面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

ピータパンの息子

2007年04月30日 | Weblog
 28歳で父親になったとき、「ピーターパンが父親になったらどんな息子が育つんだ?」と、皮肉屋の編集者に云われた。
 30年が過ぎて,その息子のブログを覗いたら「書棚に筒井康隆の‘農協月へ行く‘やつげ義春の‘ゲンセン館主人‘などを残して出奔した父は今頃何処で野たれ死んでいるやら…」と、酷い書かれ方をしていた。生きていても地獄だろう、とも書いてあったが、確かにそのとおりなので深く感心してしまった。
 幼くして父に去られた息子の心の傷は知る由も無いが、悲惨な過去を笑い飛ばせる大人に成長している文章に狼狽しつつも、笑いがこみ上げてくる。
 ピーターパンは今でも「おおい、遊ぼうよ」と、仲間を探して芝居を作っている。
 何時死ぬか判らないので、遺言しておく。
 「僕の息子に生まれてくれてありがとう。どうだい?スリルに充ちた人生ってやつは。君がいてくれて、本当に楽しかったよ。語り尽くせぬほどのエピソードが遺産て訳さ!」

母の記憶が僕の記憶だった時代

2007年04月29日 | Weblog
 母の体内から始まりおおよそ3歳頃までは、母の記憶が僕の記憶である。母が語ってくれる事件をぼんやりと、そうだったのかと自分の記憶に移しかえた。
 僕の幼児期は受難の連続だ。
 まずは1歳、ようやく立ち上がったばかりの冬、僕は火鉢でグラグラ煮えたぎる薬缶の湯をひっくり返して下半身に浴びた。救急車もない戦後だ。
腰から下を包帯に包まれた僕をみて母は自分の命と引き換えにしてくれと祈ったそうだ。
 凄腕の医者が、偶然僕の担ぎこまれた病院に訪れていて、応急処置を施し、3週間絶対に触るなと僕の手も包帯で巻いたのだそうだ。「この児は自分で治す」と、母に微笑んだ医者が神様に見えた、と、母に聞いた。
 今、僕は人様に見せなくても良い個所を除いて、手術もしていないのに火傷の跡一つない。
 3歳、戦争が終わって、母の実家の厩を改造して棲んでいた僕は一つ年上の気性の荒い従兄弟と遊んでいた。自転車の空気入れを取り合いになり、かっとなった従兄弟が僕の頭をめがけて鉄の重い空気入れを振り下ろした。僕は何とか避けたが、空気入れのペダルが左足の小指を直撃し、幼くやわらかな小指は見事に千切れて飛んだ。僕の絶叫で気付いた母は、なんと千切れた小指を拾って僕の足にくっつけ自分のシャツを裂いて縛った。
 今、僕の左足の小指はその先端が幼児の指の様に可愛らしくつながっている。
 
 それからしばらくして、僕らは母の父が建ててくれた家に引っ越した。新しい家の裏に源爺さんという老人が棲んでいて、僕はすぐ友達になった。源爺さんの家の裏手は70メートルほどの断崖で、下は岩だらけの農道だった。一本の梅ノ木がその断崖にせり出して伸びていた。まさか、僕がその梅ノ木に登るとは、誰も思わなかった。なのに、僕は青く美しい梅の実が欲しくて斜めに伸びた木に這って登った。源爺さんの声に母が飛び出してきたとき、僕はつるりと滑ったらしい。思わず目を閉じた母が次に見たのは、70メートル下の岩にたたきつけられて割れた西瓜になった僕ではなく、なんと、逆さにぶら下がったナマケモノ状態の僕の姿だったらしい。これは僕にも記憶がある。股間が引き裂かれる様に痛かった。つるりと足を滑らせたとき、梅ノ木の鋭い棘が陰嚢に突き刺さったのだ。
ぶかぶかの猿股がみるみる鮮血に染まった。大騒ぎになり、崖の下にはおとこ衆が藁を積み上げ、落ちるのを待った。だが、突き刺さった陰嚢一つで僕はブラブラと揺れていたらしい。勇敢な青年が命綱を腰に巻いて梅ノ木に登り僕を引っ張りあげ、救出劇は終わった。裂けた陰脳から睾丸がこぼれそうだったと、母に聞いた。
 今、人様には見せなくても済む僕の陰嚢は、バランスが良くないままだ。
 
 興に乗ってかなり詳細に書いてしまったが、母の記憶はどうも自分の記憶より他人事に思えてしまう。傷痕を見れば、紛れもなく自分のことなのだが。
 それとも、今に至る人生が危機一髪の連続なので感覚が麻痺してしまったのだろうか。
つい最近も風呂で眠ってあの世へ旅行する寸前だったし、ああ、誰かそばにいて欲しい。
と、今、急に恐怖が…。

