葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

「あすなろ」と馬鹿にされたくないが

2009年06月14日 17時51分55秒 | 私の「時事評論」
 親と子、隣人や仲間と共同体である意識、睦み合う心を忘れたような事件が次々に起こります。隣国の北朝鮮は世界を相手に(とくに日本や米国を)脅せば勝ちさと言わんばかりの事件を続発させ、ソマリアでは日本の生命線を揺さぶる海賊事件が起き、加えてこれまで大きく依存してきた米国経済が立ち直れるか否かの危機に直面し、不安は高まっています。
 そんな事態にいらいらし、国を挙げて対応しようとの空気もあるのですが、憲法が制約になるとか、今までの日本の原則に合わないとの反対があり、世界の物笑いになる状況はいよいよ進むばかり。お互いに結束して国や仲間を守る気持ちがない。この気風が日本の命取りになるのではないか、そんな心配は日々に強くなります。
 憲法はしょせん、国民生活を円滑にする道具にすぎません。国民が歩いていくための靴みたいなものです。だが日本では「靴のほうが大事だ。靴が合わないのなら国民の足を削るべきだ」というようなことが大真面目で主張されます。
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 考えると、こんなおかしな空気を作り出しているのは、国そのものに責任がありそうです。一例をあげると夏になると毎年騒ぎになる靖国神社。国のために死なざるを得なかった人々の霊を祭るため、国が作った施設。世界のどの国でも最も大切に扱うこんな施設が、日本を占領した米軍の命令で「神道は宗教に当たるから政教分離原則徹底のため、維持してはならぬ」と命ぜられ国が放り出して、もう六十年以上が過ぎました。だれの責任で命を失わなければならなかったのか、そしてだれが作ったものなのかなど、大切なことには国は全く頬かむりをしたままです。
 こんな国自身が率先垂範の無責任はほかにもいくらもありますが、こんなことばかり国がするのでは、国民が国に敬意を表するわけがありません。
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 キリスト教を国民の大半が大切にする国も、仏教を大半の国民が信ずる国も、今ではほとんどの国が同じ政教分離原則を定めています。でもどの国でも、大切な国の式典はキリスト教や仏教や回教、ユダヤ教など、その国の国民の中にある宗教にのっとって、真心をこめて盛大に行われているのが現実です。それを日本だけはやろうとしない。なぜなのかの真の原因をもっと別の面から考えてみる時期だと思います。おかしいのはそれらの神道儀式のプロである神主さんがたまでが、こんな歪みを見ても黙っているように見えるのですね。
 私はそれを日本人の頭がすっかり西欧かぶれになっていることにあると思います。何でもかでも欧米の真似をする。日本に従来あったものを軽視する。そんな意識が神道という、日本生粋のものを知らないままに蔑視する結果になっています。もしも靖国神社がキリスト教の施設だったら、もうとうに国の公然と維持するものに復活をしているでしょう。事実、日本では公然とキリスト教で維持されている施設や行事はたくさんあります。
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 日本独自の長い環境の中で作り上げた文化を大切に思わずに生きる私らは、自国の文化を大切にする国からみれば、有色人種のくせに、いつも個性を無視して二流の西欧人に育ちたいと憧れている下らぬ人間に見えるでしょう。
 明治維新いらい、日本は西欧の近代科学を取り入れてある面では大きく国民の生活水準を発展させました。だが半面、外国ばかりをうわべだけ見て真似ることに熱心で、その間に失ったものもあまりにも多かった。ヒバという立派な名前がありながら、いつかはヒノキになりたいと思っていると冷笑される「あすなろ」のように、日本人は見えるのではないでしょうか。