あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

おさづけに行かせて頂いた。。。「元の理」を考える。。。

2021年06月03日 21時58分28秒 | 元の理

今日は久々におさづけを取り次ぎに出かけた。先日行こうと思ったが、相手方の都合が悪く、今日ようやく行くことが出来た。

その方は、先日心臓の身上で入院をされていた方で、ようやく通常の生活が出来るようになり、それでも時折苦しくなるとの事で、おさづけに行ったのだった。

手足がとても冷たくなり、発作が起きるとの事。入院される前に月次祭の時に、とても足が痛そうで揉ませてもらった時に、足首や足の裏がカチカチだった。これだけカチカチでは血の流れが悪すぎると思い、揉ませて頂いた事がある。

1回目のワクチン接種をされたとの事。副反応がなかったので良かったと思ったが、今後ともお守り頂きたいと思いながら、今日も少し手と足を揉ませてもらって、おさづけをさせて頂いた。

政治や医療に疑念を持たなければ、私は率先してワクチン接種を進めただろう。けれども、これだけ疑念を持つとそうは行かない。あまりにも、暗い闇を感じてしまう。

さて、親神様のお導きを考えれば、「ワクチンを接種したいと思っても出来ない人」もあり、「したくないと思ってもしなければならない人」もある。

そうした時に、以前本部神殿奉仕の時に、親神様にお願いしたのだが、「全ての人が大難は小難にと守られることを願うしかない」と思っている。

 

表題の「元の理」の話をしたい。

先日ワクチンの事を書いていて次の言葉が浮かんだ。

「素直は神の望み」と聞く。「三才心」とも聞く。

子供が三才までは、親のいう事をそのままに受け取り、そのままに行うのである。

それを親神様は喜ばれた。

そして、その子供たちを守るために、親は懸命に通る。これをされたのが教祖だと思う。

ただ、

「その親の亡きあと、子供が三才のままでは、どうなるだろうか。」と思う時、「元の理」が浮かんだ。

私たち人間は、陽気ぐらしが出来るようにと成人を目指さなければならない。そのために教祖は苦労の90年で現身を隠されたのだ。だから真実を伝えたいとされた「元の理」を、難しいからと言って、投げ出していてはならないと思う。

そこで、「元の理」ついて考えて見たい。

・・・

「ぢば」は、人間宿仕込みの証拠として、かんろだいを据える場所である。

人間を宿しこむとは、男女の営みを行ったという事であり、人間を生み降ろした場所ではない。

また、男女の営みを行った後、「イザナミ」様が三年三月おられた場所でもある。

その後「こうき話」によると、奈良初瀬などと、生み降ろしに回られたという事である。

ここで注意したいのは、『教典』に書かれた「元の理」は、「おふでさき」を元にして、間違いのない所を記されたという認識が必要だと思う。

つまり「こうき話」は、書かれた本ごとに違っているところなどが見受けられて、一つのこうき話をそのまま鵜呑みにして断定する事は出来ないという事である。

この点を考慮して「元の理」を思案して、親神様の思し召しを悟る手掛かりにしたいと思う。

まず、

『教典』第3章「元の理」には、

【元の理】
 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。

とある。
 ここで、「月日親神」という表現が出てくる。月とは「クニトコタチ」、日とは「オモタリ」様の事である。
この2神が人間を作る相談をしたという事である。そして、その人間を作る目的は、「陽気ぐらしをさせて、共に楽しみたい」というものである。

 次に様々な水生動物の名前が出てくる。
 一番初めが「ドジョウ」である。そしてその後に「ウオ」と「ミ」である。
ここで、この「ウオ」と「ミ」に、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう」と約束されている。

 その後、「シャチ」「カメ」「ウナギ」「カレイ」「クログツナ」「フグ」が出てくる。
ここで、いくつかの疑問も出てくると思う。その数点を挙げておいて、その事については又の機会にしたいと思う。

1)今の現実世界にある魚たちが、その当時に本当にいたのか?

2)これらの魚たちは1匹だけだったのか?それとも何匹もいたのか?

3)約束をしたのは、「ウオ」「ミ」だけなのか?

