夢のあと

釣りには夢があります。夢を釣っていると言っても過言ではありません。よって、ここに掲載する総ては僕の夢のあとです。

夢の跡

2013年02月09日 12時43分04秒 | 釣り全般
この鈎、大きさが40cmほどの巨大な鈎です。
以下のようないきさつで作られた特注の鈎のうちの一本です。

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昭和54年5月頃より徳之島母間沖サンゴ磯を根城に600キロ、
乗用車程の大アラが居ると言う噂が
大島郡内や全国の磯つりマニアの話題となり騒動の始まりとなった。

地元の人も過去そういう大魚が目撃された事があると証言

証言その一

母間在住のTさんの話し、
40年くらい前80歳余りの老人の話では
下久志と井之川の中間の海岸でものすごい大きな魚を見たと
言う話を聞いたことがあると証言

証言その二

母間の元郵便局長さんは、
今から17、8年前に聞いた話であるが、母間港の中間辺りで、
鱗の大きさが麦わら帽子位のものを見たと言う話を
聞いたことがあると、証言

噂や過去の目撃証言等で拍車がかかり
ついにはこの魚を釣り上げる話になった。


昭和54年5月頃より釣り上げ計画を立てる
奄美磯釣りクラブでは会員140人を動員して
7月4日から一週間がかりで、釣り上げる計画を立てる

6月に準備のため大島磯釣りクラブの7人の
実行委員会が結成され大島本島より、
今まで誰も見た事が無いような特注の釣り針を持参した。
その時この釣りクラブが発行したプリントには、
次のような事が書かれていました。

①今から十年前ダイバーが海に潜っていた時、
岩のような巨大魚に遭った。
魚が尾びれを動かしただけでダイバーはひっくり返ってしまった。

②7,8年前には、岸から約150メートルのところに
浮かびあがったので、多くの人に目撃されている、
その大きさは人により証言が異なるが乗用車位だという人も居る。

③数十年前には実際に大きな魚が捕らえれている。
重さ600キロもあり、
腹の中から女物の下駄や着物がでてきた。
この魚の子供が数十年生きつづけて、今時々姿を見せる
巨大魚になったと考える人も居る。

実行委員会幹部は1977年の釣りの主要魚世界記録表を調べ
地元の人の証言を聞いて、
この魚は体長4メートル、重さ2トンと推定
大魚はマダラハタ、もしくはアカマダラハタと推定
そして、バールを元に鍛冶屋で特注の釣り針を2本製作させ
その針で乗用車を釣り上げるテストをし、それに成功する、

釣竿はドラム缶8台の上にイカダを組、その上に動かっ車二個を組
大きなワイヤを釣り針につける、
ウキはドラム缶4台にイカダを固定し、その上にウキの見張りが乗り、
トランシーバで竿台上の人との連絡をとる、ウキの合図で
手動で引き寄せる事になった。
豚肉をエサに使用された。

又地元の人達はこれに応援
支援チームを作る事により協力する事になった。
30名ほどで支援チームを作り魚を誘うため、
巻きエサのウニを取ったり岸にやぐらを作る準備をした。

6月の下旬より、大魚の噂は噂を呼び
NHK初め民放関係者週刊誌、各新聞社
からの取材電話や現地取材記者の往来が激しくなり、
地元母間は勿論徳之島全島または観光旅行者なども
この大魚釣りの準備を見物に集まった。

そして釣りが始まったのですが、
待てど暮らせどあたりもなく一向に大魚が釣れる気配は無かった。
7月8日(旧暦の6月15日)大潮に奄美磯釣りクラブの会長は期待をかけた。
不発に終り一度あたりがあったらしいがそれは鮫だったようです。

7月9日地元の協力もむなしく、解体宣言して、
あとかたづけをして引き上げた。
これに要した費用は1千万を超えたと言う
気の毒な話です。

この大アラ釣りを見ようと、島民が繰り出し、
6日から8日までの間で一万人余りに及んだ

この事件をその後大アラ事件と呼ぶようになったが、
なかには、大ボラ事件と呼ぶ人もいる。
真相は深い海の中、誰にもいるいないの断言
は出来ないでしょう。
(http://www.tokunosima-jc.com/tokunosima/main/ara.htmより)

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確かに大ボラ事件と言う人もいます。島に金を落とさせるためにやったのではないかという人もいます。売名行為だと言う人もいます。いろんな人がいます。
 結果が出るまではみんな期待していたはずなのに、結果が出なければケチョンケチョンに言ってくれます。こういう人ってどうなんでしょ?
 僕は釣れなくて良かったと思う派です。夢は夢で置いておいた方がいい場合が多々あります。この事件で夢を見た人は(TVでも放映されたので)相当な数に上ったと思います。現実にこの大アラがいるかどうかはどうでもいいことで、いると信じて色々な試行錯誤を繰り返し挑んでいった奄美磯釣りクラブの方々そしてその行方をかたずを飲んでみていた人たちがその一瞬だけでも夢を見たということが大切なのではないでしょうか?ですから僕はこの鈎を夢の跡として大切にしたいと思っております。