驟雨のあと

2007年04月28日 | Weblog
 1年と6箇月のブログを読み返してみた。夢の話あり、少年時代の想いで話あり、日々の暮らしや食事の話など、本当に想い付くまま勝手に書いている。少なくとも人様に読まれることを覚悟の日記なのだから、もう少し文体や表現に気を使うべきだと反省した。
 好ましく読まれる方ばかりではないと知った時点でランダムなコメントを拒否するように設定してもらったが、コメントは署名入りで書きこめますので、是非とも感想をお聞かせ下さい。Mさんのように豪州からコメントを頂いて数年振りに消息が判明するのも嬉しいものです。
 映画やお芝居だって当然好き嫌いがあります。しかし、作品の価値は自分の能力で判断するものではないと思います。特に創る側にいると苦労が解かるので、例えば新作の「日本沈没」など、原作と全く思想を異としていても、よくまあ5000人もエキストラの行列を作ったものだと感心します。戦争を美化した映画を貶す人もいますが、見る側はそんなに単純ではないはずだし、戦争を悲惨なものと批判する映画を観てそう簡単に平和運動が盛りあがった話もありません。
 僕のブログなど、ただ面白おかしく読んで下さるだけで良いのです。しかし、僕も売文業の端くれですから、いくらロハでも文章は真剣に書いています。ところが、読み返してみて驚いたのですが徹夜が続いた後の文章はどうにも酷すぎますね。
 と、云いながら、実は今も徹夜明けで申し訳ないのですが…。
 14時過ぎ、空が一転俄かに掻き曇り、遠雷の響きを襲来の合図に驟雨がやって来ました。ベランダガーデン時代から捨てきれず庭に敷いたスノコに弾丸の雨が降り注ぎ、庭の雑草が一段と色鮮やかです。
 ブログを書いている最中に電話が2本、一本目は京都の柿の葉寿司店からでした。毎年この季節になると妹が送ってくれるのです。劇団員たちと美味しくいただきます。
 2本目は、一緒に舞台をやろうと声をかけていた女優さんからでした。昨日、その女優さんの紹介で、ひょっとすると運命の出会いになるかもしれない女優さんに会いました。しかし、運命の出会いにしては慌ただしく、僕の印象は最悪だったかも知れません。
 ですが、運命は運命です。長く生きていると、落ちこんだりしません。「諦観」というと聞こえはいいのですが、縁があれば必ず何処かで巡り会うし、追いかけて躓くこともないのです。などと、考えていると、何時の間にか雨があがっています。
  
 雨上がりの庭にカタツムリが!何処に隠れていたんだろう?
やっぱり異星人の変身か!写真をアップしておきます。

さて本日は、

2007年04月26日 | Weblog
 6時24分、電話のベルに起こされる。目覚ましは7時丁度にセットしたはずだが、と、受話器を取ると妙齢の女性の声「もしもし、いしだあきらさんのおたくでしょうか?」「…いえ、違いますが」僕のラジオドラマに出演してもらったことのある声優さんを思い出して、何故か起きたてにもかかわらず声を作ってしまった自分に苦笑した。先方は恐縮した声で「早朝から間違い電話でごめんなさい」と、謝って電話を切られた。
 ベッドに倒れこんだのは1時30分だったので5時間は熟睡出来た。夢はいくつかみたがとり立て面白いものはなかったので、良く眠れたのだろう。間違い電話に苛立ちも覚えなかった。
 コーヒーを淹れ、卵を焼き、ライ麦パンを切った。久々に庭に出て朝食を摂ろうとカーテンを開けると小雨模様だ。濡れたテーブルに小さなカタツムリが数匹遊んでいた。(写真を撮り忘れたので明日の朝、未だ居たら撮ってアップします。)
 シェクリィのSFを読んだばかりだったので、異星人が変身しているかも知れないと思い、暫く観察した。しかし、カタツムリはずっとカタツムリだったので、書斎に戻り朝食を摂った。
 朝起きのおかげで、7時のニュースを新鮮に見る事が出来たことは収穫である。44度のシャワーを浴び身支度を済ませて郵便局へ行き、朝イチで送る約束の高校同窓会お知らせ(今年から関東支部の学年代表をY君から押しつけられた)や、その他の所用を片付けて事務所へ。マネージャーのKさんとドエルで打ち合わせをして、14時に諏訪町へ。音響制作会社のI社長と打ち合わせ。本当にお世話になっているので懸案の仕事を早く完成させたい。
 16時、外神田のIT制作会社へ。話しが弾んで先方の社長も、僕も18時から次の仕事なのに気がつけば18時、早々に辞して大江戸線で坂上に。
 いよいよ今日からスタントの稽古です。読み合わせは快調、配役も見事に決まって、アキラ役の平田竜也君、マッキー役の堀川りょうさん、共に意気込みと情熱が伝わって皮膚が熱くなった。
 22時、解散して、ガソリンを入れに行く堀川さんにはガソリン好きの劇団員が付き合い(朝までにならねば良いが…)僕は平田くんとそのマネージャーAさんらとお茶とお菓子で雑談。帰宅したら日付けが替わっていて慌ててパソコンの前に、残念、毎日更新するつもりでいたのに、一日都飛ばしてしまった。今、パソコンに向かうのがとても楽しいので、このブログも続きそうです。ミクシィにもメール下さい。

