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雑感 独り善がり

日々の思いや怒りを自分勝手な考えで綴る

白菜を炊いて姉を偲ぶ。私の食事情・大阪弁(方言)のこと

2025-06-22 11:18:08 | 日記

最近太り気味。私は全く食欲が衰えるということがないので、歳を取って代謝が悪くなっているのに

食べる量は相変わらずだものね。衣食住の優先順位はやはり、衣より住、住より食よ。

この歳だから、いわゆるチェーン店というかリーズナブルな居酒屋さん?的なお店には

出来ればあまり行きたくない。どんな食材使ってるか判らないものねぇ。まあ付き合いもあるが。

少々高くても身体に良いもの食べたい。となるとやはり、食材吟味して家で作るのが一番良いわけで。

 

で、又、白米を食べる量を減らそうと画策。昨日は野菜メインに食材の買い出し。

菜っ葉を炊いていて姉のことを思う。

白菜(しろな)ってご存知?白菜(はくさい)ではないのですよ。もしかしたらルーツ?最終的に?

同じものかも知れないが、しろなは、杓子菜とか高菜とか辛子菜・水菜とも違う。

アクのない、あっさりした菜っ葉。子どもの頃、母が炊いてくれる白菜(しろな)が好きだった。

姉も同じ感覚だったのだろう。昔姉の家を訪ねた時に白菜を炊いていて、結構じゃぶじゃぶなのよ。

味も薄そうだな・・・と見ていると姉が言った。『子どもたちに味の濃いものを食べさせたくない。

煮た汁まで吸っていいように』と。私は煮物かスープか判らん位じゃん!と思ったものだ。

まあ、解るけどね。味の濃いものは嫌だね。薄味がいいよね。

お姉さん、そんなこと言ってたよねぇ・・・と今年1月に亡くなった姉を思う。

11月に倒れて、たった2ヶ月で逝ってしまった。あっけなかった。

皮肉なことにその2ヶ月間で、残された人たちの今後の付き合い方というものを思い直したと言うか、

そういうきっかけになった。

姉は私と違い、夫のため・子どものため・家のためを先ずは考える人だった。

大人しくて静かで楚々として。しかしそんな風には見えないけれど根っこは、ワガママだったはずだ。

私は知っている(^_^;)

幸せな人生だったと思いたい。

私も歳のせいか、何かをやっている時にふっと、父や母、そして姉のことを

”ああ・・こんなだったなぁ”と思い出す。

 

で、白菜(しろな)の話。

何十年も前の昔々私がまだ小学生だった時、商売していた実家。年末暮れも押し迫った超忙しい時。

お手伝いさんたちの手も塞がってます状態で、母は私に買い物を頼んだ。

メモを渡して隣町の市場まで買いに行ってと。ちょっと遠いなぁ・・で気乗りはしなかったが。

書かれていたのは『白菜4束』。お節用?いや違うな。自転車で八百屋さんまで行きメモを見せる。

お店の奥さん『あれ!白菜4束かね。沢山だね。漬物にでもするのかい?持って帰れるかい?』と言って、

自転車の前カゴに白菜を4束ぶっ込む。前が重たいなぁ・・と思いながらフラフラと帰り母に見せると

『あぁっらぁ!”はくさい”ではなくて”しろな”だったのに』と。

いやいや、漢字同じだろ。白菜と書いていたよね。それならそうと言葉で言ってよ。”しろな”だよってね。

その後、誰かが交換しに行ったのか(私は行ってない。不貞腐れて『絶対イヤだ!』とごねてたはず)

そのまま使ったのか覚えてないが。

 

それから、”はくさい”と”しろな”は同じもの?子どもか大人かだけの違い?と気になる様になったことは

言うまでもない。実際は調べてないんだけどね。

☆今調べた!

