有田芳生の『酔醒漫録』

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高知で思う「戦争と平和」

2007-12-09 09:50:14 | 単行本『X』

 12月8日(土)高知駅前のホテルに荷物を置いてすぐに高知大学へ。図書館の一画にある資料室で単行本『X』の主人公である木村久夫さんの蔵書に向かい合う。参議院選挙のときに来て以来だ。ここに何度来たことだろうか。選挙が終ったとき、それまで書きためたものを読み返した。ダメと判断し、また最初から書き直すことにした。どこにいても構成を考えていた。あるときイギリスの映像を入手したことをきっかけに冒頭と締めくくりのシーンが浮かび上がった。蔵書を前にして木村さんと無言の対話を続ける。21歳のときに社会科学に目覚めたという木村さんは小泉信三さんの『経済原論』にそのときの気持ちを鉛筆で書いている。昭和14年7月27日のこと。その7年後にシンガポールで絞首刑になるなどとは絶対に思いもしなかった。蔵書を眺めていくうちに馬場恒吾『立上る政治家』(中央公論)が目に留まった。木村さんはこの本を旧制高知高校の文科に入学したときに購入している。19歳のときに赤鉛筆で線を引きながら読んだ内容は、「議会か独裁か」といった内容だ。独裁政治は木村さんのような青年たちを戦地へ追いやり、死を強いた。政治とは人間の運命を左右する。ここでも新党日本の役割を思うのだった。「また来ますね」と木村久夫さん(の蔵書)に言って図書館を出る。

071208_191101  追手筋の「なとな」。店主の原愛弓さんに無理を言って席を取ってもらった。かつおの塩たたきが最高に美味しい。やがて高知新聞の依光隆明社会部長、少し遅れて原稿を書き終えた浅田美由紀さんがやってきた。午後から湯川れい子さんが平和をテーマに講演を行った。浅田さんが書いていたのはその内容を紹介する原稿なのだった。もしかしたら高知にいるかと思い湯川さんに電話をしたが留守番電話。この高知では橋本大三郎知事が退任。高知一区から総選挙に出るという噂だ。依光さんもそのように判断していた。自民党の現職、民主党の候補者、共産党の候補者がすでに名乗りをあげているところに橋本出馬となる可能性が高い。どうやら政界再編を視野に置いているようだ。「コリンズ・バー」で濱川商店の「美丈夫ゆず」「美丈夫レモン」を飲む。浅田さんのご主人が考案した美酒は飲みやすい。客が来てから作って焼く「宝永」の餃子を食べに行ったところ、すでに閉店。屋台でビールに餃子。歩いていると湯川れい子さんから電話。日本武道館でジョン・レノンの映像コンサートがあり、オノ・ヨーコさんといっしょだったという。12月8日は太平洋戦争に突入した日であり、ジョン・レノンが暗殺された日でもある。そして木村久夫さんが過酷な運命に遭遇するきっかけとなった日であった。