時差ボケ状態。

2007年04月24日 | Weblog
 外国帰りでもないのに時差ボケ状態で一日を過ごしている。と、云うのは、今日から27日まで午前中の打ち合わせが続くので、今までの様に7時頃寝て昼に起きる夜中心の生活サイクルを大転換する必要が生じたからだ。Tと計らって一日睡眠を省略することにして、本来なら寝る時間の朝8時、大江戸線の中井駅前で朝食を摂った。打ち合わせは野方で10時だったので2時間ある。する事もないので西武線に乗った。野方は5分で着いてしまう。Tはまだ意識がしっかりしていて、「小平まで各駅停車で往復すれば10時に野方に着きます」と、素晴らしい提案をした。Tに借りたロバート・シェクリィ「人間の手がまだ触れない」を読み終えたばかりだったので、感想など語り合った。確かに各駅停車は素敵なサロンとなり、僕たちを予定通り野方に運んでくれた。
 10時の打ち合わせは1時間足らずで終了。新宿にでて、面影屋で一休み。1952年にデビューしたシェクリィは日本の草分けSF作家に多大な影響を与えている素晴らしい作家なので、よかったら是非読んでみて欲しい。特に「専門家」という作品はお奨めです。
 14時、新宿区役所にH氏を訪ねる。歌舞伎町るねっさんす進出企画の打ち合わせ。おおいに盛りあがるが、多分寝てないからだ。
 16時、稽古場へ。ボイストレーニングの定例稽古。
 19時、劇団の演劇レッスン。途中で抜けて、今、パソコンの前。
 何とか、24時まで我慢して爆睡し、7時に起きれば、転換成功。この時差ボケ状態からも脱出出来ると云うわけです。寝る前に見ていた7時のニュースを起き立てに見る、清清しい朝を体験出来る、かどうかは明日の朝になってみなければ判りませんが…。
 

祈詞

2007年04月23日 | Weblog
 旧家に生まれ八百年の家系を誇る素封家に嫁ぎ、親に仕え老いては子に従い、嫁いだ娘夫婦の災難に胸を痛めついには心を閉ざした千紗子叔母は、妹である僕の母が死んだ後、時折戻る正気の顔で、ミヤさんは何処に行ったのかと心細げに尋ねた。「叔母さんや僕の心に引っ越したんですよ」僕が答えると、安心したように微笑んで何度も頷いた。母よりずっとしっかり者だった叔母と、まともなら母の思いで話しに花を咲かせることが出来たはずなのにと、母の死同様悲しかったことを思い出す。
 あれから8年、その叔母の訃報を佐世保の姉が電話で伝えてきた。母の臨終にも立ち会わず芝居を打っていた僕が帰るはずもない事を知っている姉は、弔電と献花だけでも送れと忠告した。
 何故、優しい人が報われず、猛き人や狡猾な人が大手を振る世界しか僕たちは造れないのだろう。せめて物語で、銃も持てない優しい人に報いたいと思う。
 もしも、「想い」の世界が存在するなら、母も叔母も幼い仲良し姉妹に戻って永遠にしあわせでありますように。

 そうだ、母さん、あなたが応援していた岡島選手が、メジャーリーグのレッドソックスで大活躍しています。ゲートボールの名選手だったあなたと叔母様は、共にプロ野球がだいすきでしたね。「あの子はきっと大物になるよ」無名だった岡島選手の名前も僕はあなたから聞いて知りました。「想い」の世界が自由に空を翔けられるのなら、どうかニューヨークでボストンで、彼等のプレイを楽しんで下さい。そして、時々は僕の芝居も覗きにいらして下さいませ。
 2007年4月23日、午前1時42分。合掌。