面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

小さな奇跡

2008年09月30日 | Weblog
 熊本の友人の電話で台風接近を知った。今回は、西から東へ、日本列島を真横に通過するらしい。水不足の四国にとっては恵みの雨をもたらす福の神であろう。

 僕のふるさとの村では一昨年の集中豪雨の悪夢がまだ爪あとを残しているさなか、友人の電話からも緊張感が伝わって来た。東京も愚図ついた天気が続いていると伝えると、身体のことを心配してくれた。お互いに身体を労わりあうなど、若い頃には考えもしなかった会話に苦笑した。

 色づき始めた柿が強風に耐えてくれることを祈る。自然の営みに抗うことは出来ないが、自然が時々小さな奇跡を起こしてくれることを僕は知っている。それは、恵みの雨であり、果実の豊穣であり、鳥やけものへのいたわりであったりする。

 孔子の言葉にもあるが、人間この世に生まれてきて”ああ、生まれてきて良かった”というぎりぎりの幸せだけは確保しなければならない。井上靖は著作「孔子」の中で、”ああ、わが郷里の村にも、いま燈火が入った”という、身分の上下とも無関係、貧富とも無関係、人間なら誰でも持つことの出来る静かな幸せだけはこの地球上から奪りあげてはならぬ、いかに世が乱れようと、人間からふるさとというものを奪りあげてなならぬ。と言わせている。それが政治である。とも書いている。

 田舎の村の柿が色づくだけで幸せな気持ちになれることを思えば、自然が起こしてくれる小さな奇跡に気付く心の余裕を持てるだけで充分幸せなのかも知れない。

 

 

眠れぬ夜の果てに

2008年09月30日 | Weblog
 手元にアーサー・C・クラークの「2061年宇宙の旅」がある。’88年の初版なのでちょうど20年前の発行だ。「2001年宇宙の旅」はスタンリー・キューブリックの映画であまりにも有名だ。続編「2010年宇宙の旅」までは読んだが、「2061年」は20年間一度も読んでいない。理由は、「脳みそがクリア」な時に読みたかったからだ。と、いうことは、この20年間、一度もこの作品を読むに値する「脳みそがクリア」な時がなかった訳だ。

 昨夜、この先どうせ「脳みそがクリア」な時など一生あるまいと、手にとって見た。ところがこの雨だ。SF小説のしかも長編を読める脳みそではない。数ページ読んではソファーに倒れてまた引き返して読むので、なかなか先へ進まない。そうこうしているうちに朝も5時近い。長い夜の果てには必ず朝が来る。

 やっぱり、この作品は「脳みそがクリア」な時に読もう。と、書棚には戻さず手元に置くことにした。所謂「積読(つんどく)」である。音もなく降る雨は夢の入り口をそっと開けてくれる案内人である。夜の底から浮かび上がるように夢魔がやって来る。単調な土笛の音が途切れ途切れに聞こえる。ゼンマイの切れかけたオルゴォルのように、間延びしてゆく。わ…た…し…は…

 

注射された回数

2008年09月29日 | Weblog
 生涯に注射された回数を覚えている人はあまりいないだろうが、僕はその覚えている中の一人である。言い換えれば注射嫌いで子供の頃から現在に至るまで逃げ回っているからである。これから歯医者にでかけるのであるが、迷っている。痛くても麻酔注射を断るか、それとも治療の痛みに麻酔なしで耐えるか、をである。

 ばかばかしいと思われるだろうが、僕にとって注射は親の仇以上の敵なのだから仕方がない。記憶は定かではないが、最初の注射がよほどひどかったのだろう。先月田舎で、小学校の頃かかっていた医者が、実は偽医者だったと父に聞かされた。昔は代診を見習いの書生にやらせることがあったらしいが、その書生さんがそのまま医者の真似事をしていたというわけだ。

 最初の注射は、その病院の若い看護婦だったような気がする。と、すると、その看護婦も偽者だったのかも知れない。嫌だと暴れる子供のお尻を本気で叩いていたし、腕っ節も強かった。勿論、はるか昔のことだが、のどかな時代だったとつくづく思う。さて、歯医者に出かけよう。