ロンドン再訪に惑う

2007-10-19 09:23:00 | 単行本『X』

 10月18日(木)単行本『X』の執筆が滞って久しい。日常生活のなかでふと木村久夫さんの姿が脳裏に蘇ることはしばしばだ。気になっていても手に付かないのは、ロンドン取材に逡巡しているからだ。参議院選挙に出る前にロンドンにある公文書館を訪れ、裁判史料などを閲覧してきた。ところが選挙が終ったあとで、今度は戦争博物館に行く必要が出てきた。戦犯を処刑する映像が残っていることがわかったからだ。あるシーンはすでに見たのだが、全体像をつかみたい。なぜそれほど残酷なシーンを、しかも三方向からのカメラで記録したのか。その理由も調べなければならない。10月か11月に再訪するつもりだった。しかし総選挙がいつあるかわからない。そのための準備活動も必要だ。もし衆議院選挙に出るとしたら、おそらく「最後の闘い」になるだろう。悔いを残したくない。したがってロンドン行きを躊躇している。そんな気持ちでいるときに本屋で山折哲雄さんの『幸福と成功だけが人生か』(PHP研究所)を見つけた。都はるみさんファンの山折さんだ。何か書かれているかもしれないと手にしたところ、最終章の「敗北を抱きしめた日本人」で木村久夫さんについて触れていた。細かい事実誤認はある。しかし、ジョン?ダワーが『敗北を抱きしめて』(岩波書店)で木村久夫さんを取り上げたものの、処刑された原因に触れていないから「青年学徒の苦悩の深みを汲みつくすことはできない」と書いている。そのとおりなのだ。BC級戦犯とされた事件の全体像と遺書全文を明らかにしなければならない。内側から突きつけてくる衝動がある。人間は誰でも「一生」しかないのであって「二生」はない。当面する政治課題を終えたなら……。そう思うばかりだ。


木村久夫「最後の努力」

2007-05-31 17:58:57 | 単行本『X』

 5月30日(水)カーテンを開けるとまた曇り空だ。ロンドンの天候はころころと変わる。不思議だったのは傘をさしている人が少ないことだ。あわてるでもなく悠然と歩いている。日本人の何人かに聞いてみると「すぐに晴れると思っているのだろう」という答えがあった。小学校のなかには傘を持ってくることを禁止しているところもあるという。ふざけて怪我をするかもしれないから、レインコートで通学せよというのだ。そんな子供時代を送っていたら、大人になっても傘をさす気持ちにはなれないのかもしれない。日本ではすぐに傘をさしているが、たしかに小雨のなかを濡れて歩くというのも心地よいものだ。このランガムホテルに滞在6日目。オープンは1865年。建物の外観に荘厳な雰囲気がある。朝食はあまりにも単調だが、サービスはきめが細かい。できれば居着きたいほどだが、目的が完了したので日本に戻ることにした。木村久夫さんが提出した嘆願書では、カーニコバル島住民虐殺事件の「真相」が暴露されていた。英文で書いた文章には、本当の責任者などの名前も明らかにされていたようだ。死刑判決を受け、シンガポールのチャンギー監獄で執行を待つ間に、生きなければならないと思った木村さんは、最後の賭けに出た。裁判でも弁護士によって嘆願書は出されたが、個人によるものは木村さんによるものだけ。ところが戦犯裁判には上告がない。一時的に刑の執行を遅らせることはできたが、もはや手遅れだった。遺書全文にはこう書かれている。

 
私は生きる可く、私の身の潔白を証すべくあらゆる手段を盡した。私は上級者たる将校連より、法廷に於て真実の陳述をなす事を厳禁され、それがため命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。之は明かに不合理である。(中略)判決のあった後ではあるが、私は英文の書面を以て事件の真相を暴露して訴えた。上告のない裁判であり、又判決後のことであり、又元来から正当な良心的な裁判ではないのであるから、私の真相暴露が果して取上げられるか否かは知らないが、親に対して、国家に対しての私の最後の申し訳として最後の努力をしたのである。

P5260083  木村久夫さんの「最後の努力」は報われなかった。1946年5月23日午前9時5分に刑が執行される。このとき同時に執行された3人の直筆と指紋を昨日この眼で見たときの気持ちは重いものであった。木村久夫さんを単行本『X』で描くことによって、多くの〈彼ら〉の鎮魂にしなければと思うのだった。昼前にチェックアウト。荷物を預けて小雨降る市内を歩く。HMVに入ったところ新曲のアルバムが気になった。ジョー?クッカーという男性歌手だ。こちらを見つめるジャケット写真が渋い。「HYMN FOR MY SOUL」というタイトルも気に入った。ホテルの近くのパブに入り、ギネスを飲む。つまみに「フライドポテト」を頼むのだが通じない。ここでは「CRISPY FRIES」なのだ。さらに「ロンドン」というビタービールを飲む。スターバックスでカフェモカを飲みながらボーッと外を見ていると、韓国人女性から「大英博物館はどう行けばいいのか」とハングルで問われた。その問いがわかったのは日本人が同行していたからだ。昨日はヨーロピアンから中華街を聞かれた。アジア人はみんな同じように見えるのだろう。空港に早く着きすぎたが、もはやビールを飲む気にもなれない。と書きつつラウンジでパソコンを開けば缶ギネスを飲んでしまった。


