処分しようと思って東京から送った古い書簡や名刺の束をダンボールから出してみれば、名刺は千枚を軽く超え、懐かしい名前が記憶の底からよみがえる。書簡は更に親しかった人の顔が浮かび、到底捨てられるものではない。しかも、僕の出した手紙は、どんなに恥ずかしかろうと相手の元にある。処分してくれていない限り、残っているのだ。
「1979年欧州旅行」と題したアルバムが出てきた。北周りでフランクフルトに着いて、ひと夏欧州を巡った旅のアルバムだ。あの時、あの場所、あの人は、もう記憶の中にしか存在しない。守れなかった約束、大切に出来なかったふれあい、長い年月を経てもなお、悔いは残る。ベネッツアの海風、マルセイユの夕陽、ネグレスコホテルのドアボーイ、思い出せないものは何もないから尚更だ。平気で他人を傷つける毒舌を吐くくせに、他人に言われた些細な言葉は今も鮮明に覚えている。スイス国境の小さな村の親父が言った。「君の親父さんは鉄砲を磨いているかい?今度やるときゃイタ公抜きでやろう」冗談には聞こえなかった。あれから29年、あの親父は今でも銃を磨いているのだろうか。64年前の夏、鹿児島の海に銃を投げ捨てた父は、94歳の今も、僕には何も語ってはくれない。誰も人生を引き返せないのだ。しかし、立ち止まって考えることは出来る。今はその時かも知れない。
右の前足と左の後ろ足を血の滲んだ包帯で巻いた黒い犬が、悲しげな鳴き声で僕に近づいて来た。抱き上げるとブルブル震えていた。生暖かい犬の腹を撫でると胸が詰まって涙が溢れ出た。疲れて応接間のソファーでウトウトしたわずか数分の夢だった。遠くで銃声がしていた。蝉時雨が、夢をかき消した。ソファーを掴んだ手に生暖かい感触が残っていた。
「1979年欧州旅行」と題したアルバムが出てきた。北周りでフランクフルトに着いて、ひと夏欧州を巡った旅のアルバムだ。あの時、あの場所、あの人は、もう記憶の中にしか存在しない。守れなかった約束、大切に出来なかったふれあい、長い年月を経てもなお、悔いは残る。ベネッツアの海風、マルセイユの夕陽、ネグレスコホテルのドアボーイ、思い出せないものは何もないから尚更だ。平気で他人を傷つける毒舌を吐くくせに、他人に言われた些細な言葉は今も鮮明に覚えている。スイス国境の小さな村の親父が言った。「君の親父さんは鉄砲を磨いているかい?今度やるときゃイタ公抜きでやろう」冗談には聞こえなかった。あれから29年、あの親父は今でも銃を磨いているのだろうか。64年前の夏、鹿児島の海に銃を投げ捨てた父は、94歳の今も、僕には何も語ってはくれない。誰も人生を引き返せないのだ。しかし、立ち止まって考えることは出来る。今はその時かも知れない。
右の前足と左の後ろ足を血の滲んだ包帯で巻いた黒い犬が、悲しげな鳴き声で僕に近づいて来た。抱き上げるとブルブル震えていた。生暖かい犬の腹を撫でると胸が詰まって涙が溢れ出た。疲れて応接間のソファーでウトウトしたわずか数分の夢だった。遠くで銃声がしていた。蝉時雨が、夢をかき消した。ソファーを掴んだ手に生暖かい感触が残っていた。