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アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

いじめの解決はどこにある

2018年07月04日 | 小学生活
昨日読んだ新聞記事で
「兵庫・小5女児自殺「いじめが要因」第三者委が調査結果」(毎日新聞)
というのがあり…

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「クラスの女子グループにいじめの加害者にも被害者にもなる流動的な層がおり、被害者が入れ替わりながら仲間はずれが繰り返し行われていた」とのことで

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報告書(概要)は、女児も加わっていたグループが「固定化した加害層の児童」と流動的な層に分かれた「いびつな社会関係」になっていた、と指摘した。女児は流動的な層に属し、ストレスを感じていたと分析。この疲弊感やいじめが自殺の要因と結論付けた。

女児は4年生進級時に学校の統合で同級生が増え、新しくなったグループで無視されたり蹴られたりした。5年のクラス替えでもグループから抜けられずに孤立。「死にたい」というメモもあった。
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「グループから抜けられずに孤立」という一見奇妙な日本語がほんと、ややこしさを示していると思います。

ちょうど図書館で借りていた本で
「「いじめ」が終わるとき」(芹沢俊介)
というのを読んでいたのですが、これにもあるように、「いじめ」というのは標的を分離して、身体的心理的暴力を継続的に加えるんだけど、その標的の側は「ひとり」になることを許されるのではなくて、繰り返し繰り返し「お前の居場所はない」ということを強調されつつ囲い込まれ続けるのです。まさに「グループから抜けられずに孤立」…

この本でいう「いじめ」の定義:
(1) いじめの標的は特定化される(標的はたいてい一人、稀に二人)
(2) 暴力には、身体に打撃を与えるものと心に与えるものがある
(3) それらの暴力が標的になった子供に反復継続して加えられる

標的が特定化されているのに比べて、加害者側は流動的で、日によって異なる場合もあるし、どこまでが加害者なのか線引きがしにくいこともあります(手は出さないけど煽動しているとか)。

また、「いじめ」の目的というのが
「教室におけるバラバラ感と対照的な集団身体への濃密な帰属願望、一体化願望を現実のものとすること」
なので、つまり主目的は標的にダメージを与えることではないんですよね。暴力として、単独で犯罪となってしまうような行為(蹴るとか、お金をゆするとか)が行われる場合もあるけれど、そうとは限らない。

「無視」とか「ちらちら見ながらひそひそ内緒話」というようなことの集合体でいじめが構成されている場合は、特定の犯人も(法律で扱えるような)犯罪もないまま自殺まで追い込まれる子がいるかもしれない。

そんなこんなで、結局のところ「加害者の登校停止」のような処分が、仮にできたとしても、それで解決しない所以でしょう。

逆に、「標的(被害者)」のほうはハッキリしているし少数なので、登校拒否は一定の効果があります。登校拒否といったらふつう、子供自身が通えなくなるという意味だけれども、親が子供を守るために「学校が安全を確保してくれるまで通わせない」と拒否した事例も紹介されていました。

しかし、なんでこっちが逃げないといけないんだ、という問題がありますので…緊急避難措置としてはよいけれど。

根本的な解決としてはやはりいじめの目的「集団身体への濃密な帰属願望」ということに立ち返ると、その動機そのものがない状態ということから
・「みんな」という帰属性を求めないこと
・一人ひとりが「ひとり」になることができること
(この二つはわりと表裏一体)
とこの本ではまとめられています。

それはわかります…すごく。自分というものがあって、自分のやりたいことがあって、ひとりでもいることができて、そしたらいじめなんてする必要もないしする暇もないですね。

でも、じゃあどうするとそういう状態になるのかというと、
「安定かつ安心な『環境』と『他者』があること」
そのことによって、心の内に「隣る人」が育ち「我あり」ひとりでいられる状態になる。

つまり、いじめる側にならないことと、いじめられたとき回復する力を持つことはほとんど同じで、要するにこれって子育てで一番重要なことかも。

ただ、結局子供がいじめられた場合に親ができることってそれこそ登校を拒否するくらいのことしかないんだけど。

私がいじめられたとき、それを母に隠す必要がなかったからとことんまで追い詰められずに済んだし、登校拒否はしなかったけれど母は転校に尽力してくれた。
またろうがいじめられたとき、またろうも親に隠さなかったし、休み時間には図書室に避難したり、短期間だけど登校拒否になったりしてしのぎながら、周囲の状況が好転したらまた学校に行けるようになった。

どちらも、ベースラインはOKだったということかと。

それでも、自分の子供がちゃんと「ひとり」になれる子だったとしても、それはいじめを受けない保証にはぜんぜんならない。現状では、私立に行かせるとかで確率を下げるくらいしか。