歴史の闇を探る旅

2007-05-30 07:03:46 | 単行本『X』

 5月29日(火)ようやく晴れたロンドン。窓を開けるとそれでもひんやりした空気が入ってくる。最高気温は17度だという。朝9時にBBCに勤めていた通訳のMさんと待ち合せ。タクシーで南西部にある公文書館(the national archives)へ向った。開館は10時。緑と池のある敷地は住宅街の近くにある。最初に入館証を作成。そこにはデジカメで撮影された顔写真もプリントされる。2階に上がる。指定された16番の透明の戸棚に行くと、すでに茶色い箱が置いてあった。土曜日に閲覧したい史料をネットで請求していたから、すべてスムーズに運ぶ。閲覧室のやはり16番の机で箱を開ける。そこには灰色のファイルが4冊。これが1946年3月にシンガポールで行われた木村久夫さんたちの裁判記録だ。おごそかに紐を解くと、そこにはタイプ打ちされた薄い紙の綴りがあった。すでに日本でコピーを手に入れていたのだが、これが原本だと思えば、不思議な緊張感が生れてくる。1枚づつ眼を通すと、今回持参したコピーのオリジナルが出てきた。その文章を読むと、木村さんが提出した英文の嘆願書は、ここに添付されていなければならない。ところがそれが見当たらないのだ。当時すでに破棄されたか、それともその後の時間のなかで失われたか、あるいはほかのファイルに混入しているか。可能性はそれぐらいだろう。史料をよく見ると、裏面に通し番号が打ってある。嘆願書が出されたという文書の前後は数字がつながっている。調べたところ綴りが作成されたのは、木村さんたちが絞首刑となった1946年5月23日から1か月半ほど経過した7月9日。そのとき通し番号が打たれたから、最初の時点から木村嘆願書は失われていたことがわかった。

P5290035  ならばどのようなことがあったのか。それは単行本『X』で明らかにしようと思う。綴りをめくっていくと、16人の被告が直筆でサインして母印を捺した紙が出てきた。もちろんコピーでは持ってるのだが、いささか愕然としたのは、赤い印肉で捺された指紋が鮮明に残っていることだ。1946年3月30日の日付だ。木村さんの指紋に人さし指をそっと当てて、単行本の完成を心に誓う。相談員に聞いて嘆願書が紛れている可能性のある史料を探る。もとより真相がほぼわかりながらの作業は、いささか虚しいものだ。ここで切り上げようと決めた。市内に戻るとき、Mさんと松岡農水相が自殺したことが話題になる。「日本的ですね」というのは、キリスト教文化のなかでは自殺は少ないからだ。しばらくは膨大な憶測情報が流れることだろう。死を選ぶ前に逃げる道はなかったのだろうか。午後7時半からハー?マジェスティーズ?シアターで「オペラ座の怪人」を観た。この劇場が設立されたのは1705年。ともかく楽しかった。幕が降りて役者が一人ずつ挨拶するときには、万雷の拍手と大歓声。指笛と掛け声がすごい。こんな熱狂ははじめての経験だ。ミュージカルを観るためにだけロンドンを訪れても損はないなと実感。生ギネスを探そうかと思ったものの、ミュージカルの前にイタリアレストランで5分もしないうちに出てきたスパゲティに胸焼けしていたので自粛。いささか幻想的な街並みを歩く。


