日々、あんのん。

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鹿児島の講演会の振り返り その3

2020-10-27 16:03:45 | はじめまして
さて、振り返りの続きです。


今回、私自身がZoomでの視聴期間の恩恵で、何度も講演会での話を聞き直し、自分がポイントに思うところが変化していくことを改めて感じています。

南雲さんが浅見さんとレジュメについて控え室で話されていたエピソードがありました。

このレジュメは、オンラインでの打ち合わせを経て、打ち合わせの内容から私がピックアップし、話題にして欲しいことをまとめたものでした。

その中には「支援制度を利用したかつての子どもたちは理想の大人になっているの?」というものがあります。

これについて、南雲さんと浅見さんの間で控え室で話題にのぼり、南雲さんが「『理想の大人』って誰から見た姿か」という問いかけをことをしてくださったようでした。

レジュメを作った私自身は、「働いたり、上の学校へ進学して本人が自分の実力を発揮して、望んだ道を歩み、自由に生きている姿」を思い描いての項目でした。

でも、よく考えてみると、かつて支援を受けていたお子さんたちが「理想の大人」となっているかどうか、わかるのは本人だけ。私がレジュメを作りながら想像した姿は私の思う理想でしかありません。

かつて、発達障害だ、自閉症だと診断されて、今、仕事だ受験だと自分のできること、自分の「今」を生きている人たちにとって、「理想がかなっているかどうか」など、考える余地はないことでしょう。

実際、自分のことを振り返ったとき、私自身はできること、そのとき目の前に出て来たことを1日1日、ただただ、積み重ねて来ただけだなぁと思いました。

そうして、今の私がありますが、他人から見て幸せそうか、充実していそうかなんて考えることは全くありません。

それなのに、こうやって講演会をお願いするときには他人目線から見た「支援制度を利用したかつての子どもたちは理想の大人になっている?」というようなレジュメを作ってしまうのだなぁ、と自分の浅さに白目になりました。

視聴しながら、南雲さんの言われてることは常に「本人視点」で、本人がどうしたいか、本人がどう感じるか、本人にとってそれはどうだったか、ということだなぁということ。

お子さんが小さいうちは、親御さんが本人の将来を考えてあれがいいかも、これがいいかもと試行錯誤されるけれど、お子さんの育ちに従って、それはお子さんの手に委ねられていき、親御さんはそれを全力で応援する応援団長になっていく、そういう当たり前のことを思いました。

そして、私が印象的だった「二次障害」についての南雲さんの言葉。これに惑わされ、これを起こさないように思考停止する支援者が多いであろう中、南雲さんはのシンプルな「自分の状態がなんと言っていいか、説明に便利。」というのは納得。

それ以上でも、それ以下でもない、ただの便利な言葉。

でも、言葉って本来、ある状況をわかりやすいように、みんなで共通して把握するための大枠。

その言葉という道具を状況固定のおまじないのように使うのも、通りすがりの状況説明に使うのも使う人次第なのだなぁと、私にとって意味ありげに感じていた「二次障害」という言葉がただの言葉になった日でもありました。

とことん本人目線の南雲さんのお話は、目の前の人を「困ってる人」とか「発達障害の人」ではなく、ただ人と見るということ、できることはあるかもしれないけれど、それを望んでいるのは誰?そんなことを考えさせられたことでした。







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