などと私は疑問に思う。

ここには書かれていないが、月日親神の月は「大竜・クニトコタチ」、日は「大蛇・オモタリ」である。

【元の理】
 そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢょの中に、うをとが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。

 続いて、乾の方からしゃちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしょく天のみこととの神名を授けられた。

ここで、注意したいのは、「ウオ」「ミ」以外は、「承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて」月日によって食べられているという事である。

そして、「親神は、どろ海中のどぢょを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。」とあるようにドジョウ」は道具ではなく、「人間のたね」として、月日は食べており、また、この「ドジョウ」に対しては、承知もさせていないのである。
つまり、月日の両神は、「ウオ」「ミ」以外は食べて、取り込んでいる状態での、人間の創造となる。

ここで一つ、思える事は「食べる」という行為がとても重要な事に思われる。
それは、「食べる事」が体内に取り込む事であることからすると、食べる事でその守護を取り入れるという事になるのではと思われるからである。

 人間創造に取り掛かられるためには、6柱の守護を体内に取り込んだ月日が、「ウオ」と「ミ」にそれぞれが入り込んで、「人間創造の守護を教え」とある。とても簡単に書いてあるが、これはウオ」には「シャチ・ツキヨミ・男一の道具」を仕込み、「ミ」には「カメ・クニサヅチ・女一の道具」を仕込んで、「ウオ」が男一の道具を使い、「ミ」の女一の道具に子供を宿しこむ事を教えたという事である。

 これは三日三夜かけて行われて、宿しこまれた子供の数は「九億九万九千九百九十九人」であり、そして「ミ」はその場所に三年三カ月いて、その後七十五日をかけてその子供を生み降ろされたのである。

【元の理】
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなった。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢょを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかって、子数のすべてを産みおろされた。

 この宿仕込みをした場所が「ぢば」である。

 よっと余談になるが、ここの文章から、月日の性質については、他の物を食べる事が出来るものであり、また、「ウオ」「ミ」という身体のあるものに入る事が出来る性質がある事が分かる。(こうき話では、「心を入り込み」と書かれてある。)

 ここまでを「こうき話」十六年本 から見て見たい。(文字は「こうきの研究」に書かれていたそのままであるので、分かりにくいと思うが、太字にしておいた。)

 此の世は、元人間も世界も無く、泥の海ばかり。その中に、神と云うは、月日両人(居たばかり。此月様と云わ《補・梶本本22》)くにとこたちのみことと云う神なり。日様はわおもたりのみことと云う神なり。その中より、月様が先に居てた。国床を見定めて、日様へお談じなされ候には、
 「泥の海に、月日両人居たばかりでは、神と云うて敬う者なし、何の楽しみもなく、人間を拵え、その上世界を拵えて、守護をさせば、人間は重宝なる者で、陽気遊山を見て、その他何事も見られること」
と相談定まり、此の人間を拵えるには、種・苗代が要るに、道具雛型なくばいかん事故(註:ことゆえ)、道具雛型を見出すること。
 見澄ませば、ぎぎよと云ううをがいる。此うをは人ぎよとも云う魚、人間の顔で、鱗なし。肌は人間の肌。又見澄ませば、みいと云うしろぐつながいる。この者も、今人間の肌にて、鱗なし。この二人とも、心は真っ直で、正直なる者、此の姿、心を見て、これを引き寄せ貰ひ受けて、此の姿をも以て人間拵える種・苗代に貰い受け様と、相談まします。右両人引き寄せて、
 「此の度人間と(云者を拵ゑ度ニ付、其《補・梶本本22》)方(註:ほふ)の姿、心を以て、人間の種・(苗代《補・梶本本22》)に貰い受けて、」
仰せられ候えば、両人嫌うて、断りを申上ると言えど、押して貰い、
 「人間を拵え、世界を拵えその上は、此の世の一神に授け、人間の親神と拝ますことゝ、」
言うて無理に承知をさせて、貰い受け遊ばされて。

