葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

安倍内閣の一カ月

2013年02月03日 18時08分01秒 | 私の「時事評論」
政権発足から一カ月

 昨年暮に、安倍自民党政権が発足て一ケ月が過ぎた。施政方針に続き、安倍内閣が作った補正予算、次いで明年度予算も審議される183通常国会も開かれて、また時期的にも新政権がどう動くかの方向性も国民の前に示される時期となった。施政方針演説、それに関する代表質問などを見ながらこの文を書いている。
 
 しかし、今のところ安倍政権の評判は、おおむね実際に行った行政活動成果というより、その前に三年続いた民主党政権が、現実の政権を担当する政党としての力を持っていなかったこと、突然政権を握ったので、我が国を運用する能力がなく、思いつきの素人政治のみを積み重ねた無能かつ方向も見えぬ混乱状態になった。これに日々の生活をかき乱されて、
「もうこんなことばかり続けられては日本は直ちにダメになる」
と呆れ果て、将来に深刻な不安を抱いたことに伴う国民意識の急転換に支えられているともいえるだろう。
 
 どこに向かって飛んでいくのか、あるいはいつ落ちるかわからぬ飛行機に乗ってしまった国民が、せめて安全に未来に向かって飛びそうな飛行機に乗り換えたくなるのとよく似て、安定と目的をもち将来を予想できそうな政治を望むのは当然の心理。それが過去において、目的はあいまいだったが、無難に行政を続けた自民党政権のほうがまだましだったとの空気を作り出し、国民が口をそろえて民主党政府批判を始めた中の年末だった。だがそんな自民党も、バラバラな主張を持つ連中の集団で、明日への統一した方向性を持たなかった。それが国民の迷いであり、いったんはそんな自民党を見捨てて民主党に期待をしたのが国民だった。
  
 だが期待した民主党に絶望したところで、安倍晋三元首相が自民党を本来の日本の伝統を回復させ、経済も強硬に立て直すと宣言して動き出した。それが時のよろしきを得ていて、国民の湧き上がる期待につながった。そんな国民の人気が雰囲気として自民党総裁選にも影響し、自民党内では必ずしも一番人気ではなかった安倍晋三氏を再度総裁に選出させる世論として働いた。安倍氏は一度、病気を理由に就任直後に首相の座を退いた人物である。だが日本の戦後の保守党の嫡流であり、過去の経済繁栄の時代への国民の郷愁にもつながり、しかも安倍氏は戦後の我が国の混乱した世情を曲がりなりにも持ちこたえてきた政権の主流の末裔である。しかも今、安倍氏は在来の戦後の政治の潮流に対して必ずしも肯定的でなく、さらに首相経験もある。加えて彼が「戦後の日本にはびこった悪しき風潮は将来のために除去すべきだ」と訴えているのも、国民の共感を得る時代になってきている。
 
 政治の中心を強い経済力の回復と、日本の伝統の美点を回復し、憲法なども改正し、国が明日を期待できる日本にしようと訴えていた。それが国民にもう一度安倍氏に政治を託してみようという力となった。
 
 こんな世論の動きが、総裁選の党員投票では二番手であった安倍氏を、自民党の総裁に選ぶ追い風となり、続いて行われた衆議院選挙で、安倍氏の率いた自民党を圧勝させる結果となり、彼はついに首相に選ばせることにつながったのだった。国民が安倍氏を選びだして、彼を首班に選んだというのは言い過ぎかもしれない。安倍氏本人も大いに日本の改革を訴え、再度日本の舵取り役を果たそうと活動し、その力で首相の座に復帰したことはもちろんだ。だが彼の政権掌握の背後には、時の流れが安倍氏有利に明瞭に働いた。また、中国・韓国との尖閣・竹島の争いや、中・韓と日本の対立、経済摩擦などの緊張した雰囲気も、国をまとめて対応するという彼に大いにプラスした。
  
