞かせられます。
 そこで、思い通り、思惑通り、叶うようになるというは、一寸だけ聞いては、「そんな事ができるものか、そんなことになれそうな事があろうか」と言うようなものであります。けれども、だんだんこの道に入って、かしもの、かりものの理を聞き分け、聞き分けた理を守って行けば、だんだん思うように、そして思惑通りに叶います。とりもなおさず、思うとおりの御働き、ご守護が頂けるのでございます。
 そこで、よく話を聞いた上にも聞いて、理を聞き分け、理を守るが第一でございます。これがこの道の信心でございます。

 さて、「かしものの理」、「八つのほこり」、「いんねん」、みな理を聞き分けねばなりませんが、前申しますとおり、「身上かしもの、かりもの、心一つが我がの理。」これが教えの台でございます。ゆえに、この理を聞き分け、「本になるほど、かりものに違いない」と、理を感じることが肝要でございます。この理を感じねば何にも分からないのであります。
 そこで『かしもの、かりものの理が分かれば、なによのこともあざやか』と仰せられまして、本当にかりものに違いないと、心に感じましたら、神の話の理を守ることが出来ます。そこで、どのような事も鮮やかに心に治まりまして、段々と行いが鮮やかになりますから、神様のご守護が、鮮やかとなるのでございます。
 神様のご守護が、鮮やかとなれば、身上に不足がありそうな事は、ございませんし、又不時災難や、病難といって、難儀をしたり、わずらうというのは、神様のご守護が欠けるからでございます。
 それならば、神様がお忘れになったか、お落としなされたかといえば、決してそうではございません。神様が忘れそうな事も、落としそうな事もありません。すべて、銘々の心一つに、十分(ばんばん)貸し与えて頂くのであります。しかし、借り主たる心次第で、十分の上に十分のご守護も頂けるし、また十分のご守護が九分ともなり、八分ともなるのでございます。だからよく理を聞き分けねばなりません。

 月日様は、なにも『人間はどうでもかまわん。心だけの守護や。勝手にせい』と思し召すような、無慈悲のお心の月日様ではございません。皆人間を、可愛い可愛いと思し召して、「誰一人にくいという者はない」と仰せられます。
『にんげんが、わがこのいけんおもてみよ、はらのたつのもかわいゆへから』と、おふでさきにもございまして、可愛いいゆえから。意見とも、立腹ともなりまして、身上に現れ、事情に現れて、銘々に苦しまなければならないのでございます。よく思案してみて下さいませ。銘々が子を育てる時の、親子の中の情愛から、よく思案してみて下さいませ。

 親というものは、「自分が食べずとも、子にはひもじい(ひだるい(8))目にあわせたくない。自分が着なくとも、子にだけは寒い目をさせたくない。なんとか、満足に育て上げ、一人前の人間にしたいものや。なるだけの事は仕込みもして、人に劣らぬようにしてやりたい」と思うて、自分が食べるものも、子のために食べようと思わず、自分の身の辛いことも、子のために辛いと思わず、一心に子の事を思い、子の事を楽しんで、どうか老いた先は、この子のために心安らか(安心)におれるよう。この子のために健康で楽々(安楽(9))に過ごせるようと思う。それが日々の願いでございましょう。

 又、みにくい子や、かたわ(10)の子が出来ましても、親の心として、決して捨てる事も出来ません。ほっとく事も出来ません。普通のものよりも、一層可哀想な、という心が深くなりまして、それ相応の道を教えるでございましょう。めくら(11)ならば、糸の道でも教えるとか、それもならん家では、あんま(12)を仕込むとか致します。また醜いものなら、学問とか、裁縫とか、その道の師匠になれるように、しっかりと教えます。皆その子の行く末を案じて、ならん所から一つの工面もし、一つの倹約(始末(13))もして、その子のために元をかけて、仕込むでしょう。
 又、心がけの悪いものであって、親には不幸をし、兄弟を困らし、親類へは迷惑をかけ、世間に対して、実に恥ずかしい、というような子といえども、親の心としては、決して心底からにくい事はありません。どうか、あの心を改めさせたい。どうかして直したい。どうにかして改めてくれれば良いがと、日々心を痛め、案じてばかりで暮らします。

