自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

勝ち組と負け組/1946年 移民社会の激震と対立

2010-08-15 | NEWS/現実認識

1945年8月15日正午、65年前の今日、日本国民は昭和天皇の「玉音放送」により一瞬にして敗戦を認識した。
情報途絶の暗闇の中にいたブラジル移民のほとんどは、隠れて聴いていた短波放送の「大本営発表」の勝報しか知らず、ニュース源がなにであれ敗戦の報を聞いても「神国日本が負けるはずがない」という信念を変えなかった。
たちまちのうちに敗戦は敵のデマ、実は大勝利、なる虚報が移民社会を駆け巡った。
報道は正体不明のラジオ放送、謄写版刷りのビラ(有料)でなされた。
世界中に出回ったミズーリ艦上の有名な降伏文書調印式の写真が偽造され連合国敗戦の証拠として回覧された。
わたしが小さいとき親たちはミズーリ艦をミソウリ艦と呼んで茶化していた。
戦中から活動していた興道会/臣道連盟は本気で日本からの軍師と艦隊を歓迎する会を準備する中で多額の寄付金を集めたため後日詐欺容疑で調べられた。
敗戦を認識した有力幹部が将来の移民の社会的地位向上のために積極的に認識普及運動を始めるとウルトラ信念派はあえて忠君愛国道からそれた認識派に対して「裏切り者」「非国民」「国賊」として天誅テロを加えた。
実に1947年1月までに23名が殺害され数十名が負傷した。
父母も信念派だったが活動家ではなかった。
父親は街に行った時は勝ち組新聞「ブラジル時報」を買って来た。
両派とも活動家は相当組織的に動いていたようだ。
わたしは真珠湾攻撃の有名なプロパガンダ映画を観た(見せられた)記憶がある。
巨大戦艦撃沈の勇壮なシーンが目に焼き付いていまだに消えない。
他方で見渡すかぎりの焼け跡の掘っ立て小屋の穴蔵を舞台にしたドタバタ喜劇映画「東京5人男」をみて非常に情けない気持ちになった。
このころ占領下日本の海外向け郵便が解禁され、移民社会に内地の手紙が来るようになった。
オラリア(レンガ瓦製造所)に移ってまもなく、推測では1947年前半、再生紙の封書かハガキが日本の肉親から来た。
GHQの検閲判が押されていた。
最長老の祖父が皆の前で読んでハラハラと涙を流して只一言云った。
「負けた。大東亜共栄圏の夢むなしくCHINAが赤化する」
その後は事業意欲旺盛な一族のなかでは敗戦は話題にも議論にもならなかった。
ひたすら帰国の道を突き進む父母は精神的に孤立したにちがいない。
わたしが生まれた1938年のある信頼できる調査では85%の移民家族が帰国願望で10%が永住希望だった。
終戦直後は90%の日本人が勝利を信じていた。
臣道連盟が幹部逮捕で壊滅する中で敗戦認識が決定的になったこのころには多分数値が逆転したと思われる。
事件は終息し移民社会の亀裂は「勝ち組負け組」事件として記録されるようになった。
そして日本国内の「歴史認識問題」同様、ながらく大っぴらに議論しにくい状態が続いたが、2007年、事件の核心部分が作家醍醐麻沙夫によって解明された。
http://www.brasiliminbunko.com.br/35.Brasil.Katigumi.                 TeroJiken.no.Shinsou.pdf
事実は小説よりも奇なり。
作家の推理パズルを完成させる最後のピースが見付かると事件は意外にも、にわかにわが家の身近に迫って来た感じがしはじめた。
特務機関を騙る戦中からの詐欺師川崎三造の登場に続く。