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PTAのほろ苦い思い出

2017年03月17日 | 小学生活
「#PTAやめたの私だ」なんてタグが流行ってる話がMixiニュースに出ていて、まぁイマドキだなと思うわけですが(Twitterをしたことない旧人類なので)…気持ちはわかる。

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PTAは任意加入だなんてごく当たり前のことがようやくぼちぼち知られるようになったのはいいことだと思うよ。

強制だ当然だと錯誤させて全員加入させることでようやく成り立つPTAだったらそりゃやめたほうがいい。

我が家の子どもたちが小学生(公立小)だったころは、PTAを退会できるなんて発想もなく、ただ規定のとおりに(子ども一人につき一回以上は委員をやる)委員を引き受けた。活動時間を平日の10時から14時なんていう、午前半休でも午後半休でも対応できないようなところにぶつけてくるのがなんともしんどいのだが、年休はだいたい取りたいときにとれる仕事なのでいちおう不可能でもないといったところ。

活動時間がそんななのは別に規定というわけではないのだが、「多数派」の都合が「下の子が幼稚園に行っている間に」ということで動かせなかった。

そんな地域(専業主婦率がそこそこ高い)なので、ほんとにほんとにどうしても委員を引き受けられない人に、「介護というならその診断書を」とかまで迫った話は聞かなかった。せいぜい、長い気まずい沈黙が続く程度。

これが中学校(公立)になると、専業主婦率がぐっと下がり(パートに出る)、子どもへの関心もずいぶん薄くなるのか、もうとにかく引き受け手がない。引き受けられない事情を根掘り葉掘りしていっても不毛なのでいっそということで「公平に」くじ引きが行われたがその結果どうなるかといえば形式上委員にはなっても実際には学校に現れない。

まぁ無理やり引き受けさせるなんて、というか、無理やりボランティアの仕事をさせる(なんか変な表現だな)なんてできない相談なのだ。ほんと。

たとえばだけど、平日の日中がいい人もいれば、土日がいい人もいるんだったら、分ければいいんだよね。できる時間帯を選んで参加できる。これは真っ当に聞こえるので、うちの小学校でも「一人ひと係制度」なんてのが途中で編み出されて、運動会の当日に行って力仕事すればいい係もあったのだけど、なんのことはない、そうやって分割していくと、その仕事の割り振りやとりまとめをする中央の仕事は残り(というか増えて)それは委員の仕事になる(そして会議は平日の日中)。

私が年休を消費しまくって委員をしていたとき、しかし一番嫌なのはそのことではなくて、学校の要求が理不尽で高圧的なこと。

ラジオ体操は、平日の朝早くという、専業主婦であれ共働きであれ、とにかく誰も暇な人はいない時間帯に拘束されるので、引き受けられる人がほんとにいなくて、「引き受け手がいないので今年はラジオ体操なしにしたい」といっても、とにかく絶対やらなきゃダメ!! ラジオ体操がないなんて、校長のメンツにかかわるらしいよ~

それと、不審者情報が流れると、学校から委員に電話があって、クラス電話連絡網に流さなきゃいけないの。
それって私は会社でその電話受けて、でも連絡網は固定電話が書いてあるから、不在の家のほうが多いんで、延々と留守電に向かって
「本日11:00ごろ、●●児童公園の砂場に、50代くらいの男性が現れ、遊んでいた幼児二人にオ〇ッコをかけて立ち去りました。服装はグレーのパーカーにジーンズ…」
みたいなことを何度も(会議室にこもって)話し続けることになるわけよ。

自分が委員でなかったときには、逆の立場で、夜に会社から帰ってくると留守電にそういう情報が吹き込まれているんだけど、子どもはとっくに帰ってきてるし、なんの役にも立たない。

で、これはほんとにやめたくて、どうしても回したければ電話じゃなくてメールにしようって何度も掛け合ったけど、学校が回せいうたら委員はその連絡が必要かどうかなんて判断しないでとにかく回せってんで譲らなくて、平行線。

とにかく、学校がどうしても必要だと思ってる業務があるのなら、そしてそれを保護者が引き受けられないならば、予算つけて誰か雇うしかないでしょう。上記はいずれも、なくても困らないと思うけどね(市の防災メールに登録すれば同じ情報がもっとスムーズに来ます)。

