葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

ちょっと弁解ーー前回の投稿に関して

2012年06月17日 09時32分53秒 | 私の「時事評論」
お早うございます。梅雨のうっとうしい空も今朝は一段落。
 
さて昨夜はうっとうしい随想をブログに載せました。あとで考えてこれは発表するよりも心のメモであって、何も表に出すものではないと思うのですが、人生には節目というものがある。私はいま、自分が75歳という年を迎え、しかも同時に父を見送り、20年という年を過ごし、これからは「老人」ということを自覚して進むべき天気に来ています。
 
75歳を越して人生や環境は変わるのか。一般には「連続の中の数字的区切りにすぎないから、そんなに変化はないだろう」と、特に若い人は当然思うでしょう。
 
だが、これが変わるのですね。肉体的、頭脳的にも大きな転換点であることは自分も意識するし、見回すと我が家の家庭環境も、身体の弱い孫息子が生まれて、「一緒に暮らそう」と息子一家と同居して、老夫婦二人、子供や孫が遊びに来ること、散歩をし、また部屋や庭を眺め、読書すること」などを楽しんできた人生が一変した。収入が年金だけになったら、ここにきて介護保険、健康保険、予想もしなかった法定福利費が急増し、冠婚葬祭などの社交も急増する。どうしても生活ペースを計画的に立て直さねばならないところに追い詰められたような気がする。
 
生活設計は物理面だけではない。心の持ち方も必要なのではないか。今までは人から教わることを中心にした私の素養というものがあり、それを基準にしてやってきたのだが、いつ終わるかもしれない最後の人生期に、自分で習得した生きざまの特徴を生かして終わりを迎えたい。
 
そんな思いがあったので、父のまつりに際してのメモを記しました。
 
私は生涯を日本の基礎信仰である「神道」のかかわりを持って暮らしてきた男です。自分では神道についてのものの考え方や解釈は一通り身につけ、それを正しいと思って暮らしてきた男です。
 
だがいま、人生のこの時点に来て自分を眺めると、「常識」という概念の上に、自分なりのオリジナルな解釈で味付けし、それを自分のものにして生きてみたいという欲望を感じます。大量生産された車や家電製品でも、それぞれの人の好みで色を選んだりアクセサリーをつけて個性化を図るように、私の日本人、神道人としての人生観にも私なりに色付けし、私個人のものだという愛着を持ちたい。
 
それがあの文章の父親感、先祖感、そして「まつり」の個人的アクセサリーになって来ているように感じます。
 
日本人は殆どの人が「神道」という言葉でくくれるかどうかわからないが、神道的なセンスを持って暮らしています。それを共通項で整理していけば、共通の「神道」というものにになるのでしょう。敬神崇祖、万民和楽、天下泰平、尊王の気風。
 
いろんな表現ができるでしょうが全国の神社が共通に掲げるような信仰の姿です。それは神社庁や神社本庁などが掲げているものなのですが、個人個人にとってみれば、共通項目というだけで色が無い。そこの自分なりの特徴や個性が加味されてそれが本当のその人のものになります。
 
その色付けがほしいと思う心が、昔からあって自分なりには求めて来ていたのですが、いよいよ強烈に欲しくなってきた。
 
そんなところだと思います。だから、それは他の色の車に乗りたい他の人に対して、「赤い車に乗れよ」と勧めることは出過ぎているように、他人に押し付けようとするものでないことをお断りしておきます。

ちょっと弁解ーー前回の投稿に関して

2012年06月17日 09時19分15秒 | 私の「時事評論」
お早うございます。梅雨のうっとうしい空も今朝は一段落。
 
さて昨夜はうっとうしい随想をブログに載せました。あとで考えてこれは発表するよりも心のメモであって、何も表に出すものではないと思うのですが、人生には節目というものがある。私はいま、自分が75歳という年を迎え、しかも同時に父を見送り、20年という年を過ごし、これからは「老人」ということを自覚して進むべき天気に来ています。
 
75歳を越して人生や環境は変わるのか。一般には「連続の中の数字的区切りにすぎないから、そんなに変化はないだろう」と、特に若い人は当然思うでしょう。
 
だが、これが変わるのですね。肉体的、頭脳的にも大きな転換点であることは自分も意識するし、見回すと我が家の家庭環境も、身体の弱い孫息子が生まれて、「一緒に暮らそう」と息子一家と同居して、老夫婦二人、子供や孫が遊びに来ること、散歩をし、また部屋や庭を眺め、読書すること」などを楽しんできた人生が一変した。収入が年金だけになったら、ここにきて介護保険、健康保険、予想もしなかった法定福利費が急増し、冠婚葬祭などの社交も急増する。どうしても生活ペースを計画的に立て直さねばならないところに追い詰められたような気がする。
 
生活設計は物理面だけではない。心の持ち方も必要なのではないか。今までは人から教わることを中心にした私の素養というものがあり、それを基準にしてやってきたのだが、いつ終わるかもしれない最後の人生期に、自分で習得した生きざまの特徴を生かして終わりを迎えたい。
 
そんな思いがあったので、父のまつりに際してのメモを記しました。
 
私は生涯を日本の基礎信仰である「神道」のかかわりを持って暮らしてきた男です。自分では神道についてのものの考え方や解釈は一通り身につけ、それを正しいと思って暮らしてきた男です。
 
だがいま、人生のこの時点に来て自分を眺めると、「常識」という概念の上に、自分なりのオリジナルな解釈で味付けし、それを自分のものにして生きてみたいという欲望を感じます。大量生産された車や家電製品でも、それぞれの人の好みで色を選んだりアクセサリーをつけて個性化を図るように、私の日本人、神道人としての人生観にも私なりに色付けし、私個人のものだという愛着を持ちたい。
 
それがあの文章の父親感、先祖感、そして「まつり」の個人的アクセサリーになって来ているように感じます。
 
日本人は殆どの人が「神道」という言葉でくくれるかどうかわからないが、神道的なセンスを持って暮らしています。それを共通項で整理していけば、共通の「神道」というものにになるのでしょう。敬神崇祖、万民和楽、天下泰平、尊王の気風。
 
いろんな表現ができるでしょうが全国の神社が共通に掲げるような信仰の姿です。それは神社庁や神社本庁などが掲げているものなのですが、個人個人にとってみれば、共通項目というだけで色が無い。そこの自分なりの特徴や個性が加味されてそれが本当のその人のものになります。
 
その色付けがほしいと思う心が、昔からあって自分なりには求めて来ていたのですが、いよいよ強烈に欲しくなってきた。
 
そんなところだと思います。だから、それは他の色の車に乗りたい他の人に対して、「赤い車に乗れよ」と勧めることは出過ぎているように、他人に押し付けようとするものでないことをお断りしておきます。