存在その不確かな輪郭

2008年09月29日 | Weblog
 今夜は睡眠を摂ろうと思って眠れた験しがない。書き上げた「幕末エンジェル」の細部が気になって何度も読み返している。戯曲は朗読してみて初めて気付く言い回しの心地よさや気持ち悪さがある。俳優に渡す前に読んでおいたほうが安全である。

 稽古場掃除の合間にやった昨日の読み合わせは、爆笑の連続だった。初めて初稿をワープロ原稿で渡したら、北原嬢に「手書きの原稿より楽です」と喜ばれた。僕の手書きの原稿は確かに初見で読みあわせをするには読み辛すぎるかもしれない。

 それにしても「近江屋」を「おうえや」と読んだり「ちかみや」と読んだり、手書きワープロに拘らず漢字の読み間違いが多かった。どうも、テレビで「おバカタレント」というのが受けているらしく、劇団員が笑いを取る為にワザと読み間違えているようにも思えた。「え」と読むなら「ちか」と読むだろうし、「おう」と読めるなら「え」はないだろう。僕がからかわれたのかも知れない。

 戯曲の登場人物は俳優の肉体を通して初めて確かな輪郭が見える。僕が書きながら朗読しても、そこには生きた登場人物はまだ生まれてこない。書きながら時々ふと、僕は自分の存在すら怪しむことがある。演劇とは、あらゆる存在に対する虚構の挑戦である。

 1953年、1月5日、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」が巴里で初演されてから55年、2時間前後の限られた時間と空間に客を閉じ込めて一方的に共感を求める演劇と言う芸術は、今なおあらゆる存在に対して挑戦を続けている。「思想?科白?考えることなんてないよ、僕らはその存在の意味さえ解っていないんだから。ゴドーが誰かって?知ってたら書いてないよ」と、演出しながら俳優にそう言ったというベケットに励まされて、僕が存在しているのは確かな気がする。

幕末エンジェル~伝えたい愛の歌~

2008年09月28日 | Weblog
 11月27から30日までの野方区民ホール特別公演4日間5回公演のタイトルを「幕末エンジェル~伝えたい愛の歌~」に決定した。出演は、堀田ゆい夏、石井香織、里久鳴佑香のアイドルに異色のエンターティナー伊藤アルフ、声優の花井なお、劇団からは北原マヤ、またか涼、西本早希、そして、中国武術の修行で香港大会総合優勝を果たして帰ってきた後藤亨、片山ゲリオン竜太郎、司亮他が揃った。

 今回は渡邊裕二氏をプロデユーサーに迎え、「アイドル」と、「歌」をテーマに舞台の醍醐味をお見せします。僕も500枚のチケットノルマがあるので、気合が入って来ました。どうか、この朝倉薫にご協力ください。総選挙に対抗するわけではないが、毎日、足で売り歩こうと思っています。今日もこれから六本木にチケット営業に出かけてきます。

 劇団稽古場日記のほうもそろそろ活発に動き出すと思われるので、お楽しみください。僕も出来る限り、出演者の横顔やエピソードをブログに書き込んでいきたいと思っています。いつもの「である」調が、「です」「ます」になったのは、どうも、チケットを買ってもらいたい下心のような気がする。泥縄は良くない。常日頃の付き合いが肝心である。と、言うわけで、出かけてきます。

長風呂?