 それより、なによの道具、人間の魂、五体の道具雛型を見出そふと見澄ませば、泥海中にとじよふばかりおる。この者を貰い受け、食べ、此の味わい心を見て人間の魂とす。又見澄ませば、乾の方にしやちほこがいる。此の者に承知をさせて貰い受け、食べて心味を見るに、しやちほこ云ううをは勢い強く、変にしやくばる者である故に、男の一の道具に仕込みて、人間の骨の守護とす。又、巽方にかめがいる。これ貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は皮強く、倒れぬ者である故に、女の一の道具に仕込んで、人間の皮つなぎの守護とす。又、東の方にうなきがいる。これを貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は勢強く、頭の方からでも、尾の方へも出入りする者である故に、人間の飲み食い出入りの守護とす。これを五体とす。
 人間に、息、風を以て物を言わす道具雛型と見澄ませば、坤の方にかれがいる。此の者承知をさして貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は身薄(すき、味よき者で有、丸き《補・梶本本22》)ものや、角なるものでは風が出ず、身薄きもので扇げば風が出るものである故に、人間の息、風の守護とす。尚も人間の楽しみ、食物を第一に拵え置く道具を見澄ませば、西の方にくろくつないる。此の者を引き寄せ、貰い受け、食べて心味わい、姿を見て、此の者は勢強く、引きても切れぬものである故に、食物、立毛、地より生えるものゝ引き出しの守護として、一に使た道具なり。又、人間の生るふ時親子の縁を、死に出直しの時に縁切りの道具、見澄ませば、艮の方にふぐと云ううをがいる。此の者を貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は大食するもので、食べて中(註:あたる)ものである故に、人間の生き死にの時縁を切る守護とす。此の世のよろづ切るものに守護とす

 これなる魚、道具とするを嫌う者を無理に貰い受け、人間を拵える相談を定めて、ぎぎよしやちほこを男一の道具に仕込み、それよりくにとこたちの命との心を入り込み、男神で人間の種なりみいかめを女の一の道具に仕込み、それにおもたりのことの心を入り込み、女神にして、人間の苗代となして、此の屋敷のかんろたいじばを神体(註:神たい)の中央として、北枕に寝て、九億九万九千九百九十九人の人数三日三夜に南無々々と二人づつ宿し込み給う。此の事を以て、南無とはあうんのことなり。今人間も南無々々として居ることは良ことなり。南無と云うは夫婦のことなり。夫婦とは、天と地を象りて夫婦はじめた事なり。人間と云う名を付けたは、雛形の人ぎよと人間の良き事あれば、これを今にけんと云うことの残り、この二つの理を以て人間と名を付け給う事なり。

とある。ここまでが宿仕込みについての話である。この「こうき話」では五体として、体を作るための守護についてと、その他の働きについて分けて説かれている事が分かる。さらに「こうき話」では、細かい話もあるが、これらを「元の理」では省いている事が良く分かると思う。

次に、生み降ろしについての話になる。
75日かけて生み降ろされたものは、5分(約1.5センチ)であったと言われる。そして99年で3寸(約9センチ)まで育つ。するとすべては出直す。この出直すという言葉は、体は死ぬという意味であるが、魂が新しい体でやり直すという意味になる。そして、父親の役である「ウオ」は身を隠す事になる。

 ここで「出直し」と「身を隠す」との言葉が使い分けられている事に注意すべきだと思う。

次に、「一度教えられた守護により」と書かれてあるが、これは宿仕込みの働きによってという意味である。そして再度「ミ」は元の子数を宿しこむ。そして10カ月経って、この子供を生み降ろした。そしてこの子供は、前回同様99年経って、今度は3寸5分(約10.5センチ)まで大きくなって、すべて出直してしまう。そしてまた、3回目の宿仕込みをされる。この者も5分から生まれて、99年経って4寸(約12センチ)まで育った。
 すると、母親の「ミ」は「これまでに成人すれば、いずれ五尺(約1.5メートル)の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑うて身を隠されて、子供たちも出直してしまったのである。 

【元の理】
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であったが、五分五分と成人して、九十九年経って三寸になった時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経って、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。

ここまでが、「ミ」による生み降ろしについての話である。
「ウオ」がいなくなっても宿仕込みがなされ、「ミ」がいなくなっても、この後人間は、虫鳥畜類などと生まれ変わりをして、最後に「めざる」が残る事となる。

残った「めざる」については、一腹に男5人女5人の10人ずつの人間が宿って、その人間は一番最初の時と同様に5分(約1.5センチ)から生まれた。そして生まれ変わりを繰り返して成長する訳だが、成長の過程と共に世界の変化と人間の変化を記載されている。

 まず世界の変化については、8寸(約24センチ)になった時に、この世界(泥海)に高低が出来かけて、1尺8寸(約54センチ)になった時に、泥海が固まりかけて、海山天地そして日月も区別できるようになった。そして5尺(約1.5メートル)になった時に、今のような世界が出来上がり、人間は陸上の生活を始めたのである。

そして、人間の変化については、1尺8寸までは、一腹に男5人女5人であったのが、3尺までは一腹に男1人女1人ずつ生まれ、3尺で言葉を言い始めて、一腹に1人ずつ生まれるようになった。