あとは、学校がというんじゃないけど、とにかく「伝統で」やることになってる仕事がやめられないという…たとえば、なにか講演会の座席を埋める頭数とか、よその小学校の運動会に来賓として行くとか(たいてい会長さん)、そうやって来た他校のPTAの人にお茶出しをするとか…
(それって、講演会そのものをやめるとか、来賓システムをやめるとかすれば何も困らない)

ベルマークをみんなから集めて、委員さんが何度も学校に集まって、ちょきちょきして集計して、膨大な時間かけて「図書室に掛け時計がつきました」みたいなのも、個人的にはクラクラくるんだけど、でもこんなところで「改善」精神を発揮して「持ち帰って家でやってきます」なんていうのはよろしくないのがPTAというもので、みんなで集まっておしゃべりしながらやることに意義があるという考え方の人も…というか、実際そういう面はあると思うんだよね。そもそも、なんのためにPTAがあるのかという。

「いっしょに何か(子どものなんかしらの役に立つらしい)作業をしながら保護者同士仲良くなる」

煎じ詰めればこれが一番の機能だってことで開き直れば、やりたい人がやりたいことをやる程度で成り立つくらいに仕事をしぼって、とにかく強制はやめる。ベルマークだって、やりたい人が集まるならやってもいいし、でもやらなくてもいい。人にはそれぞれの事情があるのだし、学校に来ないからって子どものことを考えてないわけじゃない。

それしかないと思う。問題は、それで成立する程度にやることを減らせるかって話だけど…

…何か、どうしてもやらなきゃいけないことってあったっけ??


ほんとにほんとに必須のことって、なんにもないと思う。そんなのがあったら、学校の先生の仕事になってるわけで(授業とか)。
せいぜい、地域パトロールくらい?? あとは、余力があったら追加したら。
そういう方向に変わるきっかけって、多くの人がぼろぼろ退会していく事態くらいしかなさそうだから、まぁいいんじゃないか…というかしょうがないんじゃないかな。

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宿題ひきうけ株式会社

2015年07月30日 | 小学生活
…ってタイトルの小説があったなぁと思いました(^^;;

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宿題代行業者が盛況だ、というネタがいくつかの番組で取り上げられたそうです。ま、季節の話題ですね。

そういう話を聞くと、思うところは人それぞれ、いろいろな感慨があるでしょうけど、私もね、ほら、現役小学生がいて、中学受験ブログなんぞ書いてるときには、あんまり宿題をディスることもやりにくいんで。学校のことなんかどうでもよくて、中学受験さえうまくいけばいいと思ってるんでしょとか思われるのも面倒だし。

学校どうでもいいわけはないんです。過ごす時間が長くて、そこで快適な小学校生活を送れるかどうかは子どもにとってめちゃ大きいことですから。

それに、別にどうしても宿題の時間をギリギリ削らなきゃいけないほど、中学受験勉強をツメツメにして「上」目指してたわけじゃないしね、うちの場合…

どちらかというと、

学校の先生が「やれ」といったからといって、
その課題が自分にとって役に立つか、やるべきかということを考えもせずに
やるという姿勢

そのものがイヤ。

もうちょっと細かくいうと、そういう姿勢を子どもに教え込むのがイヤ。教え込むことを是としている(少なくともそのような態度をとっている)自分がイヤ。

その本音を隠しているのがしんどかった…

今はもう子どもが小学生じゃなくなったから幸せです(^^;;

幸せになってから書いた記事(中学受験ブログ)→「小学校の宿題は「道徳」の課題である

そもそもの問題は、小学校の宿題が「ねじれ」ている…児童本人の勉強のためのものではない(部分が大きい)ことからくるので、その隙間に宿題代行業者が入り込むのはしかたがないといえばまぁ。

私が個人的に好む「道徳」の観点からいえば、やりたくない(それだけの時間を費やす価値がないと思う)宿題があるならそのままブッチしろよと思うのだけど、それは、

「時間」というものを、人の生命、人生の一部であるところのプレシャスなものであると考える一方、
波風立てるということに抵抗がないからであって、
(別に私は何も迷惑行動してないんで、先生が怒って波風立つってんなら波風は先生の責任でしょ)

集団の和を尊ぶという道徳に私より重きを置いている人にとっては、
親が代行するなり、お金で解決するなりするほうが正しいということになるのかもしれませんね。

価値観(道徳)人それぞれ。

ところで、「宿題ひきうけ株式会社」の小説も、やりたくない宿題の代行というところを入り口にして、いろいろ考えるうちに深いところに入り込んでいったって話ですね。ついややこしいところまで考察してしまうネタであるのは小学校の宿題の持つ「ねじれ」によるわけだから、ま、この歪みそのものが日本の文化である、と(独自ではないのかもしれないが)。

