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アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

なぜツェルニーでピアノをやめちゃったのか

2017年02月06日 | ピアノ
ツェルニーを無理やり練習させられた経験はなく、従ってツェルニーさんに対して恨みとかトラウマはないと書きました。それは確かにほんとうなんですけど…

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プラスイメージがなかったこともたぶん確かで、現に
バイエル → ブルクミュラー → ツェルニー
と、ツェルニーゾーンに達してすぐやめちゃってるわけですからね。

バイエルをやってたころというのは、楽しいとかつまらないとかやりたいとかやりたくないとか関係なく、ほとんど物心ついてないといってもいいくらいの幼児なわけで、とりわけ私の場合は街のピアノ教室で育ったこともあり、どうも幼児のころの私は人間すべからくピアノを習うものであって大人はみなピアノがある程度は弾けると思っていたフシがあります(笑) 文字の読み書きのように。

そしてある程度何か考えるようになった小学校低学年のころ、ブルクミュラーとか、発表会では中田喜直とか、そういった曲を弾いていて、それなりに「楽しい」という気持ちはあったと思うんですよね。当然ですが、人間すべてピアノを習ってるわけでないことも知り(^^;; けれどもピアノをやめたいとかはまったく思ってなかった。

それがおそらく小学三年生になったころにメイン教材がブルクミュラーからツェルニーに切り替わり、
ひとつ思ったことには、
なぜか楽しくない曲しか出てこない(爆)

ピアノに関しては母も、そして先生もゆるかったので別にもっと練習しろとかもっとうまくなれとかいうプレッシャーはなかったし、具体的に「メトロノーム100まで上げてきて」「100回弾いてきて」「もっと強く弾いて」とかのイヤになりそうな指示はなかったと思うんです。

明示的にプレッシャーをかけられたのではないんですが、このころさすがに自分でも
ピアノがあんまりうまいほうではない
ということがわかりますし、ピアノの進歩というのがとりもなおさず「今ツェルニーxx番のxxをやっているの」で表されるとすれば、(仮にもピアノの先生の娘なのに)だんだん人より遅れをとっていくことは白日の下にさらされてしまう。
#そしてそれを努力でカバーしていく気はさらさらない。

そう、私が思いますに、よくも悪くもツェルニーの大きな特徴というのはこの「一本の線上に数字で並んでいる」ということではないでしょうか。もちろんそのように、ピアノ曲の基本パターンを体系的に整理して曲集にしちゃったところそのものが大きな功績ではあるでしょうけれど。

ツェルニーの曲のひとつひとつは、軽やかできれいで明快で、特にいやらしいところもなくフツーの曲ですが、
日本人の目の前に、「一本のものさし」のように提示されてしまったところが大きな問題だと思います。

ブルクミュラーは別に順番どおりやるような曲集じゃありませんし、たとえば練習曲といってもショパンのエチュードなら、順番にやるとかあまり考えないと思います。一曲ずつ選んでやるし、よほどのコンプリート癖のある人以外、総なめすることにはこだわりませんよね。

もし、昭和の音楽教室で、ツェルニーがよく使われるにしてもその使われ方が、いろんな曲をやりながら「では次はこれをやりましょうか」と、そのときにちょうどよいものを抜粋で弾かれる習慣であったなら、印象はまったく違うものになっていたはずです。変な恨みを買うこともなかったと思うのですが…

今、40年も経ってから振り返ると、ただのかわいい曲ですし、やりたければやるしやりたくなければやらない、膨大なピアノ曲の一部分にすぎません。何番をやってる人が何番をやってる人よりエライってこともないし、ただのワンオブゼムになったツェルニーさんは別に悪人じゃなかった(笑)

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