しろなはシロ菜と書くらしい。白菜の仲間だがハクサイと漬け菜(これも知らんけど)を

品種改良したもの。葉が巻かれない品種だそうだ。

シロ菜はどこにでも売ってるわけではなくて、探すのは結構難儀。

昨日シロ菜が売って無くて、仕方無しにハクサイとお揚げさん(薄揚げのこと)と一緒に山ほど炊いた。

蓮根が売って無くて、ゴボウできんぴらした。お米食べずに菜っ葉でお腹膨らます💧

 

私は(大阪の人は多分ほとんどそうだと思うけど)”煮る”ことを”炊く”と言う。なので、”菜っ葉の煮物”

ではなくて、”菜っ葉炊いたん(炊いたもの)”という。薄揚げも”お揚げさん”だ。

しかし、段々そういう言葉の違いというのもは無くなっていくんだろうなと思う。

過去娘に、孫に”ぎょーさん”(たくさん)や、大根に味が”しゅんだ”(染み込んだ) なんて言葉を

教えんといて と言われたことがある。周りが???状態だったそうで。

もうすぐ23歳になる一番大きい孫が幼稚園の時だ。

いやいや・・教えたんではなくて、私が日常的に使っているのを耳にして覚えたんではない?と

言ったのだが、子どもたち社会(幼稚園児)では通じないよね、そりゃ。

 

私は方言好きだけどなぁ。高知弁もね(^^)。仕事では使い分けしてますよ。

いや、私は最近 お客様にも大阪弁丸出しで喋っているかも。老人の図々しさですかなぁ(^_^;)


74歳になった。次は最初の目標78歳までは生きる!

2025-06-15 13:21:16 | 日記

私は前週誕生日が来て、晴れて74歳になった。

梅雨生まれね。だからかどうかは分からないが雨は嫌いではない。

早く74歳になりたかったよ。私にとっては73歳より74歳の方が格好良いので。

木・金と、東京ビッグサイトでの展示会の商社さんのブースに居た。我が社の機械も数台出展されていて

行くつもりは無かったのだが、引合継続中のその商社さん経由の案件が何件かあって、商社の担当の

方に『そのお客様来られるから来て』と言われ行ったもの。

いまホテル、めっちゃ高いし、なかなか取れない。東京は特に?いや、どこもだね。

急だったもので、やっと取れたのが1泊2万円超え。ビジネスで泊まるのにこれは高いわ。

 

私の悪い癖で、”おとなしくしておこう・目立たないように・静かにひっそりと隠れて・・・”は全くの嘘。

最初の決心だけで、お客様を目の前にすると、そんな嘘くさい決心はどこかに吹っ飛んでいってしまう。

喋る(聞かれたら だが)機械のことを熱く語る。もう止まらないので、お客様は自慢を聞かされた気分に

なるだろう。いいのよ、自慢で。自社製品に惚れてなくて、なんで売れる?と私は思っている。

 

夜、誘われて10人ほどの会食に参加。

その場で初めての方たちに紹介され(他の業者さんも居たので)歳もバラされ(何で言うかなぁ・・・)

知らなかった人たちは『えーーーっ!!?』となる。私にすれば当然のリアクションだ。

『62歳くらいかと思ってた』という方も居るが、まあ半分以上はお世辞だとは思っている。

しかし若くは見えると思う。今は髪の毛、内側ブルーに染めていて、気がつく人は『お洒落~』と

言ってくれた。ふふん!

ほとんどの人が私のことを『若い』『元気』という。

確かに、会場でアテンドしている人の中には、アキレス腱が痛くて痛み止め打って対応している人、

脚?椎間板ヘルニアで手術して、痛みは無くなったけど痺れていて感覚が無いという人と、結構

身体大変な人も居て、ツラそうだ。彼らはどちらも50台。そう思うと、74歳でどこも痛くない私は

元気な方だし、元気な体を貰ったことは感謝しないとね。金曜日も夜遅く家に帰り着いた時は

”しんどい・・・”で速攻寝てしまったけれど、一晩寝て元気になり、昨日土曜日は朝から仕事してたわ。

 

以前ブログに書いたかも知れないが、11年前の63歳の時、孫に『あと15年、78歳位までは最低でも

生きてたいかな・・・まあ80歳とか生きられればいいね』と言った。

その2年後くらいに『あと15年・・』と言うとJが『おばあ、あと13年やで』と言いまして・・・。

ええ~ぇっっっ・・・!!覚えてましたんかい!勘定してましたんかい!と、びっくり。

確かにJの言う通りだわねぇ。確実に減って来ている訳で💧

父は70歳・母は80歳で亡くなった。短命ではないけれど、長生きでもない。平均寿命には達していない。

姉が今年の1月に77歳で亡くなった。おねーさん、お母さんの歳まで生きられなかったねぇ・・と思った。

超えると思っていたのに。兄は兄で、『順番から言えば次はオレの番か・・親父の歳は超えられたけどね』と。

友や友のご主人が亡くなったりで、周りの近しい人・同じジェネレーションの人たちが居なくなるのは

本当にツラい。悲しい。寂しい。そして、いつ我が身に降り掛かってもおかしくない歳なんだと実感する。

 

格好良い74歳になれた。今は先ずは目先の目標78歳までは生きたい。その後は母の年齢を超えて

もう少し元気で生きられればいいなと思う。

私の周りの大事な人たちも皆、同じように元気で長生きして欲しい。みんな、楽しく頑張ろうぜっ!!