 そんな大きな時流と国民心理の流れがあって、国内には現状への不満と将来への危機感があって、安倍政権は成立した。もちろん、この時の流れに乗ろうとしたのは安倍氏ばかりではなかった。昨年末の総選挙には、日本の現状を改革しようと訴える新政党も乱立したが、安倍氏にはその中で、国民の期待をもっとも実現してくれそうな信頼感を生んだ。まさに時の流れが彼に味方した結果が生んだ一カ月の動きが主であると判断せざるを得ないだろう。
 
 
 首相に就任以来、安倍氏はそんな国民の空気を巧みにつかみ、次々にまず経済政策を中心に政策を公表しはじめた。辛辣な表現といわれるかもしれぬが、政策というものは効果が上がるまでには時間がかかる。だが安倍政権ができたということだけで、まだ何も具体的な政策が成果を得たという実績もないのに、止まらなかった悪性円高の基調にも頭打が見え、株価も上昇を始め、西欧はじめ世界の我が国を見る目にも変化が出てきた。
 
 日本をめぐる国際環境は必ずしも好転していない。日中摩擦、日韓摩擦はいよいよ厳しくなっているし、北朝鮮との環境も厳しい。それらは、小手先細工では簡単に改善されないだろうし、加えて新たにアルジェリアでのテロ事件、改善の見通しの見えない米国や西欧の経済環境も改善に向かったとは言えないし、一昨年起こった東北大震災からの回復も遅々として進まない。それが生み出した原子力発電への国民の恐怖と拒絶反応はいよいよ募り、国際環境の緊張を反映した石油や天然ガスの暴騰にも頭打ちの気配は見えない。
  
 そんな中でも、安倍政権支持の空気が依然として国内に高いままで推移しているのは、実に安倍政権にとって恵まれた環境の中に首相に就任したといえるだろう。話は少し合理性からはみ出すが、こんな状況は、安倍新首相にとっては「神意を受けて首相になった」と言えるのではなかろうか。何せ日本という国は、国難が襲ったときには「神の声」というほかにない空気がどこからともなく現れて、日本は断続することなく現在まで歴史を重ねてきている。

 
国会が始まって

 安倍氏は自分の立っている「時の神」の恩恵を知っているようだ。そして首相就任の直後から、相次いでめまぐるしいほどの改善策を打ち出している。「強い経済力は国力の源」であると、まずは続いているデフレ体質からの脱却を目標に、年間2%の物価高を遮二無二進める共同声明を発表、公共投資の急増や進まぬ東日本災害復興事業の在来の政府方針を急転させ、日本経済の新技術開発能力を高め、国内産業の活力回復への地盤作りに懸命である。
 
 民主党政権の定めた基本方針の多くも、「実効が上がらずに低迷していたもの」は迷わず再検討の方針を定め、急速に「安倍政権で国の流れは変わった」との意識を作ることを目指している。
  
 だが、国会が始まると、安倍氏の政府牽引にも、総裁選での公約の全面的実施から、少し工夫を加え始めたようだ。それは「まず強い経済力の回復から」という方針に中心を絞ってきている。
 
 現実に混乱した政局の中で政治を展開していこうとすると、総選挙では三分の二に近い議席数をしめた自民党も、参議院では連立している公明党の勢力を合わせても、過半数をわずかの差で制するのみ。国会の議決を通して政策実現に向かうのには回りくどいが技術も要る。日本の行き詰った戦後体制を打開するために安倍氏の掲げた「憲法の改正」はじめ多くの政治目標は安倍氏にとって不可欠だ。だが国会を制するには、公明党の賛成しないものは、安定過半数のめども立たず、成立は困難なのだ。しかも与党議員である自民党の中にも、伝統尊重を首相と同じように掲げる立場ではないものはいる。そこで安倍内閣としては、国民に最も望まれている「円高・デフレ」や「倒産・失業危機からの脱却を狙う経済政策一本に絞り、その実効をあげてから次のステップに進む。そんな対応に進まざるを得ないことになっていると私は見ている。
 註
(憲法の改定はじめ多くのスローガンを掲げ我々に期待させなが、ら結局はそれをそのうちにやると繰り返しながら時を稼ぎ、だんだん我々の期待から離れて行った自民党。その焼き直しを始めたのだとの安倍政治批判の声もあるが、再発足一カ月の安倍自民党に、そこまで言うのは遠慮しよう)。
  