いざ倫敦(ロンドン)へ

2007-05-25 06:34:06 | 単行本『X』

 5月24日(木)麹町の「あさひ」で弁当を買って日本テレビ。控室に入るのはたいてい午後1時すぎ。ところが今日は早く到着したのでゆっくり食事をする。しばらくして東映のプロデューサーたちが現れた。「俺は、君のためにこそ死ににいく」の新聞コメントなどを出したことへのお礼だった。映画館の情況は平日はお年寄り客が多いけれど、週末には若い世代が増えるという。戦争はいけないという世論になればいい。いまの動きでは200万人の観賞ということになる。「ザ・ワイド」が終わり、特攻隊員に話を聞いた柳ディレクターと打ち合わせ。「ザ・ワイド」が9月で終るとはいえ、社会の課題は消えはしない。銀座のアップルストアへ。いくつかの疑問点を解決。タクシーで草野仁事務所へ行って雑談。驚いたのは日本の教育状況だ。草野さんが子供に質問したところ、小学校3年生にならなければ理科という科目はないという。江戸時代に寺子屋は1万4000もあったそうだ。授業は朝の8時から午後3時まで。休みは年間で50日。いまの学校教育では150日が休みだという。基礎教育が崩れているのだろう。問題は山積している。話を終えたところで神保町。長女に頼まれたDVDをキムラヤで購入してから「萱」へ。常連と四方山話。「家康」の親爺は元気だなあということで一致。草野さんにいただいた薩摩藩献上焼酎を持っていたところ、常連客たちが気にしているのがわかった。じゃー、みんなで飲みましょうと30度の芋焼酎を味わう。みなさんお喜び。よかったよかった。

070524_12360002  帰宅して郵便物を見れば、そのなかに筆坂秀世さんと鈴木邦男さんの対談『私たち、日本共産党の見方です』(情報センター出版局)があった。目次を見ると「党組織の疲弊と原因」「共産党の歴史と精神」「格差社会と共産党の役割」「本当の愛国者とは」「共産党は再生できるか」という興味深いものであった。明日25日朝からロンドンに向う。BC級戦犯として絞首刑となった木村久夫さんの失われた2枚の嘆願書の行方を求める旅だ。ところが公文書館は火曜日にしか空かない。仕方なくまる3日間は時間ができる。イギリスに向かう機内ではまず筆坂さんと鈴木さんの対談を読むことにした。現地に着けばミュージカルや大英博物館を訪れる予定だ。そして1946年に28歳にして生命を奪われた木村さんの名誉回復のための取材を行う。発売となった「週刊新潮」の「掲示板」でも情報を求める記事を掲載してくれた。いまでも単行本『X』を書くことはできるけれど、どこまでも取材を重ねたいと思うのだ。もちろんロンドンではパブに顔を出して本場のギネスを飲むつもりでいる。「週刊文春」の石井謙一郎記者によれば、ギネスよりマーフィーズのほうが美味いという。帰国前に空港の「シェークスピア」というパブに行くことを勧められた。ラストシーンのそうした楽しみを抱きつつ現実をしばし忘れる。時差もあるので、このブログ更新も不規則になる。