 そして、なんにも申し分のなき子であれば、親は安心していられますが、悪い心がけの子ほど、親は心を痛め、末の事まで心配してやるようなもので、なかなか一人として、憎い子はありません。大勢の子がありましても、どうでも良いという子は一人も無いのが、親の胸の内でございます。あの子はどうして、この子はこうしてと、一々心に掛けて、子のためをのみ思って暮らすのが、親の情でございます。

 ならば、月日様の思し召しも、その通りでございまして、世界に多くの人間があるけれども、誰一人憎いという者はございません。誰一人どうなってもかまわん、という者はございません。みな、一人一人の身の内へ入り込んでご守護を下さり、また、心相応に、物を与えて下さいまして、さらには、心違いのある時には、身の内の守護を欠いて、心違いを知らして下さるのです。
 どうか、真っ直ぐな心になってくれたら先に危ないことも無いのに。どうか誠の心を持って通ってくれたなら、人の術中に落ちる事(踏みかぶる(14)事)も無いのに。こういう心がけでは、最後(末始終(15))は、人に憎まれ、人に嫌われて、通るに、通られんようになるであろう。「可哀想な事や」と思し召して下さるから、身の内よりの意見となるのです。

 また、悪気(あくき)ごうよくをつくしながらも、世間体は良い顔をし、人のためになるような顔をして、上辺は十分繕って通れば、人の憎しみも受けず、人に嫌われもしない道理やから、神様の意見もないであろう。というようなものですけれども、神様は一列の子供みな、同様に可愛いと思し召すところの親様(親神様)で、どの者、この者という隔てはございませんから、その者のために、多くの人が、知らず知らず、苦しんで通るとすれば、その者は、多くの人の害になる者であるから、多くの人と一人とは代えられません。どうしても、その一人を悩めて多くの人を助け、一人に意見を加えて、多くの人に、知らず知らずのうちに、徳が付くようにしなければ成りません。

 そこで、どれほど良い顔をしておりましても、心の底に悪気を持って、ごうよくの行いをしておりましては、人は知りませんといえども、ついには月日おやさま(親神様)の、立腹となって、その身が、倒れなければならぬ日が出てまいります。
 人間が多くの子供を育て、どの子もみな可愛い、一人も憎い者は無いといえども、一人の子のために、兄弟中が、困らされるような事であったなら、その一人に、意見をせなければならないでしょう。意見に意見を加え、可愛いゆえに立腹して、脅かしてみても、それでも改心できないとすれば、家におかれないようにもなりましょう。それは、可愛い一人の子やけれども、どの子も可愛い親心だから、みなと一人とは代えられん。可愛いと思いながらも、捨てなければならない。それも同じ事でございます。

 よく、思案してみて下さい。捨てたからといって、勘当したからといって、やっぱり案じるのが、親の心です。『貴様のようなものは、どうにでもなってしまえ。死んでしもうた方がよいわ』と、口には言っても、心では可哀想でなりません。『なんでああいう心やろう、どういう事で、改心してくれないのかしら。情けない事や』と、心の内には、悲しい涙が一杯でございます。無念の涙が、一杯でございます。忘れるにも忘れられん。『どうぞ良い心と、心を入れ替えて、無事で暮らしてくれるよう』というのが、親の心の内の願いでしょう。
 親の心の切なさは、どのくらいとも知れません。その切ない心を思い切って、多くの子供には代えられませんから、勘当をしなければならないという、その心配、苦労をかける子の不幸は、どれほどとも知れないでしょう。
 『子を思う道には誰も迷えども、親に仕える人ぞ少なき』と故人が嘆かれましたとおり、どうも、親の心を察する子は、少ないものでございます。『子を産んで、親の恩を知る』と申しまして、銘々の子を育てて、初めて親が自分を思ってくれた、心の大恩が分かるものでございまして、どうも子を育てなければ、真の親の心を察する事までは届きませんので、ついつい不幸になりやすいのでございます。

