4月21日(土)吹上温泉の「みどり荘」。部屋の椅子に座り右手を見ると大きな池がある。虫の声と琴の調べが気持ちを落ち着かせる。斎藤茂吉が逗留していた宿でもある。いまから62年前のいまごろ、この宿に泊った若者が数日後には特攻隊員として出撃していった。「散華」した者、引き返して生き残った者、その究極の選択はさまざまだった……。朝、ホテルを出て知覧に向かう。まず特攻隊員に母のように慕われた鳥濱トメさんが営んでいた「富屋食堂」跡へ。お孫さんの鳥濱明久さんに当時の説明をしてもらう。笑顔の特攻隊員の写真は、いわゆる報道写真だとわかった。「さあ笑ってください」と軍の報道カメラマンが意図して撮影し、公表したものなのだ。たとえばトメさんを中心に笑顔の隊員たちがいる。ところが同じときに写した別の写真は緊迫した顔つきで、そこにあるのは深い悲しみだ。歴史の偽造がここにもある。さまざまな写真が残されている。そのなかで出撃直前のものだけを見れば、彼らの気持ちが伝わってくるようだ。「みどり荘」の大女将、池田ツヤさんにに聞いたところ、出撃前に宿泊した隊員たちは、大はしゃぎしたあとでしょげていたという。これが事実だ。22歳で特攻隊として知覧から出撃した上原良司さんは、新聞記者に密かに「所感」を託して突撃した。そこに書かれているのは「自由主義者」として日本の敗戦を確信した思いである。ある隊員は遺書の末尾にこう書いた。「母はいい。母ほど有難いものはない。母!母!」と。継母につらく当っていた隊員は、遺書にこれまで「お母さん」と呼ばなかったことを実は悔やんでいたと書き、最後に「お母さん お母さん お母さん」と結んでいる。「靖国で会おう」というものも多いが、なかには「浄土で会おう」と書いた兵士もいた。みんな17歳から20歳代の若者たちだった。
昨日の日記で南部吉雄少尉の両親との別れを書いた。ところが南部さんは生きている可能性があることを知った。戦後になり山口県で特攻死した戦友の実家を訪れた男性がいた。そして南部少尉を名乗ったのだった。片足を負傷して松葉づえ姿だったという。故郷には戻れないとも語っていた。特攻隊員として出撃したのは約1000機。突入を確認されたのは436機。不時着したり、墜落したりした、あるいは逃げた隊員たちもいたのが歴史の事実なのだ。いまや訪れる人もいない飛行場跡、突撃前に宿泊した三角兵舎跡に行く。まるで夏のようなこの陽気の時期に多くの若者がここから飛び立っていった。いまや観光名所となった知覧特攻平和会館へ。入館すると多くの来館者を前に白髪の男性が声を張り上げて説明をしていた。子犬を抱いた17歳の兵士の写真を掲げ、「彼らは笑顔で出撃したのです」と語っている。戦意高揚のための報道写真に戦争の真実はない。こういう説明を修学旅行生などが聞かされていることは、歴史の偽造の再生産だ。検閲された遺書のなかにも真情はあふれている。それでも解釈で事実は異なったものへと改ざんされる。戦史記録としての知覧特攻平和会館は年間に70万人が訪れる。富屋食堂跡の史料館には5年半で25万人が訪れた。出撃前夜に富屋食堂でアリランを歌った光山文博少尉の思いなど、特攻隊員として亡くなった若者たちの真実は後者にある。特攻隊員たちが飛び立ってすぐ視野にいれた「薩摩富士」の開聞岳を見る。時間があったので「さつま白波」で知られる薩摩酒造を見学した。
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