木村久夫さんへの報告

2007-05-20 08:57:06 | 単行本『X』

 5月19日(土)ANA563便で高知。升形の藤家で「ぶっかけ天」700円を食べて高知大学へ。コレクション室で木村久夫さんの蔵書を読みつつパソコンに向かう。小泉信三『経済原論』(日本評論社)を開くと、そこには鉛筆でこう書かれている。「恩師塩尻公明先生に指導を受けて経済学第一歩として此の書を読まむ。昭和十四年七月二十日 面河にて ランプの光に照らされ乍ら記す」。木村さんがこの経済書を読み終えたのは1週間後の27日。奥付裏には「渓流ささやく面河渓に傾く渓泉亭に於て投下労働約30時間」と読書にかかった時間が記録され、感想が続く。1918(大正7)年生まれの木村さんが存命なら89歳になったところだ。木村さんが小泉信三の『経済原論』を読んだのは21歳のときのこと。「きけわだつみのこえ」にも収録されている遺書によれば、社会科学に目覚めた書物であった。それから7年。木村久夫さんはBC級戦犯としてシンガポールのチャンギー刑務所で絞首刑となる。ここにある400冊を超える蔵書と二度と会うことなくこの世を去っていったのだ。丸い眼鏡をかけ、学生服のボタンを外した木村さんの写真を持って蔵書の置かれた書棚に立ち、これまでの仕事の進展、これからのことなどを心のなかで報告した。蔵書のなかで馬場恒吾『立上がる政治家』(中央公論社)が眼にとまった。手にしてみれば「昭和拾貳年五月貳拾八日買入 高知高等学校文科一年甲類二組 木村久夫」と書いてある。19歳の木村さんはこんなところに赤鉛筆で線を引いていた。

 
日本に於て議会政治開設の初期の如く、政党が政権から締め出しを食って、万年在野党たる運命に置かれてあったときは、かれらは政権にあり付かうなどとは夢想だにもせず、只天下国家を論じていることに満足していた。併しその時の方が、政党には活気があり、又政党が政治の進歩に貢献する所が多かった。政党は自分で政権を握る味を覚へて以来其元気が著しく消耗した。

070519_17130001  何だかいまの政党のことを書いているようだ。ましてや「政権を握る味」さえ知らなくとも「著しく消耗」しているのだから悲劇的だ。木村久夫さんなら何と言うのだろうか。旧制高知高校で恩師だった塩尻公明さんが記録した木村久夫さんの遺書全文を読む。わたしの机の上に置いてあるものを持参したのだ。ここに木村久夫さんの若き思想が凝縮されている。専門書を読み、感想を記した筆跡で遺書を書こうなどとは、よもや思ってもみなかっただろう。戦争とはむごいものだ。新阪急ホテルにチェックイン。「AERA」原稿に加筆。午後7時に高知新聞の前で社会部長の依光隆明さんと待ち合わせ、「なとな」で飲む。カツオの塩たたきが美味。高知大学生のKさんが合流。木村佳乃さんによく似ているのでびっくり。近所のスナックへ移動、雑談ののちにカラオケ。中島みゆきの「永遠のウソをついてくれ」をはじめて歌う。そろそろ帰ろうかと思っていたところで、若い客が入ってきた。高知新聞の社会部員たちだった。さらに盛り上がり、またまた深夜1時半を過ぎていることに気づく。


戦争の記憶を聞く

2007-05-06 08:53:05 | 単行本『X』

 5月5日(土)「のぞみ121号」で新大阪。車内では取材準備を終えてから「AERA」の「現代の肖像」に出す木村佳乃さんを書いた原稿を読んでいた。ダメだ。若き女性編集者の意見を取り入れて全面的に書き直すことに決めた。しばらく置いたままにしておいた原稿を読めば、まったく商品になっていない。ということは、木村佳乃という女優の本質に迫っていないということだ。掲載が延びてよかった。いまのままで公表されていたら恥をかくだけだった。新大阪に着いたところで編集者に電話をする。大阪で降りて梅田花月へ。単行本『X』のために木村久夫さんの「上官」だというお二人と待ち合わせる。ともに86歳。「かに道楽」で寿司をつまみながら話を伺った。「上官」というのは間違った情報であり、木村さんともそう関係があるわけでもなかった。それでも大阪から門司、シンガポール、カーニコバルへの移動について詳細を知ることができたことは大きな成果だ。大阪市東区にあった兵舎から大阪駅まで御堂筋を歩いたという。情景が眼に浮かぶ。単行本ではこれで1ページは書けるだろう。カーニコバル島についての貴重な資料をいただく。いちばん驚いたことは、インド洋の小さな島にまで「従軍慰安婦」が連れられて来ていたこという証言だ。将校を相手にしたのは日本人(和歌山出身が多かったという)、下士官には中国人、韓国人、一般兵士のためには現地の女性だったというのだ。いまは政治レベルで「強制」が問題になっているが、100人のうちで1人でも強制があれば許されるものではない。いまの議論は強制の証拠がないなどというレベルだが、歴史認識とはそういうものでもないだろう。「100人の死は悲劇だが100万人の死は統計だ」といったアイヒマンのような言説だ。