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(今回もイラストはまたろう)

親の監督責任って

2015年04月11日 | 小学生活
「ボール裁判」の決着がおとといついたので、昨日はコンビニで新聞を買ってみた。

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一面トップがこの記事だったのは読売新聞だけだったのでそれ買ってきて…しみじみ読んだ。
最高裁では裁判官四人が全員一致で、一審、二審の賠償命令を破棄。

この事件は、
小学校の校庭で放課後にサッカーしてて、フリーキックの練習で蹴ったボールがゴールを外れて門扉も越えて道路に転がったんだけど、それをよけようとしたオートバイが転倒したというもの。

オートバイを運転していた人が85歳の男性で、足を骨折して入院したのをきっかけに寝付いてしまい認知症が進み、事故から1年4か月後に肺炎で死亡。

という、たいへん不幸な出来事だったんだけど、遺族がボール蹴った子(当時11歳)の親に損害賠償を求めて裁判を起こして、二審では1180万円払えという判決が出たのね。

責任能力がない子どもが事故を起こした場合、「監督義務者」である親が賠償責任を負うというのはすんなり納得がいく。ま、例えば、子どもが商品壊したら弁償するとかね。またろうを連れて買い物するときとかはいつもびくびくでしたわ(^^;;

しかし監督義務を怠らないってどういうことなのか…
放課後の校庭でサッカーするのふつうだし。
ゴールに向かってボール蹴るし。
でも外すこともあるし。

親は、子供が人身に危険が及ばないよう注意して行動するよう、日頃から指導監督する義務がある
(今回の判決骨子から)

そうですね、例えばだけど道路でサッカーするなとか。けど、今回の場合、別に親のしつけが変だったわけじゃないですからね。

一千万円超に相当する監督義務違反があった
ってことになっちゃうんですか? これで??

という違和感と恐怖を抱えつつ、うっかり男子を育てる親はこの裁判の成り行きを注目してたと思います。

今回の判断は
「通常は危険が及ばない行為で、たまたま損害を生じさせた場合は、具体的に予見可能だったなどの特別な事情が認められない限り、監督義務を尽くさなかったとすべきではない」
ということで、ともかくよかったー、というかそもそも一審、二審はなんであんな結論だったのよ!? という日常的感覚を持つ人が多いんじゃないでしょうか。私もそう思っていたんですが、新聞をじっくり読んでいて、なかなかやっかいな話なんだなぁと。

これまで、親の監督責任の「免責」というのはほとんど認められたことがなくて、ものすごく画期的な斬新な判断なんですって。今回の判決は。

確かに、考えてみれば、もしもサッカーボールが転げ出して、バイク転倒じゃなくて、お向かいさんの植木鉢を割っちゃったとするでしょ。そしたら親がどうもすいませんいうて弁償するのはおかしくないような気がするんです。

放課後の校庭でサッカーしてた、そのことは親のしつけが悪いとかいうことではないけれど、たまたまそういうことになっちゃったら、親が払う。そのときに、
「通常は危険が及ばない行為で、たまたま損害を生じさせた場合は、具体的に予見可能だったなどの特別な事情が認められない限り、監督義務を尽くさなかったとすべきではない」
なんつーて、親が弁償しなかったら、植木鉢壊されちゃった人はナニーってなりますよね。

この感覚のねじれはなんだろう、と思うと、「ボール転げた」という過失(?)の重大性というか。

コドモのやらかしちゃったことが、火遊びから火事とか、刃物で人を刺したとかじゃなくて、「ボール転げた」が一千万円? というところがそもそもこの事件の違和感の根っこなのかもしれない。

そもそも、なんで「ボール転げた」から死に至ってしまったのかというと、バイク運転者が85歳だったことと深くかかわっていますよね。突然のことに対応できなくて転倒になってしまうのも、転倒したら骨折してしまうのも、骨折から寝付いて認知症になってしまうのも、そこから肺炎を起こして亡くなってしまったのも、若ければ起こりにくかったこと。

運転教習のとき、「予測運転」とか習いませんでした? 小学校の脇を通るときは子どもの飛び出しがあるかもと予測して注意して運転するとかね。ボールが飛び出してくるとかも予測の範囲内として運転するのが、運転する側に求められることでしょう。

つまりその85歳男性がバイクを運転するということは、たとえば猫が飛び出して来たら死に至る可能性があるというリスクを承知であえてやってるってことなんだから、「一年四か月後の死」の損害を、ボールにおっかぶせることにそもそも無理があったんじゃ…