長嶋さんは私のヒーローだった

2025-06-07 21:29:07 | スポーツ

やっと書ける。

今週火曜日、お昼には出掛けなければならないので、朝早くから家で仕事。資料作り。

何時頃だったか ふっと一息ついた時にパソコンでニュースを見る。

飛び込んで来た文字は信じられないものだった。長嶋さんが亡くなったって・・・。

あのぅ・・・私今からお客さんとこ行くんだけど、行けますかねぇ状態。

ショックというか何と言うか茫然自失という言い方が正しいのかどうか。

 

こんな日が来るのはぼんやりとは覚悟していた。だって長嶋さんは私より16歳上だから、

普通に考えたら先に逝くよね。

特に、脳梗塞?で倒れてからは いつそんな日が来てもおかしくなかったんだけれど

長嶋さんがこの世から居なくなるのは考えるのも嫌だった。

私が小学校に入学したのと、長嶋さんがプロ野球選手になったのが同じ年。

父は虎キチだったのに、私は一体何で?あんなに長嶋さんが好きだったんだろう?

きっかけが分からない。ファンレターを書き、ファンクラブに入ると親にせがみ

(そんなのがあったのかどうかも覚えてないが)、巨人のグッズやさんから手紙が来たり。

とにかく長嶋さんが好きで好きで、巨人ファンというのではなく、長嶋さんファンだった。

巨人が勝っても、長嶋さんが打たなかったら面白くない。逆に長嶋さんが打ちさえすれば

勝敗はそれ程気にしていない。父と一緒にテレビを観ていても長嶋さんの打席になると

目を瞑り耳を塞いで心の中で祈るだけ。ホームラン打って!と。

父が『打った打った!長嶋ホームランやで!』と体を揺すってくれる。テレビに目をやると

もうホームベースに帰って来る長嶋さん。『何で見ぃひんのや?折角ホームラン打つとこ』と言われても、

怖くて よお見ないのだから仕方ない。三振とかだったらイヤだもの。

阪神-巨人戦に時々甲子園に連れて行ってもらった。これを絶対に巨人-阪神戦と言えば父が怒る。

いや、甲子園でやるのは阪神-巨人戦だと。あーそうですか。

しかし一塁側で『長嶋っ!』と叫んで、父に『ここで長嶋さんを応援するのはアカンで』とたしなめられた。

 

昭和の30年代、戦後の目覚ましい復興で日本中が頑張っている時に、人々を熱狂の渦にいざなったのは

長嶋さん。間違いなく あの時代の希望でありヒーローだった。

長嶋さんの『ミスター』呼びは”ミスタージャイアンツ”じゃないよ、”ミスタープロ野球”だからね。

王さんも凄い人だと思う。特に記録で言えば長嶋さんよりは上だろう。

でもでも、ミスターは長嶋さんなの。長嶋さんは特別なの。スターだった。輝ける星だった。

 

長嶋さん、太陽のような人だった。明るくてポジティブで可愛らしい人だった。

そして本当は天才なんかじゃない、とてもとても努力の人だった。

現役時代もそれを見せなかった。倒れてからのリハビリの努力も半端ない。

身体の機能も完全に戻った訳じゃない。言葉も不自由だったろう。でも長嶋さんはそれを恥じることも

隠すことも無く、常に表に出ることを厭わなかった。

若い人は知らないだろうが、あんな人はそうそう出て来るものじゃない。

私にとっては一つの時代が終わった。 ”巨星墜つ” そんな気分だ。

 