 
 また、日銀を巻き込んで、通貨の大量増発という国債発行で通貨の大量増発を図り、その資金で国際通貨市場での円安、企業の帳簿上の増益、震災被災地の復興、経済拡大を目標とするのは、明瞭なインフレ化政策である。この副作用として生ずる経済的な弱者の負担を国の赤字に振り向けながら、またときに応じて社会で大きな問題に発展する時事問題には、国家の秩序優先手を考慮して素早く対応して、国の将来に備える姿勢を明白に示して、いまの人気を維持しながら、参議院選で勝利を収める時まではとにかく粘ろう。これが安倍首相の方針で、彼はこれ以外に手はないと思っているように見える。
 
 一億を超す人口を擁する日本が、しかも政府の国の指導力が極端に弱まり、政府自体も信頼されなくなっていた状況において、政府が交代し方針を転換したといって、簡単に成果が現実のものとなるものではない。彼の掲げる経済政策が現実に実効を上げるまでには、短く見ても半年以上の時間もかかる。しかしその間に、国民に安倍政権になってやっと変わったとの実感を感じさせないままでいくと、国民は「やはり政治方針が変わってもダメか」という感情を生み出す。時計の振り子のように揺れ動く国民意識はまた逆転し、本年七月に予定される参議院制度の成果に大きく響きかねない。そんな基本認識が現在の安倍首相の基礎になっているのだろう。
 
 参議院選挙は半年ののちだ。安倍政権の経済政策転換の実効が成果として数字になって示されるまでには、やはり早いものでも半年以上かかる。安倍氏が首相になるまで憲法問題、国防問題、外交問題、教育問題、社会福祉の問題などに多くの政策を掲げたのにもかかわらず、国会において、それらの問題があまり表面に出てこないのは、そんな実情によると見るのは好意的にすぎるだろうか。


 
 
 にじみ出ている保守への意欲
 
 
 
 安倍首相は日本の伝統的精神基調への回復を目指すと公約した。彼は我々がいままで苦い思いを経験してきた自民党の党員だが、国会での首相の答弁などを見ていると、随所に首相が本気で思い、安倍らしさも出していると期待させる。
 
 現在の社会問題になっている悪しき現象の数々は、戦後の日本人が、日本民族がかつて一貫して培ってきた社会意識・道徳意識・そして自然を神として共同して生きるつつましさを放り投げ、なりふり構わぬ自己中心の精神、たとえ日本人の育んできた共通の道徳観念を離れても、「法に触れなければ何をやってもよい」との傲慢さ、無責任な個人主義に侵されているところから生じている。国の教育方針までが、戦後はそれを認めて助長しているのだから、戦後の日本は本当に困った国である。
 
 そんな教育を受け、日本人の良心を失い、我儘勝手を自由の権利と勘違いした人々がどんどん増えて、そこに現代文明の個性無視の軽薄な風潮が加わって、現代日本の文化は、法律で決める政治や法ばかりが重視されてきている。言葉では「法は道徳の最低基準」といわれるが、現代日本人は権利には必ずその裏に義務があることもにも思いがいかないようになっている。そんな法制度下でも我々が生きてこられたのは、一般の日本人に謙譲の心が残り、道徳心があったからなのだ。ところが最近は、道徳と法との隙間をずる賢く狙うことが、成功の秘訣とされるような風潮さえも生まれてきた。
 
 生活には、法とかかわるこれを守らねば国から処罰を受けるという部門以外にも、守らねばならないものがたくさんあり、その第一が道徳だ。相互愛だ。国や社会に対する務めもある。だいたい我々の社会の生活は、政治の関わる部門の外にも大きな広い分野を持っている。生活にとっては、法とかかわる部門も大切だが、法や政治に関する部門の背後に、もっと大切なものがあるもの。お互いに睦みあった家族や社会の関係があり、芸術や美術・文化、信仰生活や風習、人間関係、皇室や寺や宮、地域の集団、職場と自分の関係があり、個性・ファッションからグルメ、友情・信仰・いたわり・喜びなどの世界があり、それが日々の生活を潤し、生活を作り上げているという事実が見落とされるようになってきた。
 

