王子の狐ならぬ柏の狐が姿を消して五年が過ぎた。
あの頃ぼくは妻を亡くして毎日嘆き暮らしていた。仕事も手につかず、寝酒の量も夜毎増えつづけた。大切な友人も四十歳を待たずに酒で逝った。このままだと、ぼくも後を追うことになるな、と、ボンヤリ思ったりした。
三月の桃の花も開こうとする夜明け前、狐はするりとぼくのベッドに潜りこんできた。少女に化けているが、しなやかな身のこなしといい、肌の柔らかさといい、狐に違いなかった。「何処から来た?」と聞くと、「かしわ」と、声ではなく心に直接答えが届いた
妖しいな、ぼくの部屋はマンションの五階にある。閉め忘れた窓のカーテンが風に揺れた。寝返りを打って狐に触ろうとしたら、ふっと、姿が消えた。
そんな幻覚のような夜が三日続いた。四日目、ぼくは狐に言った。
「今日の昼、青山のアンデルセンに来てくれ。決して狐だと見破られるなよ」
狐は、頷いて消えた。
ぼくは安心して眠りに落ちた。十一時に目覚めてあわてて青山へ向かった。
約束通り二階の隅に花柄のワンピース姿で、狐は見事に少女に化けて座っていた。
彼女の席に向かおうとしてはじめて気付いた。しまった、ぼくはあわててパジャマのままで来てしまったようだ。
お気に入りの鶯色のスーツは、父の家にある。急がなくちゃ、焦る気持ちと裏腹に表参道の人込みの中、ぼくは前に進めなかった。父の家に着いたのは夕暮れ時で、縁側に鶯色のスーツが掛けてあった。父は分かってくれていたんだ。着替えようとすると、ソースの匂いがした。見ると肩から胸の辺りにかけて真っ黒にソースの染みが付いている。時間がない。泣きたい気持ちを押さえてスーツを着た。
遅かった。二階の席に狐の姿はなかった。ばれて捕らえられたのか、それとも、待ちくたびれて帰ってしまったのか。狐は二度と戻ってこなかった。
あれから五年、ぼくは何度か引っ越して、坂の上の小さなマンションに住んでいる。
狐がやってきたのは、二月の終わり、まだ桃の花も蕾の頃。暖かい風の吹く夜明け前だった。子狐を抱いてしあわせそうに微笑む姿に、思わず涙がこみあげた。
「よかった。無事に生き延びていたんだ」手を伸ばした先に、窓のカーテンが揺れていた。
あの頃ぼくは妻を亡くして毎日嘆き暮らしていた。仕事も手につかず、寝酒の量も夜毎増えつづけた。大切な友人も四十歳を待たずに酒で逝った。このままだと、ぼくも後を追うことになるな、と、ボンヤリ思ったりした。
三月の桃の花も開こうとする夜明け前、狐はするりとぼくのベッドに潜りこんできた。少女に化けているが、しなやかな身のこなしといい、肌の柔らかさといい、狐に違いなかった。「何処から来た?」と聞くと、「かしわ」と、声ではなく心に直接答えが届いた
妖しいな、ぼくの部屋はマンションの五階にある。閉め忘れた窓のカーテンが風に揺れた。寝返りを打って狐に触ろうとしたら、ふっと、姿が消えた。
そんな幻覚のような夜が三日続いた。四日目、ぼくは狐に言った。
「今日の昼、青山のアンデルセンに来てくれ。決して狐だと見破られるなよ」
狐は、頷いて消えた。
ぼくは安心して眠りに落ちた。十一時に目覚めてあわてて青山へ向かった。
約束通り二階の隅に花柄のワンピース姿で、狐は見事に少女に化けて座っていた。
彼女の席に向かおうとしてはじめて気付いた。しまった、ぼくはあわててパジャマのままで来てしまったようだ。
お気に入りの鶯色のスーツは、父の家にある。急がなくちゃ、焦る気持ちと裏腹に表参道の人込みの中、ぼくは前に進めなかった。父の家に着いたのは夕暮れ時で、縁側に鶯色のスーツが掛けてあった。父は分かってくれていたんだ。着替えようとすると、ソースの匂いがした。見ると肩から胸の辺りにかけて真っ黒にソースの染みが付いている。時間がない。泣きたい気持ちを押さえてスーツを着た。
遅かった。二階の席に狐の姿はなかった。ばれて捕らえられたのか、それとも、待ちくたびれて帰ってしまったのか。狐は二度と戻ってこなかった。
あれから五年、ぼくは何度か引っ越して、坂の上の小さなマンションに住んでいる。
狐がやってきたのは、二月の終わり、まだ桃の花も蕾の頃。暖かい風の吹く夜明け前だった。子狐を抱いてしあわせそうに微笑む姿に、思わず涙がこみあげた。
「よかった。無事に生き延びていたんだ」手を伸ばした先に、窓のカーテンが揺れていた。