仕方なくBlogタイトルを更新しました。

2013年02月09日 00時26分54秒 | Weblog
Blogタイトルの変更理由
いままで『霞ヶ浦のタナゴ釣り』としてやってきた当Blogですが、本日付けで『夢のあと』と表題を変えます。
 僕にとっての霞ヶ浦は、お師匠さんやお師匠さを通じての友達、周辺に住まわれている方々、そして遠くからでも霞ヶ浦を訪れる方々、そんな方々と一緒に時間を共有した素晴らしい場所でした。釣りを通して沢山の友達が出来、釣りと言うよりも友達に合いに行くといった意味合いがどんどんと増し、交友を深めました。今でも僕の人生の中ではまさに至福の時だったと思っています。
 それが、あの3.11の福島原発事故で巻き散らかされた放射性物質で総てが終わりました。
高濃度の放射能が検出された福島原発の周辺住民は避難させられたのですが、国及び東電は総ての地区を計った訳ではないので所々にホットスポットが形成されても計測すらされない場所が多々ありました。知り合いの簡易線量計では驚くような数値が記録され、とても霞ヶ浦に近付く気にはなれなくなりました。それでも国は非難した人たちも数ヵ月後には戻れるような事を言っていました。本当にそうなのだろうか?と疑問を持ったのは僕だけではないでしょう。現に2年が経とうとしていますが、いまだに沢山の非難したまま帰れない人たちが沢山居ます。もっとも、国も東電も『何十年、何百年も帰れません』とは言えなかったのでしょう。保証が大変になりますから。
 今でも東電の社員はいい給料といいボーナスを支給され、実際に事故の回収に当たっているのは東電の下請け会社の社員という有り様。加えて汚染作業も袋に入りきらなかったと言って除染した高濃度汚染物質を川に流したり。。。誠実さがまったく見えません。そして、今も国会事故調査委員会に対して東京電力が虚偽の説明したりして・・・隠蔽体質もまったく変わっておらず。

こんな状態では多分本当に何十年・何百年というスタンスで物事を考える必要が出てきました。霞ヶ浦は広くて浅い湖です。沢山の流入河川があるので霞ヶ浦に降り注いだ放射性物質に加えてそういう流入河川から流れてきた放射線物質も流れ込みます。そして広くて浅いという事はそこで水分が蒸発しますので濃縮されるはずです。こんな条件がそろっているのですから多分以前の環境に戻るには何十年・何百年とかかるでしょう。例え国や東電が大丈夫と言ってももう信じられません。こんな怖い場所でのほほんと竿を出す必要は何処にもないのです。2年間近く様子を見ていましたがもう霞ヶ浦は諦めました。というより諦めざるを得なくなりました。
 となるとこの『霞ヶ浦のタナゴ釣り』も中に浮いたままになります。

以上のような理由から表題を変えさせていただきました。短い間でしたが、霞ヶ浦にはありがとうとお礼を述べさせていただくと共にお師匠さんや優しかった霞ヶ浦周辺の方々、そして仲間や友達・・・総てにお礼を述べさせていただきたいと思います。
---------ありがとう!---------

そして、今度は表題も新たに『夢のあと』としてこのBlogをやって行こうと思います。
『夢』は寝ているときに見る物ですが、そこから発展して『希望』という意味合いも含まれています。釣り師はこの『夢』を追いかけていると言っても過言ではありません。夢がなければとても釣りなんかやってられません。“今日は大きいのが釣れるかも”とか“今日は沢山釣れるかも”とか“今日は何かが起こりそうだ”とか、とにかく夢を持って家を出ます。またその夢を実現するために道具を整え、釣りの技術を高めるため日々切磋琢磨し、試行錯誤を繰り返し・・・・・。それが釣りだと思うのです。
 いままで僕も沢山のことをやって来ました。そしてその総てが夢をつかむための努力です。そしてそれをここに書き込んで来ました。結果は良く出ることもありますが、ほとんどがロクな物ではありません。でも、この総てがとっても大切な僕の夢のかけらなのです。そして、これからも夢を追いかけて釣り続けて生きたいと考えております。
 よって、ここに掲載したときは夢の後で夢の跡です。よって、「あと」の部分はその両方を意味するので平仮名です。
 これからはタナゴは勿論、渓流(餌釣りと古式てんから)、海の船釣り(ヒラメ)がメインにこのBlogをやって行こうと思っています。勿論、気になることなどは釣り以外でもガツガツ取り入れます。

拙いBlogですがこれからもよろしくお願い致します。

                          (2013年2月9日 管理人)