 安倍首相の国会などでの答弁は、そんな部門に属する課題は政治的に、何党ならば賛成だがどこは反対するというものではなく、日本人ならだれでもがたがいに胸を開いて協力すべき問題であると指摘しているように見える。
 
 人間として生きる上の道徳、そんな意識が日本人に最近薄れてきて、日本人の生活が寸断されて、感情も情緒も旧来の日本人とはつながらないロボットであるか仲間意識を持たないばらばらの集団(それは社会とは言えまい)になってきているところが目立っている。そんな状況下の国会答弁で壇上に立つ首相は、結構その種の国民常識を意識して重んじているように見える。
 
 かつて、民主党を崩壊に導いたボスのO氏のように「法に触れなければ、それが善人の証拠だ」などと居直るような姿勢を国政を担当する政治家や公務員はとってはならない。
 
 どこかの党の代表のように、いつどんな理由で攻めてくるかもしれない相手に向かってでも、「自衛のためであっても、紛争はとことん話し合えば起こるはずがない」などと主張する、絶対に話し合いに応ずることがありえない頑固な教条主義のじぶんを恥じない議員。
 
 国政を担当する者は国の見本となる人格者にならねばならない。安倍首相の発言を見ていると「与党も野党も一致して、日本人の模範的常識でともに進みたい」との訴えかけが随所に出ていた。私はその点は甘い判断といわれるかもしれないが評価する。
 
 我々伝統保守的な日本人が、現在の政府に大きな不安を感じていたのは、政治の問題よりも、日本人の文化そのもの、基礎にる皇室の軽率に変えようとする取組みだった。
 
 「皇室」とはどんなものか、西欧に同じような例もないし、憲法条文などを見てもわからない。連綿と続く三千年の歴史があるものをたかが六十年間、それも日本を戦勝国のいいなりにしようと占領した米国軍人が作った条文などを基にいじくれば、うっかりすると歴史ある国宝に安易にメスで修正をしたり、仏像の観音様の多くの顔を「現実に合わない」とひとつに切り落とすような結果となる。だがそんな日本民族の精神文化に無知で軽薄な政府や官僚、学者や文化人・マスコミと称するものは多い。その非常識な理解によって崩されかかっているのが最近の皇室であった。
 


 
 軽率に皇室はいじらない
 

 
 日本人と皇室との精神的なかかわりは、日本国という国が長い歴史の中で強く結びあって固まってきた短く見ても三千年近い連続がある。気象条件が比較的に安定し、四方を海に囲まれて異民族の侵略もなく、穏やかな環境に恵まれた国は世界にない。そんな日本ではもちろん狩猟や漁労も育ったが、中心的には祭祀王を頂点とする農耕生活が社会生活が続いた
 
 私はここで私の信奉する神道は持ち出さない。ただ日本の文化に最も大きな影響を与えたのは天候や気象であり、天変地異をもたらす自然であった。それら自然の動きを神の行為として尊び、自然に対する「まつり」を生活の基礎に据えて暮らし、祭りの主宰者を神と人との仲介者として社会を構成する文明の中から生まれたのが「天皇」の制度の原点である。憲法などで定まったものではない。
 
 皇室制度は先祖から現代にいたるまでの何十億人の先祖たちが、気の遠くなるような歴史の中で、鍾乳洞の大きな石柱が一滴一滴の水滴の積み重ねでできるようにできたものである。己を捨ててまつりをされる「天皇制度」は、意識しようと意識すまいと、国民一人ひとりの心の中に、遺伝因子のように沁みこんでいる。天皇と国民との関係は特に俗務の世俗政治の権限に関しては少しずつ変わってきたが、今でも日本人の心の中には本能的に(否定しようと肯定しようと)存在している。
 