 川柳に『孝行をしたい時分に親は無し』というものがありますが、その通りで、自分が子を育てて、親の心を思いやり、孝行したいと思い出すときには、すでにもう親はこの世にございません。大抵はみな、そんな事でございますから、どうにもなりません。
 そこで、前々より申します通り、神様にもやはり、意見、立腹があります。けれども、皆可愛いと思し召す、親心からなることでございまして、人間が子を思う真実よりも、なお一層、神様が人間を思って下さる真実の方が、深いのでございます。おふでさきにも
『にんげんがわが子おもうもおなじこと、こわきあぶなき道をあんじる』
と、お付けになりました通りで、『そこへ行っては、あぶないがなぁ。そんな方へ行っては、怪我をするのになぁ。そういう道を通っては、怖い恐ろしい所へ行くのになぁ』と、人間が、幼児(三ツ子)のお守りをするように、おやさま(親神様)は、ご心配をして下さるのでございます。
 されば、銘々に、子を思う真実の心から、親神様が、人間を思って下さるところのお心を、ご察し申し上げて、孝行する事をしなければなりません。

(以上)

《註》

(1)身の内さえも借り物であるならば=原文では「身のうちさへも、かりものなれば、よろづ一さい、みな借りもの。」とある。この「身のうちさえも、かりもの…」を単に「身のうちがかりもの…」と書き換えることもできるが、そう書き換えるならば原文は「よろづ一さい、みな借りもの」と同じく「身のうち、かりものなれば」となっていてもよいのだが、そうではなく、「身のうちさへも…」とある「さへも」が気になる。
 そこで、「さへも」を辞書で調べると、さえ=〈助詞〉(副助詞)体言・副詞などを受ける。格助詞の上下いずれにも付く。…1:現在有る作用・状態の程度が加わったり、範囲が広まったりする意をあらわす。その上に…まで。までも。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。まで。でも。でさえ。3:仮定の条件を表す句の中に用い、そのことだけで条件が満たされ他は不問にする意を表す。(「広辞苑」岩波書店より)とある。
 また、「かりものなれば、よろづ一さい」として狭い範囲の「身のうち」から広い範囲の「よろづ一さい」と話を進めていることから。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。があてはまるように思える。
 つまり、この「さえも」は「よろづ一さい、みな借りもの」を強調するために、わざわざ付けられているように思え、言い替えると、「身の内だけが借りものと思うかも知れないが、身の内だけではなく、よろず全てが借りものである」と思える。

 特注;今回これを調べるために、同じ言葉がないかと「天理教教典」(昭和59年改訂前のもの)を見ると、「第7章かしもの・かりもの」にはp65L7「ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治まる。…中略…銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に随うて、使わせて頂くのが肝腎である。…中略…人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我がの理。と教えられる。」と書かれ、その後はほこりの話になり、「よろず一切みな借りもの」に関する記載は無い。

(2)一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)=原文には「よつて、めい/\のもの、にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。いちれつ一切、みな月日さま。月日さまのせかい。」とある。「月日様のもの」と書いたのは、前に「にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。」と「人間のもの」という言葉があるために、関連づけて「月日様のもの」と書いたが、「みな月日さま。」と言う表現が気になり、「(月日様とも言える)」と記した。
 それは、後述の「神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)」また、同本「おはなし」の「助けるということ」の項目で「人は神と言うであろう。神と言うても、柏手を打つ神でもなければ、また拝む神でもない。「人はみな、神の子」と言うであろう。(書換)」「ひとはかみといふであらう。かみといふても、かしはでをうつ、かみでもなければ、また、をがむかみでもない。ひとはみな、神の子といふであらう。(原文)」とあり、また、同本「おはなし」の「一人助るは、神のやかたを作るもおなじこと」の項目で「「神の子、一人、不足な者、満足にしてくれたなら、神のやかたを作りたも同じ事。」神は、それほどに受けとるという。(書換)」「かみの子、いちにん、ふそくなもの、まんぞくにしてくれたなら、かみのやかたを、つくりたもおなじこと。神は、それほどに、うけとるといふ。(原文)」という文があり、全てが神様、月日様という考え方もできると思ったからである。

