葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

衆愚政治の極

2009年07月13日 22時47分05秒 | 私の「時事評論」

 最近の政治動向、いらいらするような事件ばかりだが、ここにきて大衆の暴走が、いよいよ我が国を大混乱に貶めるような現象が相次いで起こっている。
 兼ねて地方議会で、自民党の苦戦が続いていたが、今回東京都議会議員選挙で、自民党が見るも無残に惨敗し、民主党が圧勝した。
 その結果は国民の投票が示された結果なのだから否定はしない。だがこれは、都民の都政に対しての不満の声だったのだろうか。オリンピックを辞めようではないか、築地の魚市場は不便でも今のままが良い、結果がいまの石原都政に対する厳しい批判が、ここまで急に盛り上がった結果であるというのなら、それはそれでよい。だが、投票が終わって、石原都知事は「とんだとばっちりだ」といって、眼をぱちぱちさせる癖を丸出しにして怒っているし、勝利した民主党にも新聞マスコミにも、東京都政に関する批判の声が集中したとの意見はまるで見当たらない。そうなのだ。これは国政における麻生政府と自民党に対する不信が、麻生政権への批判の代わりに、石原都政にぶつけられたのに過ぎない。石原都知事は都民から、攻められているわけでもないのに殴られてしまった。お気の毒に、いい迷惑を受けるのは東京都だ。
 ここにきて、東国原宮崎県知事や橋下大阪府知事などを中心に中央集権の政府の体質が地方の声を圧殺している。地方自治は地方自治体と住民の声をもっと大切に生かして行われるべきだとの声があげられてマスコミの注目を浴び、世論調査でも強い関心が示されていた。だが、この都議会議員選挙で都民の選択は、そんな意識を完全に否定して、結果として、あらゆる東京という自治体の政治は、国の主導のもとにある。そこに区別なんぞ認めないという意思表示をした。どうしたことか、マスコミもこの点を全く取り上げようとはしていないが。
 「国政と地方自治とは違った概念のものとして分けて考えるべきだ」との発想法は我が国では通用しないことだと都民は思っているのだろうか。都民は中央集権が好きなのだ。
 もうひとつ、見当違いのところ、この場合都議選で国政へのガス抜きをしてしまうと、いざ本番というときには、案外力が入らないものである。もう済んだとばかりに、総選挙のときには国民は情熱を示さないこともある。果して、この都議選の結果を見て麻生首相は、衆議院の総選挙を急いで実施することを決断した。ここで選挙をしたら、国民の強い自民党政権に関しての不満はいくらか低調にならざるを得ないだろうという観測が一つ、あと、今の自民党の混乱は麻生首相の責任というより、党内が不一致で、ごたごた騒ぐ混乱の状況が国民にうんざりされ、不満を持たれている要素がはるかに大きい。都議会選挙の結果を見て、これら自民党の不満分子が自らが都民に自民党不信を招く元凶であるとの冷静な知識もなく、「俺たちが騒ぐのは親分が悪いからだ」と下剋上の運動を起こし、いよいよの混乱を招くとの判断をしたというのが動機だろう。
 日本の今後の動向を決める総選挙がおこなわれるというのに、この惨状はどこから見てもまともではない。選挙は国民操作の技術合戦の様相を呈してきた。
 私は選挙というものが政治において素晴らしい手段と思いこむにはいささか懐疑的な男である。小泉首相の郵政民営化にはわけもわからずに同意して、あのめちゃくちゃな総選挙での三分の二の自民党議員を生みだした同じ国民が、つい先月は鳩山郵政相に大喝采をした。大衆はうまく踊らされるものに対して免疫性を持たないところにその特徴がある。
 それがもっとも如実に示される例が、今度の都議会選と衆議院の総選挙なのかもしれない。