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あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

「八つのほこり」の受け止め方の変化(体験談)から。。人間は成長している「部落解放研修会」より。

2021年06月24日 09時01分54秒 | 思った事

フェイスブックで、「これからどうなるのだろうか?人工的人口削減・宇宙人・人工知能と人間。。。」と、そんなことを書かれていた。
それに対してコメントを書こうかと思ったが、Facebookはアクションをしていないと、その記事を探すことが難しい。

さて、そうした事に対して、私の経験から話をしてみたい。

表題に「八つのほこり」の受け止め方の変移、と書いた。

皆さんはこの「八つのほこり」をどのように受け止めているだろうか?

まず、「八つのほこり」の話を聞くと、「おしい」と思ってはいけない。「よく」は持ってはいけない。「かわいい」と思ってはいけない。と

説き分けの内容よりも、ほこりの言葉だけを捉えて、それはダメだ。と思い込む事がはじめではないかと思う。

実際に、私も若いころはそう思った。

私の場合は、人に挨拶や言葉を掛ける事が出来なかった。今でいうならば自閉症的なものかもしれないが、ともかく人と話すことが苦手であった。

そうした時に、「八つのほこり」の「かわいい」が目につき、「我が身かわいいの心があるからだ」と思い込み、自分を捨てる事に躍起になった。毎日回廊拭きに出かけて、ひざあてもなく、ズボンを膝までめくってしたこともあった。

また、「欲しい」と思ってはならない。と思って、何も求めずに、与えられた物だけでと思って通った。

ところが、その心はいつまで経っても、無くならない。

その内に、「自分はダメだ。心定めも続かないし」と思うようになり、「もう心定めはしない。」という心定めをしたほどだった。

それから月日が流れて、会長になり、支部の学生担当の役をもらった。

あの頃の学生会は、大人の人から嫌われていた。「好き勝手なことばかりして、男と女が。。。」などと、口には出さないけれども、若い人々に対して批判的な雰囲気を持っていた。

学生と直接関わると、若いのでそうした気持ちがない訳ではない。けれども、お道を求めようとする心も持ち合わせている。と感じた。

そうした時にどうしたらよいかと考えて、行事や会議の様子を事細かに記して、関係の教会に配ると共に、会議はどうしても夕方から夜になるので、その子供たちの送り迎えをした。

そうする中に、学生たちにお道の話をしてやりたいと思うようになった。しかし、自分自身にそのお話をする事についての自信がなかった。

そこで、ある本部員先生に「教校の先生に出向してもらう事はできないでしょうか?」と尋ねた。

すると、その先生は「お前たちには、天理教のすべてを教えてある。自分でやれ。」と言われた。

私は、「教えられたことがすべてなのか。」と思うと共に、教えられた事を理解できていない自分を反省した。

そこで、一から学び直そうと、まず基礎である「信者の栞」の「八つのほこり」に目を通すこととなった。

その時である。

先にこのブログにあげた「八つのほこりの説き分け」には書かれていない部分があるところに、心が止まった。

それは、説き分けに入る前の冒頭部分である。

ここに書き出しておく。『信者の栞』22頁

 八つのほこりと聞かせて頂きまするは、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つでございまして、この八つのほこりの心というは、日々に、知らず知らずの間に使うものでございまして、知らず知らずの間に積もり重なり易きもの故に、ほこりとお聞かせ下されるので御座います。
 そこでこのをしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つは理のかどめを仰せられましたのであります故に、をしいと申しても、幾重にもほこりの道はございます。ほしいと申してもその通り、その外皆同様で、ほこりの心や、ほこりの行いは、幾千筋あるともわかりません。
 さればその幾千筋とも限られぬ、ほこりの心、行いを一々申し述べるはなかなか出来うる事ではありませんが、ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。