と考えると、そこにツッコミを入れないで
「通常は危険が及ばない行為で、たまたま損害を生じさせた場合は、具体的に予見可能だったなどの特別な事情が認められない限り、監督義務を尽くさなかったとすべきではない」
という理屈から今回の損害賠償命令破棄にしたのはなんかもやもやっとするんです。

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(今回もイラストはまたろう)

九九という関門

2014年06月04日 | 小学生活
「九九」って、ににんがし、にさんがろく、ってアレですけどあんなもんか関門なのかって…

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それは、子どもによります。子どもによっては、ほんと覚えられなかったり、覚えてもうまく使えなかったり。小学校算数の最初の関門っていう感じですかね。

我が家の三人で、九九をすんなりマスターした順:
はなひめ(ほぼクラストップ)→こじろう(ふつうかやや早いくらい)→またろう(ビリ)

またろうは本当~にダメダメで、家ではずいぶん熱心に「風呂場のさんすう」フォローをしたと思いますけど、ぶっちぎりビリでした。

漫画家の西原理恵子さんは「九九が全くできません」だそうで(「いやでも楽しめる算数」清水義範、絵・西原理恵子)、その関門でコケたあとも、ついぞ復活はしなくて、算数といえば嫌な思い出しかないらしいですね。

西原さんは前述の本の中で、
「ではどうやって日常の計算をしているかと申しますと」
以下に、日常計算の知恵を披露しています。

120円のお菓子を5つ買うなら、10倍にして1200円を半分にする。600円。
6つ7つならば、5つの600円に120円をひとつふたつと足してみる。
128円を8つなどという場合は、10倍にしてから手加減「1280円弱」
128円を12個などという場合は、10倍にしてからちょい盛り「1280円強」

…いやまったく正しい。というか、これが自力で思いつける(そして、生活の知恵として定着する)ということは、掛け算の概念が正しく理解できてるってことで、西原さんが「漫画が描ける的な」頭の良さだけでなく、算数脳もちゃんと持ってることがわかります。

なのに学校教育の中では救われず、算数数学はできないものとして定着。実にもったいない。

九九がすらすら言えるようになるのが早かったかどうかって、頭の良し悪しにも、また算数・数学のできる/できないにもあまり直結しないような気がするんですが。

我が家の三人で、数学が得意な順:
またろう→こじろう→はなひめ
で、キレイに逆順ですからね。

九九暗記は、算数・数学学習の長い道のりの中で、ちょっと特異な課題だと思います。

また、九九だけじゃなくて、算数・数学とひとつの流れにある中で、その段階や性質から、なんかある特定の子だけつっかかっちゃう課題ってあると思うんですよね。

はなひめは、九九はスムーズだったけど、その手前の小学校一年生の足し算引き算でえらい停滞しててどうなるかと思ったし、こじろうは、中学受験のときの逆算でものすごく意外なつまづき(あれだけ数に強いのに!!)。

ヘンなところでつっかかったときは、それで算数・数学あきらめちゃうのはもったいなくって、やっぱり迂回するなり穴埋めるなりなんかしたほうが人生の幅が広がるからお得だと思います。またろうもこじろうもはなひめも、今ではそこらの穴は埋まって何事もなかったかのよう。ほとんど本人意識してないと思います。

ところで、清水義範さんのほうは、こんな本書くくらい、算数についてこちゃこちゃ考えるのが好きなくせに、単純な計算練習とかは「なんかムナしい」って思っちゃうタイプらしくて、あるとき計算テストのプリントを、最初数題やっただけで放置して(「以下同様に、ってことじゃないか、と思ってしまった。」)12点かなんか取ったら親が呼び出されて、「学校でやる勉強で、面倒だもん、といってやらないということがあるものか」とえらく叱られたそうだ。

私は西原さんよりは算数できるけど(^^;;、ちょうど清水氏と同じくらいだと思う。つまり
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私は算数を面白がる子だったが、計算は面倒だと思う子だった。そのことが、高校に入って以後の私の数学の成績をガタガタにした遠因だといっていいくらいのものだ。高校の算数って、計算力の勝負のようなところがあるからである。
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もう少し正確にいえば、計算力で勝負できるわけじゃなくて、基礎体力、足腰、あるいは視界がきくきかないといったことなんだろうけど。

こういうタイプにはわりとつける薬がなくて、なにしろいつの間にか数学苦手、ということになったときには、それまでの膨大な積み重ねが不足しているんだからねぇ。どこか特異的に「つまづき石」があったよりもうちょっと深刻になりがちです。というかそこから先、数学を放置しても誰からも怒られたりしないからまぁ一生ほっとくよね、たいてい。(←いまココ)

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