簡単に今日二回目のコメント
三浦和義さんの自殺で・・・・・
60歳を越える年齢というのは、ほぼ人生の大半(ほとんど)を経過した年齢である。
社会の中で、人々に囲まれて安寧に暮らす老後であるならば生きている価値も楽しさもあろう・・・・
これからのまた長きに渡る裁判と留置生活を考えると、生きている意味も、一種植物人間的生き様も全て空しいものと思えるのである。
まして彼は、日本での無罪放免の後に、スーパーでの万引きなどが発覚してしまい、その性根に疑問符をつけられて、身内も本人も相当に肩身の狭い思いをしているのである。
自分自身の持って生まれた性癖の悪寒めいたものが、恥ずる心を生み、自滅への、自傷行為に走らせてしまっていても不思議ではない・・・・
そしてかつ、周囲の者たちへの愛着も、その周囲の者たちからの当然に起こるであろう非難によって薄れても仕方あるまい・・・・
つまり、ある種自暴自棄でもあったと思われる・・・・
そこへ持ってきて、60歳過ぎの人生の主たる時間を過ぎてしまって、体力も、精神力も萎えが進み、未来への絶望感を覆すだけの、生きようとする力、生きたいとする力、死にたくないとする力、死ぬのが怖いと思う力、そのものの自己に持っているべきエネルギーが枯渇してしまったのであろう・・・・・
人生、思い切って生きられるのは僅か60年・・・そろそろこの辺でいいだろう・・・・という気持ちは分からぬでもない、三浦さんに限らず自己の力量の限界を悟ると、病気との闘いに明け暮れなければならない未来を断ち切る人々は多い・・・・多く、そこから先の人生に何の意味があると言うのだ、という思いに至るのも頷けるものも確かにある・・・・そこが男の唯一の残された格好良さを求めた、誇り、自尊を守ろうとする意地というものだ。
またこれは勘ぐれば「卑怯者」「いくじなし」のレッテルともなろう・・・・
しかし、これが現実の男の中の一種であることは疑いようもない。
彼は、自分で自分の「死ぬ時間と場所」を選んだ、選べた・・・・・
犯罪者たる者のそれは唯一選択することのできる自由な権利であったのだ。
普通の生き様の民は、なかなか自分の死の時間と場所を選ぶことができない・・・・・選べればいつでも「もはやこれまで・・・・」と死の選択ができるのであるが・・・・
私は、そのように分析したが・・・・・・?
三浦和義さんの自殺で・・・・・
60歳を越える年齢というのは、ほぼ人生の大半(ほとんど)を経過した年齢である。
社会の中で、人々に囲まれて安寧に暮らす老後であるならば生きている価値も楽しさもあろう・・・・
これからのまた長きに渡る裁判と留置生活を考えると、生きている意味も、一種植物人間的生き様も全て空しいものと思えるのである。
まして彼は、日本での無罪放免の後に、スーパーでの万引きなどが発覚してしまい、その性根に疑問符をつけられて、身内も本人も相当に肩身の狭い思いをしているのである。
自分自身の持って生まれた性癖の悪寒めいたものが、恥ずる心を生み、自滅への、自傷行為に走らせてしまっていても不思議ではない・・・・
そしてかつ、周囲の者たちへの愛着も、その周囲の者たちからの当然に起こるであろう非難によって薄れても仕方あるまい・・・・
つまり、ある種自暴自棄でもあったと思われる・・・・
そこへ持ってきて、60歳過ぎの人生の主たる時間を過ぎてしまって、体力も、精神力も萎えが進み、未来への絶望感を覆すだけの、生きようとする力、生きたいとする力、死にたくないとする力、死ぬのが怖いと思う力、そのものの自己に持っているべきエネルギーが枯渇してしまったのであろう・・・・・
人生、思い切って生きられるのは僅か60年・・・そろそろこの辺でいいだろう・・・・という気持ちは分からぬでもない、三浦さんに限らず自己の力量の限界を悟ると、病気との闘いに明け暮れなければならない未来を断ち切る人々は多い・・・・多く、そこから先の人生に何の意味があると言うのだ、という思いに至るのも頷けるものも確かにある・・・・そこが男の唯一の残された格好良さを求めた、誇り、自尊を守ろうとする意地というものだ。
またこれは勘ぐれば「卑怯者」「いくじなし」のレッテルともなろう・・・・
しかし、これが現実の男の中の一種であることは疑いようもない。
彼は、自分で自分の「死ぬ時間と場所」を選んだ、選べた・・・・・
犯罪者たる者のそれは唯一選択することのできる自由な権利であったのだ。
普通の生き様の民は、なかなか自分の死の時間と場所を選ぶことができない・・・・・選べればいつでも「もはやこれまで・・・・」と死の選択ができるのであるが・・・・
私は、そのように分析したが・・・・・・?