 
 少し脱線した。元に戻そう。そんな天皇制度も明治時代になって、日本が開国して諸外国と接するようになって、西欧文化にも分かるように、また国民全般にも理解できるように西欧の方式を手段に、その政治機能の部分を取り上げて制定したのが明治憲法であった。そしてそれを見て、占領軍が、欧米的に書き換えたのが今の憲法の「天皇条項」である。
 
 憲法などに記された「天皇」は、政治に関わる一部分の政治権限の規定、日本の天皇制度の全体像のほんの一部にすぎない。天皇制度は我が国ではこんな条文よりも限りなく大きい重みをもったものだ。憲法で国の政治権限をまとめて持つと定めた首相と、何も持たないと定めた天皇陛下が先の大震災をはじめお見舞い儀式に行かれた際に、国民がどのような受け取り方をするか。その違いは国民が憲法違反をしているのではなく、憲法で権限を持つ首相と、国民の生活全般で尊崇の対象である天皇陛下との、生活に及ぼす範囲の代償に比例しているのだろう。
 
 その事実を冷静に眺めずに、日本が日本であることを示すような精神的にも厳と生きている天皇制度の重みを無視して、歴史も知らずに憲法での知識などのみで変質させようとする井の中の蛙の動きは、国民から皇室への尊崇の心を奪い取ろうとする暴挙というほかない。
 
 安倍首相はそんな動きに対して国会で、「歴史と伝統を考慮して慎重に判断すべきだ」との基本姿勢をはっきり示した。私はそれを見て、やっとまともにものの見える者が日本の首相になったのかとほっとした。
 
 そんな安倍首相だが、いま、進めようとしている金融政策は、一歩間違えば日本が七十年前の戦争時代に採用し、戦争に敗れたそのあとで大変な苦しみを経験した同じ劇薬であることも忘れてはならない。匙加減一つ間違えば、私など老人は、思い出しても体が震える戦中戦後のインフレ時代に逆戻りしかねない政策でもある。
 また、国民の関心事として、注目される原子力発電も、人類が、特に日本人が現段階で利用して良いかどうかを検討しなければならない大きな問題である。自然を尊び、自然には神が宿るとして生きる文明を築いて守ってきた日本人は、どんなものにも神々が宿る、そしてまた神のもとに戻るものだと意識して、それを我々が利用させていただいた後は、きれいに原状に回復させて神々にお返しするという生活を繰り返してきた。だが放射能汚染の新物質は神々のおつくりになったものなのか。またどうやって「原状」に戻して自然にお返しするのだろうか。これで汚染させた土地をつかさどる神々はどうされるのか。ことごとく我々の信仰である「神道」とは一致しない。「終戦のご詔勅」を出され「人類破滅につながる」と厳しく断定された昭和天皇のご判断とも相反していないだろうか。歴史と伝統を考慮した上に使うにしても、攻めて神々(自然)の生み出したものではない物質を、安全に原状に戻す技術を総力を挙げて作り上げたのちに検討すべき問題ではないだろうか。
 
 日米安保を基本として、日本国の独立を米国などの力に頼って維持していこうとする姿勢においても、私などに言わせると、米国との敗戦以降、米国に従い、自国の主権さえも米国に従属することによって守ってもらおうとする発想を一旦払拭して、もっと基本的なところから日本を眺め社会を見て、日本人らしい独自の発想がほしいと思う。外交の姿勢なども、西欧的な発想のままで相手の土俵でのみ外交を展開するのではなく、日本の土俵というものを堂々と示し、そこで互いに交渉すべき時代であると考える。




これからの政治に期待しよう


だが安倍政権に「らしさ」が出てくるのは、すべては夏の参議院選挙まで待たねばならない。選挙で自民党に独力で政局を乗り切る力が出てくれば、日本の政治の基本を定める憲法の問題にも手がつけられることになろうし、自・公の枠組みのみにこだわる現状から、真正面から改憲を掲げる石原・平沼グループとの連携なども生まれてこよう。ただ参議院選を戦うためには、今は国民の「期待値」で上を向いている安倍人気がその辺りから実績によって裏付けられるようにならなくてはならない。
 