070505_21200001  お二人と別れて時間ができたので難波へ。地下街にある「グーテ」で子供のころに食べていたチーズパン(60円)を買う。テレビ朝日の「グレートマザー物語」で取り上げた店だ。店長が新製品だといって「モルゲン」という食パンをくれた。京都にいる両親に送る。御堂筋線で梅田。新阪急食堂街の「たこ梅」でおでんに日本酒。この店も20代から通っている。ほろ酔いで新大阪。何と新幹線は満席。ホームに来た「のぞみ」のデッキに立ち、特攻隊員の生き残りである松浦喜一さんの『戦場体験と九条護憲を考える 生き残った特攻隊員、八十三歳の遺書』(私家版)を読む。こんどの冊子は奥様であるアヤ子さんによる「長崎の原子爆弾 私の被爆体験記」も掲載されている。ずっと立ちっぱなしなので、東京駅に着いたら東京温泉に行こうと決めた。午後9時過ぎに到着。八重洲地下街に行くと、何と閉店。張り紙を見ると3月29日が最後だった。東京駅再開発のためとあったが、戦後文化の破壊がここでも起きている。学生時代からの想い出の店がまたひとつ消えてしまった。受付の若者やマッサージの女性たち(多くが高齢者)はどうしたのだろうかと気になる。やはり日本はおかしいぞと小さな経験から思うのだった。


歴史の疑似体験を原点に

2007-04-12 08:39:47 | 単行本『X』

 4月11日(水)有楽町から新橋までの電車のなかでいつも昼食のことを考える。今日は新潟湯ノ谷のおにぎりにしよう。そう思い、駅を降りて歩いているときのこと。ハッとして鞄を開けると財布がない。昨日外出したときに使った鞄のなかから取り出して、山積みになった本の近くに置いたことに気付いた。そこでクレジットカードでキャッシングをしようとしたのだが、うまくいかない。「ザ・ワイド」の時間が迫ってくる。そこでスタッフルームにいる小林浩司さんに電話。事情を話して借金。16階にあるコンビニでおにぎりを買う。番組が終ったところでタクシーで原宿。雨が振り出し、交通渋滞。午後4時半の約束に少し遅れて京セラビルのトップコートへ。木村佳乃さんの原稿を書くために社長の渡辺万由美さんから話を伺う。部屋に入って来た渡辺さんにじっと顔を見つめられてしまった。こういうタイプの人はユニークなのだ。それから1時間半。木村さんとの出会いと個性などをじっくりと聞いた。女優はトータルな人格の一部であって、すべてを「木村佳乃」ブランドとして作り上げたいというヴィジョンがあるそうだ。テレサ・テンを演じた彼女が身体の奥底から込み上げるように涙があふれてきたのはなぜか。そこまで演じられる女優の秘密を解くのがこんどの原稿の目的だ。ただ外部から観察した人物ルポではなく、木村佳乃の精神内部にじっくりと入り込んでいきたい。締切りが迫っている。

 
もう 許せぬことの 数尽きず ただ愚痴ばかり と言い
 まだこの世の末を 諦めず なお正そうと 思う
 もう 醜いものの 見飽き過ぎ 目と耳塞ぐ と言い
 まだ 美しいもの 新しく 創り出そうと 思う