そして、子数の年限が約束であった立教の時である天保9年を基準に、水中の住まいの年限を9億9万年と教えられ、その後6千年は知恵、残りの3千9百9十9年は文字の仕込みをされて、現在に至っている。

【元の理】
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残った。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになった。次いで、五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

ここまでを「こうき話」でみて見る。([13]の場所になる)

 人間拵えたのは此のやしきの中央にて、前の部にある通り、いざなぎの命しやちほこを男の一の道具に仕込み、それに国常立之命を入り込み、どじよふ人間の魂として、いさなみの命かめを女の一の道具に仕込み入れた。おもたるの命を入り込み給うて、人間の苗代として九億九万九千九百九拾九人の人数を南無々々と二人宛三日三夜に宿し込み、三年三月留まりて居りて、それより今の奈良、初瀬七里四方の間七日かゝり産み下ろし、此のぢばが神かたと云うのは此の処なり。残る大和の国中四日かかりて産み下ろし、これで十(一《補・梶本本22》)日がおびやあけと云う。山城、伊賀、河内、三ケ国十九日かゝりて産み下ろし、これ三十日をはんみやと云う。残る今の日本中四十五日かゝりて産み下ろし、都合七十五日の間かゝりて産み下ろし、これ故に七十五日の間はおびや中と云うなり。即ち、産み下ろし毎に親の息をかけて産み下ろしおく。このぢばは今の宮地の地場となりてある処なり。これにていさなぎ様は死亡する
 此の人間生まれ出しては、五分より生まれて九十九年目に三寸迄成長して、皆死亡す。又、元の人数を同じ胎内へ宿り込み十月目より、又、諸処へ産み下ろし廻りこの地場は今の墓所なりてある処なり。此の人間も五分から生まれて、九十九年目には三寸五分迄成長して、皆死亡す一度教えたる守(護で、元の人数同じ胎《補・梶本本22》)内へ三度宿り込み、又、十月目より、以前の諸処へ産み下ろし、此の地場は今のはらてらの詣り所なり。これを一みや、二墓、三原(註:三はら)と云う参り所なり。
 此の人間も五分から生まれて、九十九年目に四寸迄成長すいさなみ様はこれを見て、こゝ迄成長するならば、五尺の人間になると喜こんで、にいこり笑うて死亡なされ、また四寸の理と、につこり笑うた理を以て、生まれ出るところも二寸に四寸、死に行く穴も二尺四寸と云うなり。
 又、此の人間も親の後を慕うて、残らず死亡す。それより、鳥類、畜類、虫螻(註:むしのら)異形の者と八千八度生まれ替わりた故に、今人間は何もの真似でも出来る事なり
 此の年限は、九千九百九十九年目に死亡す。又、さるが一人残りいる。これはくにさつちのみことなり。此の胎内に、男五人、女と十人づゝ生まれ、此の人間も五分から生まれて、五分々々とだん/\成長して、又、八寸迄成長した時に、泥水、高低出来かけ、一尺八寸迄成長したに子が親(となりて、元の人数生揃ひ《補・梶本本22》)水土分かりかけこれより男一人、女一人と二人つゝ生まれて三尺迄成長した時に、天地海山分かりかけ、人間物を言いかけ、それで、今人間は三才で物を言いかけるなり五尺成長する迄は水中に住ま居。五尺になる迄に、人間の成長に応じ、天地海山、水土速やかに分かりあり
 人数九億九万九千九百九十九人の内、大和の国へ産み下ろしたる人間は日本の地に上がり、外の国へ産み下ろしたる人間は食物を食い廻り、唐、天竺の地上がり行きたものなり。
 此の年限九千九百九十九年之間水中の住まいす地に上がりたるより四十六年以前迄の年限九千九百九十九年なり。此の内、六千年の間人間に神が入り込み、何事も教え来たる事なり。人間のする事を神が教えたる事は誰も知りたる者はない筈の事、人間を拵えても、これ迄人間に入り込んで、口を借りて教えたことは今初めの事故に、実に承知する者少なし。虚言(註;きよふげん)と思えば虚言となる。真(註;まこと)と思えば真なる。神の言う事は真実と思て願えば、拝み祈祷や、薬飲まいでも、話一条で皆たすかる事、これ証拠なり。

 

今回は、「元の理」と「こうき話」を照らし合わせて見た。

上記の「こうき話」で赤字にしたところは、気になるところであるが、それ以外に思う事があるので、これらについては後日に書いてみたいと思う。

 

親神様・教祖、今日も一日ありがとうございました。

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