 それに改憲など、独立日本の回復に向かう意欲を持った内閣の支持勢力である衆議院自体も、裁判所の「違憲状態」と判決された中で動く暫定組織であることも忘れてはならない。
 
 ただ最後に、私が安倍政権、というよりは自民党政権とは意見を異にする若干私の主張を加えておこう。
 
 私は現在の日本を蝕んでいる情況は、もちろん占領中にできた日本を二流・三流の国にしようという占領目的に唯々諾々と独立回復後も忠実だっただけではなく、日本文化のあるべき姿などを客観的に考えずに、帝国憲法下の体制から、無理強引に変更をさせられた日本が、独立回復のけじめもつけずに今まで来たところにあり、自民党の責任もこの点では極めて多きいと思う。
 
だがこの状況からの真の意味の独立と、日本国が独自の世界唯一の古い文明をもつ国であり、日本文化の体質の中に、いまの世界が見習うべき美点もたくさんあると思うけれども、そんな歴史と伝統を現代に生かす国に維新するためには、憲法の条文だけを変更したとしても、それで満足とは考えていない。
 
 国の姿勢は憲法だけで決まるものではない。国の方向を定めるのはその国を支える全国民の精神文化である。日本は世界に例を見ない民族が力を合わせてまとまって生きるということを何よりも大切にして、人類社会を見回しても世界中どこにも他に例のない文化を数千年も切断することなく維持し、途中でその志を徐々に見失ってしまった面は否定できないが、自然を征服する相手としてではなく、相調和して共存するものとしてとらえ、人間は一人ではなく、たがいに集団でしか生きられない面を重視し、平和を大切に浦安の国を目指してきた「和魂洋才」を柱としてきた唯一の国であることも忘れてはならない。
 
 「人類社会でのガラばコス諸島のような国だ」などという評も受けるかもしれない。だが西欧文明の「個人主義」的な生活方式、それが生み出した産業革命により目覚まし発展を続けてきた世界は、いま、そのバラバラで勝手に動く「個人主義」的文明の持つ基本的性格によって行き詰まり、そろってこのままでは発達を続けていけない危機に加速度的に追い込められてつつある。
 
 そんなさなかに注目すべきは、自然を神として大切にし、神に対するまつりを通して国民が一致し、家族や友人、社会のことをわがこと以上に大切に思う文明を守り続けてきた日本的文化姿勢なのではないだろうか。
 
 明治維新後の日本は「和魂洋才」をスローガンに、日本に定着する精神姿勢を精神的に大切な柱としながら、技術の面では比較にならない大きな成長を遂げた西欧姿勢を積極的に取り入れていこうとするものだったはずだ。そしてそれは維新直後には大きな成果を上げてきたように思う。
 
 だが、華やかな物質文明に幻惑された日本人は、だんだんとその維新の基本方針である「和魂洋才」の原則を忘れ、大切に守らなければならない日本人の精神史を忘れてしまった。そんな動きには特に外国の技術や学問を修めた人が最も侵され、それが日本がまず知識人、政治家、役人、学者などの順に日本人の心を見失う状況を作り出し、いつの間にか、国民一般よりも彼ら知識人が西欧化を競い、その結果西欧とあらゆる面で摩擦を生じ、こんな日本の姿になってしまった。
 
 期待しすぎているかもしれない。だが日本という国が毅然としてこの世界で生きていく将来のために、まず復活させるべきは「和魂洋才」の精神復古であると思う。そして安倍首相はそんな日本に戦後の日本が舵を切るときに際して、日本国の政治的かじ取りを担う最初の男になれる可能性も持っていると思う。
 
 私は勝手に過分の期待をかけているにすぎないといわれるかもしれないが、駄目だと失望して日本の破滅を迎えるよりも、少しでもその糸口に日本を近づけようとしている安倍氏に期待をかけたいのである。