 これは小椋佳さんの「もうと言い、まだと思う」という曲の歌詩の一節で「未完の晩鐘」というアルバムに収録されている。「もう」と思うのか、それとも「まだ」と諦めないのか。その違いが語られている。「団塊世代」の小椋さんたちの世代でも、いま分岐が生れているように見える。定年年齢の迎え方の違いだ。自分(たち)の足取りを振り返ることでは共通しつつ、問題はそこからだ。新しい技術を獲得しようとする人もいれば、しばらく時間に任せる生活を送ろうとする人もいる。「なお正そうと」諦めず、「美しいもの」を創り出そうという意思をどう形にするのだろうか。いまの立場と比較して美しく描かれた自分の経験を吐露するだけでいいとは思えない。原点を自己のこれまでの生のずっと前にまでたどり、歴史を疑似体験することが重要ではないかと思うからだ。個人的経験でいえば、単行本『X』の主人公である木村久夫さんは、いまやこの身体の一部として息づいている。木村佳乃さんが「テレサ・テンはいまではわたしのなかにいます」と語った感覚とおそらく同じなのだろう。「BC級戦犯」として絞首刑となった木村久夫さんの処刑前夜からその瞬間までのこころの動きと姿が、しばしば鮮明に、まるで映画を見るように蘇る。これからの生活をそこを原点に生きるならば、何が出来るのか、何をしなければならないのかと思うのだ。


田辺元の手紙を見つけた

2007-02-25 09:58:01 | 単行本『X』

 2月24日(土)書評のために朝倉喬司『スキャンダリズムの明治』(洋泉社)を読む。そのうちにしばし二度寝してしまった。ホテルオークラ神戸を昼前にチェックアウト。このホテルで最大の会場は立食で1800人入る。テーブル席にすれば1200人。5月30日に行われる藤原紀香さんの披露宴は、おそらく1000人規模で行われるのだろう。ホテルではすでに準備がはじまっている。ホテルで昼食を取り、2階ロビーで原稿を書く。タクシーで移動。単行本『X』のための調査。歩けば得ることができることをここでも思った。木村久夫さんが昭和18年秋に出征する前夜、恩師に書いた最後の手紙など3通を入手。いまから戦場へと向かう緊迫感、もしものことがあった場合を想定しての挨拶などが切々と述べられている。この手紙が書かれたことは記録にあるが、現物が残っているとは思わなかった。さらに驚くような手紙も発見された。木村さんはシンガポールの獄中で田辺元『哲学通論』欄外に遺書を書き連ねていく。戦後それが社会的衝撃を与えたのは、恩師だった塩尻公明さんが「ある遺書について」を発表したからである。鶴見祐輔さんだけではない。多くの人たちがこの文章によって木村久夫という青年の死を知ることになる。その遺書の書かれた『哲学通論』の著者である田辺元の感想が見つかったのであった。コープでコピーを取りながら、去っていった世代の知識や教養の深さに改めて驚いた。それに比べたとき後発世代の浅さがこのニッポンを作り上げた、いや破壊してきたと思うのだった。この国の再生はまだ可能なのだろうか。

070224_21010001  東京に戻る予定だったが変更して京都へ。「ザ・ワイド」の仕事が入ったからだ。京都駅の書店や文房具店を歩く。タクシーで「てらさき」へ向かう。東京から来た小林浩司さんと待ち合わせ。2007年ミス日本「空の日」の島村実希さんもやって来た。先日の「ザ・ワイド」で取りあげた女性だ。食事をしながら店とあるテーマの交渉をしていたときのこと。隣に座っていた知人男性の携帯電話が鳴った。そのうちに「俺には息子なんておらんよ」と怒鳴りだすのだった。そして電話を切ってしまった。何かと聞けば警察からの電話で息子が交通事故を起こしたという内容だったそうだ。これは詐欺だなと思い、通知された番号に電話をすると「四日市南署」だという。出てきたのは「市川」といい「当直」だと語った。おかしな電話があったと聞いてもはっきりしない。調べようともしないのだ。怒った小林さんは外に出て会話を続けた。その間に番号案内で調べると確かに四日市南署なのだ。するとあの電話は何だ。しばらくして再度電話で問い合わせると間違いだったという。「市川」という「当直」は何度呼び出しても出ることをしなかった。詐欺電話を警告する警察が間違い電話をしても居直っている。ここでもニッポンの破壊を思うのだった。町家を改築したバー「K家」へ。長男と合流して4人で飲む。深夜1時になり原稿もあるので一足先に店を出た。
 