6月3日の夜、初めて長嶋さん関連のニュース・番組をテレビで観た。

ホームベースに帰る時にスキップする長嶋さん。松井さんを引き当てた時の笑顔とガッツポーズ。

何を観ても泣けてくる。

一茂さんが『野球の星に帰った』と言っていたね。長嶋さんは生まれ変わっても又長嶋茂雄になって

野球がやりたいと言ったんだそうだ。

若い時の長嶋さんの顔、結構一茂さん似ている。彼も偉大な父を持って難儀な時もあったことだろう。

でもちゃんと敬愛していてくれているんだと解る。

私の娘。速攻『長嶋さん、亡くなったね』とLINEして来る長女。二女は昨日やっと電話して来て

『あえて、連絡しなかったんだよ』と。夫々の、私への思いやりよね。

 

長嶋さん、ありがとう。大好きだったよ。それしか言えない。


私の御堂筋

2025-06-01 11:46:38 | 日記

この2週間ほどは出張・来客・テスト等々、毎日何らかの用事があって、ほとんど毎日の様に

出掛けていた。なので、もうこれははっきりと歳のせいなのだろうが、凄くしんどい。

帰宅するやいなやバタン!となってしまう。食事は流石に抜かないが。いや、抜けないが。

でも食べるとすぐに寝てしまい、夜の10時頃から記憶が無くなることが毎日のように続く。

その代わり朝は3時4時には目が覚めて、即仕事を始めるという具合。朝が早いから夜、余計

眼が持たないのかも。悪循環?無理が利かない身体になってしまってるわ。

会社で頭に血ぃがのぼるくらい嫌なことがあり、それもストレスになっている。

悶々ではなくムカムカだ。

 

そんな中、昨日は友との食事会。今回は4人だった。珍しく少ない。

淀屋橋に在る、1927年に当時の豪商(と言えると思う)が建てたという鉄筋コンクリートのビルの

地下のベトナム料理レストラン。

ビル自体はとても趣のある、大事に残して欲しい様な建物だった。

もう100年近く経っているんだものね。段々昔の重厚なビルが無くなってきて寂しい思い。

人数少ないけれど、友らの昔話に加え、政治・政治家・インバウンド・万博・中国等々

結構盛り上がって、時間の経つのも忘れたわよ。

来月はクラス会があるので、いつもの食事会はお休み。

 

帰り、皆同じ淀屋橋から電車に乗るのだけれど、地下に潜るという3人に『私は上を歩くわ』と

別れて1人御堂筋を少しだけ歩く。

年から年中イルミネーションしているの?と思うのだけれど、御堂筋の銀杏の木が光ってた。

御堂筋に関しては、私は思うところがある。

元々はメイン4車線+側道各2車線の計8車線だったはずだ。それも南行き一方通行の。

御堂筋建設当時、『市長は大阪のど真ん中に飛行機の滑走路でも作る気か!』と散々言われたらしいが

時の関市長は『将来を見据え、これからの大阪の発展には、きっとこの位の道路が必要になる』と

言って聞かなかったそうだ。この話は父から何度か聞かされた。

私はこの、日本全国でも類を見ないほどの御堂筋の広さと、イチョウ並木の景観がとても好きだ。

なのに今は、側道が両側各1車線減らされ、幅が狭くなっている。それもこれもインバウンド対策だと

言われるが、そこに関しては維新のやり方は気に入らない。歩道を広くする必要ある?

もうこれ以上、狭くしてもらいたくない。御堂筋は大阪のシンボルなんだから。

 

淀屋橋まで行ってついでに中之島と市役所を見る。

市役所には正面によく解らないイルミネーション。そして中之島も木々が光ってる。

そんなん要らんねん!と私は思う。クリスマスでもあるまいに。

静かで落ち着いた佇まいの方が好感が持てるのに。ゴテゴテは趣味が悪い。木も可哀想。

 

昔々、淀屋橋は待ち合わせした場所。携帯電話も無い時代に、突発の用事で連絡も出来ずに

遅れて来る人を、橋の上で何時間も待った。どんなに時間がかかっても遅くなっても必ず来ると

信じていた。

やっと会えて、食事をして、別れ難くて何度も何度も淀屋橋~心斎橋~淀屋橋と御堂筋を往復した。

言葉少なに歩いた。

そんなこともあったわねと懐かしく思い出す。私にも乙女の時代があったことを。

もうすぐ74歳になるおばあさんが、何言ってんだか・・・とちょっと恥ずいけど。