(3) にんきやわらぐ=意味が良く分からない。にんきを人気と考え、やわらぐを和らぐと考えると、
人気【人気】=1;人の意気。2;世間一般の気うけ。評判。3;その地方の気風。じんき。;「広辞苑」岩波書店より
やわらぐ【和らぐ】1;やわらかになる。柔軟になる。2;(風景・気候・感情・気質などが)おだやかになる。柔和になる。3;親しむようになる。睦まじくなる。;「広辞苑」岩波書店より
から、人同士が睦まじくなる。地域や国が睦まじくなると言う意味になるのではないか。

(4) 開明(かいめい)=人知開け、文化の進歩すること。文明開化。また、知識に明るく聡明なさま。;「広辞苑」岩波書店より

(5) ばんばん【万々】=(名詞)1:非常に多数なこと。2:はるかにまさっているさま。(福祉)1:十分に。よく。まったく。;「広辞苑」岩波書店より

(6) 感ぱい【感佩】=かたじけなく心に感ずること。深く感じて忘れないこと。;「広辞苑」岩波書店より

(7) かすこと=人間自分の物であれば、人に貸し与える事ができる。しかし、身体が無ければそれはできない。という意味で使われているのではないか。

(8) ひだるい【饑い】=ひもじい。空腹である。;「広辞苑」岩波書店より

(9) 安楽(あんらく)=心身に苦痛が無く楽々としていること。;「広辞苑」岩波書店より

(10) かたわ【片端】=目や耳など身体に完全でない所があること。またその人。不具。;「広辞苑」岩波書店より

(11) めくら【盲】=視力を失っていること。また、その人。;「広辞苑」岩波書店より

(12) あんま【按摩】=身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする方法。もみりょうじ。また、それを業とする人。;「広辞苑」岩波書店より

(13) 始末(しまつ)=1:はじめとおわり。始終。首尾。2:事の次第。事情。特に、よくない結果。3:きまりをつけること。整理をすること。しめくくり。処理。4:浪費せず、つつましいこと。倹約。胸算用。;「広辞苑」岩波書店より

(14) 踏みかぶる【踏み被る】=1:水たまりや穴などに踏み込む。2:踏みつけて、そのはねかえりを身にうける。3:自分のしたことから不利益を蒙る。人の術中におちいる。;「広辞苑」岩波書店より

(15) 末始終(すえしじゅう)=1:すえのすえまでつづくこと。ゆくすえながいさま。2:最後。;「広辞苑」岩波書店より

注意:

(1)今回の現代文に書換については、当時の資料を読むに当たり、知らなければ読めない事が多くあり、それにつまずくがゆえに読むのが嫌にならないようにと思い、あえて現在「差別用語」とされている言葉もあえてそのままに使用し、後に辞典から意味を掲載した。
私の知らない差別用語もあるかも知れないが、これらの言葉はその人たちを差別する目的で使用されているのではなく、そうした状態にある事を当時は、そう言い表していたと理解している。その点をご理解頂きたい。

(2)おやさまという表記について
原文には「神さま」「神」「月日さま」「月日様」「神様」「月日」「おや神さま」「おやさま」「親様」「月日おやさま」と言う表現が出てくる。
 現在「おやさま」というと教祖を言い表しているが、ここで使われている「おやさま」「親様」はすべて親神様を表し、文中で言いたいこと、に合わせて「神」「月日」「おやさま」「おや神さま」「月日おやさま」と使い分けているように思われる。
 おふでさきの神・月日・親の表記の移り変わりに関係があるか?と感じた。
 現代文に書き換えるに当たり、「おやさま」「親様」の後には(親神様)を表記した。

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