殺人の記憶を求めて

2007-01-15 07:59:37 | 単行本『X』

 1月14日(日)関東のある港町で夕方の4時半から新鮮な魚をつまみに飲んだ。この街に来るかどうか。昨夜からずっと考え、そして決断したのだった。昨年の5月のこと。単行本『X』の取材でインド洋のカーニコバル島にいた元兵士に話を聞いた。そこで起きた住民虐殺事件は単行本『X』の主人公である木村久夫さんの運命を決定した。その事件の周辺についてはすでに何人かから証言を得ている。上官から命じられ、無実の住民を殺害した兵士たちがいる。実行者であるが何ら罪に問われることなく日本に戻り、黙したままそれぞれの生活を再開している。そのひとりの消息を聞き、当時の忌まわしい出来事を聞こうと思った。戦友がかつて聞いたときにも「かんべんしてくれ」と言って話題を変えたという。そこで迷った。人生の終盤に見知らぬ男が突然に現れて、おそらく家族にも隠していたことを聞きたいと切り出したとき、どんな対応をするだろうか。電話で取材を申し込めばそこで拒絶される可能性が高い。手紙はどうだろうかとも思った。これも返事がないか断りの葉書が来る可能性がある。やはり異常な経験を無理して話していただくには直接会ってお願いするしかないと判断した。そこに向かうまでの4時間ほどの車内では五十嵐顕さんの『「わだつみのこえ」を聴く』(青木書店)を読んだ。これで3度目だ。違和感はますます深まっていく。ご自身の「戦争責任」を振り返るために木村久夫さんの遺書を素材に使っているからだ。五十嵐さんに必要だったことは、自分史を隠すことなく記録することだったのではないか。こう書いて虚しいのは、戦争経験なき者がこんなことを述べる資格などないだろうと思うからだ。

070114_13150001  ただし、あえてこう書くのは、全責任を負って木村久夫さんの人生を記録する決意があるからだ。見たくないこと、聞きたくないことをも直視すること。それはいつか明らかになるだろう拉致問題の悲劇などにも共通する歴史の残酷さである。駅前からタクシーに乗る。住所を告げ、やがて目的地の近くで降りる。犬の散歩をしていた高齢者にある専門職の名前を訊ねた。いまはもう無くなったけれど息子さんがいるという。道路を左に行った右側だと教えられた。心急いてそこに向う。しばらく歩くのだがわからない。再び道を戻り、道行く人に訊ねる。ようやく「ここだ」という建物にたどりついた。ところが留守。念のために電話をすると室内で呼び出し音が鳴り出した。近所の人に話を聞くとその人物はすでに亡くなっていることを知った。だが探している人物とは名前が違う。さらに同姓の家を探し、話を聞くと、在所の長老に電話をしてくれた。やはり探している人物はここら辺にはいないことがわかった。そもそも戦友が教えてくれたのは名前とその土地だけであった。そこで番号案内で探したところ、その業種でその名字は1か所しかなかった。高齢ゆえに息子が継いでいるだろうと判断したのだった。空振りだ。昨年別の取材で訪れたときに立ち寄った駅前食堂で酒を飲みながら思った。振り出しに戻ったけれど、忌まわしい想い出を聞くことにならずによかった。それでも明日からは再びこの人物を探す努力をはじめる。電車のなかで乗客が座席に足を投げ出すような土地での一日だった。