2008年09月27日 | Weblog
 日をまたいで風呂に浸かり本を読んでいた。その所要時間約3時間。丸谷才一著「忠臣蔵」とは何か」(’84年講談社刊)を読み始めたら止まらなくなった。’84年に新刊を読んだ時の感動とはまったく別次元の感動が読むたびに湧きあがる。本居宣長、小林秀雄に匹敵する珠玉の文芸評論文であることは間違いない。この本が手元にあるのは奇跡に近いので、更に嬉しい。

 ’80年代半ばは、レーシングチームにかかわったり原宿で店をやったり、かなり浮ついた生活をしていた。なのに、こんな素晴らしい本を手にいれていた。忘れてはいけない。僕は書物なしでは生きて行けないのだ。

 字を覚えたハイジが言う。
「もっと、もっと本を読みたい。そして、目の見えないペーターのお祖母ちゃんに神様の歌の本を読んであげたい。ペーターにも字を教えてあげよう!」
 長風呂でのんびりしている場合ではない。時間は限られている。さあ、面白い物語を書こう。

駆け込み

2008年09月26日 | Weblog
 26日のブログが空白になってしまう。毎日書き込んでいると、書かないことへの罪悪感が芽生える。今日も残り30分となった。今、40度の風呂に浸かって本を読んでいた。書き終わったら再び浴室へ戻る。書くことはいくらでもあるのだが、書いて良いことと悪いことがある。その見極めは難しい。

 夜毎の悪夢を綴っても後味が良くないだけで、義憤に駆られた暴言は読む人を不愉快にさせるだけ。劇団を持って戯曲を書き演出したり出演したりしているが、まだまだ目指す道は険しく果てしない。夢や希望ばかりを語っても空しく聞こえるだろう。成果を語れば自慢話になる。

 こうして、素直な気持ちと日常の出来事、感動した映画や小説の話を語らせてもらえれば幸せである。少なからず、ブログを書き始めて心の平静さが以前より保てるようになった。ありがたいことである。それに、手書きの原稿に負けない速さでキーを叩けるようになった。11月公演の台本は初めてパソコンだけで仕上げた。手書きの原稿用紙が残らないのは少しさびしいが、東京と九州を往復する今後のことを考えるとこれは前進であろう。

 明日から忙しくなる。出演者の決定が大詰めとなった。台本を渡したり、稽古の日程を決めたり、チラシ、ポスターの制作、チケットの発売、会場の準備打ち合わせ、一つ一つがすべて重要だ。今回はW氏がプロデユーサーを引き受けてくれたことがとても心強い。作詞が完成ではないので、音楽の神津先生にはまたまた迷惑をおかけしている。と、書いている間に23時50分を過ぎた。では、また明日。

幕末に思う

2008年09月25日 | Weblog
 明治維新の革命を成し遂げたのは、体制に捉われない20代から30代の青年たちだったことを思うと、現代の政治の仕組みを根底から変える思想を生むことが出来るのも、青年たちのような気がする。九州にいて思った。真面目に州制(北海道、東日本、近畿、西日本、九州(沖縄)の六州制)を考える地方政治家がいて(彼は32歳)、廃藩置県ならぬ廃県置州の発想は乱暴だが悪くはないと同感した。むしろ、明治維新の体制を引きずって現代の改革はないような気になった。すでに、通信、鉄道、流通界においては立派な州制に思える。文化にしても、福岡、熊本では、東京、大阪に負けず劣らずの熱い息吹きを感じた。

 何事も、既成の概念から脱出するのは至難の業だが、これだけ地方の疲弊が怨嗟として広がっていれば、熟した果実が落ちるように、体制も滅び行くのは必然であろう。滅びたあとに来る新世界に生きるのは僕ら老人ではなく、若者たちである。その若者たちの手助けをすることが、本当は僕らの仕事かも知れない。なのに、この国のリーダーは70歳近い老人である。アメリカに負けているのが悔しいのではない。20代、30代が活躍した時代が百年前にはこの国にもあったのだ。

 32歳の青年は、たかが県会議員ですと謙遜した。肩書きではない。坂本竜馬に肩書きはなかった。明治憲法草案の10年前に、彼は夢語りに同じことを同志に語っていたらしい。今も、日本の何処かで、新しい国の仕組みを夢語りに話す若者がいることを、僕は信じている。弱肉強食は、人間にはつら過ぎる。強いガキ大将が弱い子供を助けた「原っぱの時代」が理想とは言わないが、何処かに、もっと優しい国家が出来る可能性があると思う。それは、決して、オカルトや宗教や軍隊の恐怖政治ではないと思う。