とある。この部分は、確か別席のお話にあると思う。

下線を引いた部分、

ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりません

ここに気が付いたのである。

どういうことかというと、これまでの私は「よく」と言ったら、全ての「よく」が悪いと思っていたのである。

人間が生きていく上には「食欲」がなければならない。子孫を残すためには「性欲」がなければならない。

この欲が悪くて、それを無くしては、人間として生きる事は出来ないのである。

問題は、「ほこりではない事」を「ほこり」と思い違える事、「ほこり」を「ほこりではない。」と思い違える事、この見分け聞き分けをする事が重要だと思ったのである。

それから、学生たちには事あるごとに、このような話をしてきた。しっかりと自分自身で見分けるようにと。

ある時、大教会の神殿講話が当たった時に、この話をした。ほとんどの人は「そんな馬鹿な。」という表情だった。

しかしそれから後、段々と皆さんの「ほこり」に対する考え方は変わって来たように感じた。

 

そして、ここ数年前の事である。

このブログで、警察や銀行へ走り回ったと書いたことがあるが、海外の人とのやり取りで詐欺にあったのである。

私は、何とかしてその人を助けたいと思って行ったところが、振り込んだ口座が不正な口座だったのである。

それでようやく目が覚めたのである。

それもふとしたことが思い浮かんで、大難を小難にしてもらったのである。

騙されたのは、私のいんねんによるもので、家族には本当に迷惑を掛けました。

それからは、自らの心のほこりを考えるだけではなく、人のほこりに気を付けて、「ほこり」をよけて通るという事を考えるようになりました。そして、SNSにくる「不在配達メール」の電話番号を、Facebookに出して、注意喚起もしました。

私は、経験しないと学べない人間です。だからとても時間がかかっています。

けれども、そうした経験で、心や考え方を変えて頂いた事は事実です。

ですから、

アメリカ大統領選挙を皮切りに、中国共産党などなど、世界中で多大な事が起きています。

そして先の事については、量子コンピュータ、フリーエネルギーや宇宙人などなど、これまで陰謀論と言われていた事が、現実にあったと言える状態にもなって来ています。

これらも、私たちの心の切り替え、考え方の切り替えを求める親神様の導きだと思います。

どのようなことになっても、それぞれには、それぞれのいんねんにあった人々の中に生活をします。

その関わる世界が、インターネットによって段々と広くなってきています。顔を知らない人と会話をするのです。本当かどうかの判断はとても難しくなります。

ですからこれからは、ますます神様にお守り頂く、心の時代だと思います。

「八つのほこり」で「人は、ほこりを積むもの」をしっかりと土台にして、良い思案を浮かばせて頂けるようになりたいと思います。

 

そして、コンピュータに支配されるかされないかは、それぞれの心次第だと思います。

人任せにするのではなく、それぞれが考えたり思ったりすることが、とても重要ではないかと思います。

自分の考えた事が正しいかどうかを検算するために使えば、支配されることはありません。

 

先日、宗教連盟の関係から、愛知県や名古屋市が後援する「解放をめざす愛知研修会」に参加して来ました。

その時の講演の中で、「人は誰でも差別をするものだ。という認識を持っている事が大切で、その差別をしてしまう「色眼鏡」を自覚することが大切」とありました。

さらには、差別をなくすためにと様々な事を提案されるが、それを行う事にばかりに目が行って、それによって差別をしている場合がある事を知って欲しい。大切なのは、どうしてそのような事になったかという根本を理解する事だ。とも言っていました。

また、事業者が雇用をする上について、無意識の色眼鏡で大切な人材を雇用しそこなっている場合があるとも言っていました。

講演者はジャーナリストの方でしたが、正しくその通りだと思いました。

「八つのほこり」から言えば、色眼鏡は、癖性分であります。色眼鏡を外すまでは行かずとも、薄くすること、これも一つと思います。

天理は問題の多い地域でしたから、高校時代から解放などの話は聞いてきました。また、その後もなんどかこうした講座も聞きましたが、それらの講座に比べると、考え方が進歩したなと思いました。

本当にありがたいと思いました。

 

思うがままに書きました。お付き合い頂きありがとうございました。

 

コメント
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