 物語書きが政治を口にしてはいけないと戒めていたが、あまりに出鱈目の横行に語らずにはいられなかった。お気を悪くされた方には申し訳ない。らしくないことを書くと、居心地が良くないのだが。幕末物を書いたついでに「維新の群像」小学館刊(奈良本辰也解説)を読んだので、血が騒いだようだ。

公園で弁当

2008年09月25日 | Weblog
 30年も昔のことだが、石神井公園駅の近くに住んでいたことがある。「江古田スケッチ」を発表した2年後、少女漫画家のアルバムをプロデユースしていたころだったと思うが、僕とアシスタントのY嬢と居候がひとりの事務所で、晴れた日の昼休みになると弁当(今は当たり前だが、当時は出来たてのホカホカ弁当が珍しかった)を買って、近くの石神井公園池に出かけてボートに乗って弁当を食べたことがある。Y嬢も若く聡明で居候と共に僕を見つめるまなざしは愛情にあふれていた。尊敬され慕われる心地よさは弁当の味を数倍も美味しくさせた。

 今思えば、楽しいことだけがよみがえる。歳月と共に人物はデフォルメされて僕の都合の良いように美化され、時代までが美しく脚色される。古代中国で脚色とは履歴書のことをいうらしいが、まさに、履歴書は脚色だ。

 1997年に発表されたジョン・コートル著「記憶は嘘をつく(原題WHITE GLOVES)」によると、権力志向の強い人は対立、弱点、失敗、屈辱、無知といった「最悪」の記憶を持ち続けて生きるらしい。幸い僕はひどい仕打ちや裏切りもすっかり忘れ、再会すれば「元気だった?」と、抱擁さえしてしまう愚かな性格だ。政治家には到底なれない。しかし、作家としてはどうなのだろう?

 著者が「記憶の神話化」と呼ぶ現象は高齢者になるほどエスカレートするらしい。自分の人生がどんどんドラマ仕立てになってゆくらしい。物語作者として考えれば、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」や下村湖人「次郎物語」など、晩年に代表作が書ける訳である。僕もこれから記憶にどんどん妄想が罹り、素晴らしい名作が書けるかも知れない。楽しみなことである。が、気をつけるべきは妄想の力である。70歳を過ぎて村娘の水浴に興奮するヘルマン・ヘッセや80歳で17歳の娘を強姦して逮捕されたドストエフスキーもいる。恐るべきは無敵の老人力である。
 ブログを書いていたら公園に行き損ねた。今、丸谷才一著「忠臣蔵とは何か」を再読している。1984年の刊行だが、当時の数倍も面白い。歳を重ね、記憶を蓄積させた脳のおかげであろう。妄想で暴走するのは避けたいが、もっと脳を使って面白い話を書きたいと思う。

幕末歌謡塾脱稿

2008年09月25日 | Weblog
 昨日Sくんに「8時間で書けますね」と、暗示をかけられた「幕末歌謡塾」の台本を夜10時に始めて朝6時に書き終えた。やれば出来るものである。その間、珈琲は3杯にとどめた。最近、舌が荒れて、どうも消化器系が思わしくない。父は体調が優れないとき絶食で治すといっていたが、僕には真似が出来ない。珈琲だけは飲まずにいられないのだ。関係各位にパソコンから原稿をメールしたが、誤字脱字のチェックもしていない。ワクワクするような話が書けたが、俳優さんが稽古をして舞台に乗せて、初めてお客様にご覧頂く。11月27日から30日までの4日間5回ステージである。まだ、道のりは遠く険しい。一歩一歩進もう。

 昼になったらアルミの弁当箱を購いに行こうと思うが、何処に売っているのだろう。デパートで探してみよう。秋もののジャケットが欲しくなるなあ。などと、のん気なことを考えている。書き終えたあとの何ともいえない、判決を待つようなもどかしい時間である。実は遊んではいられないのだ。約束の小説締め切りが待っている。書き続けるだけである。