自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現

2024-08-22 | 移動・植民・移民・移住

パラグアイのトリニダ遺跡 世界遺産 出典 web : Jesuitas y Guaraníes en la Sudamérica colonial
広場の右奥に教会。手前は長屋風アパート。イエズス会は家族ごとに壁で仕切って居住させ、一夫一婦制を推進した。グアラニーはそれまでマロカとよばれる藁ぶきの大きな平屋に、家を支える柱を目安にして家族ごとにかたまって、カシーケを中心にせいぜい100人が共同生活を営んでいた。グアラニーは住居の外見が似ていたので抵抗なく受け入れた。伊藤慈子著 p73.

後年、大ミッション地方の布教区は、イエズス会の名を冠し、帝国とも共和国とも呼ばれるようになる。私は、カトリックの世界布教を掲げたイエズス会によるグアラニーのコミューン(自治区)と定義する。
先例として、コミューンなる語を史的用語に変えたパリ・コミューン(1871)がある。ロシア革命もコミューンを至上目的とした時期があった(戦時共産主義、1917~21)。いずれも、周りを取り囲む世俗世界の壁と敵意に阻まれ、短期間で歴史の幕を閉じ、ユートピアの語源のとおり、どこにもない国になった。
どこにもないから私にとってひいき目もしくは憧憬の対象にもなるのである。それでは、布教区はいかにして創られたか考えてみよう。

布教区成立の制度的・組織的条件
まず、イエズス会が法王庁に所属し、国王によって直接管理されたカトリック修道会であったことをおさえたうえで、その布教村がスペイン人の立ち入り制限を法令によって保障されたことが挙げられる。布教村はクニ境をもったクニである。
さらに、グアラニー語族はインカ文明からも隔絶した地で、自給自足できる自然環境に恵まれたため、トゥピー語族と違って、部族間に深刻な対立がなかった。せいぜい200人ほどの集落をカシーケがまとめていた。集落の人口が限界を超えると「分村」が起きるのはミツバチと同じである。
このような集落を各2名ほどのイエズス会士が武力ではなく説得で集住、定住させた。改宗で集住した村をレドゥクシオンという。大ミッション地方には最盛期に30のレドゥクシオンがあり14万の住民が居た。その領域はフランスほどもあったから驚く*。まとめてミシオネスmisionesというが単一のレドゥクシオンをミシオンmisiónということもある。
*村外の立ち入り禁止でない遊牧地をふくむ。ウルグアイ川左岸は大西洋まで領土未確定で、野生の牛馬が繁殖していた。グアラニー人を主とする先住民、スペイン人、ポルトガル人が争奪戦を繰り広げた草原である。サン・ミゲルなど七村は最盛期にその地をそれぞれの牧場、茶畑にしていた。
先住民の集住はスペイン人のエンコミエンダにとっても絶対条件であった。一か所に住まわせないかぎり働かせることは不可能であるからだ。
イエズス会は集住と改宗を成功させ、あわせて集団労働を実現させた。
集住村の人口は平均して4000人前後であった。人口の多い村を一村あたりせいぜい3名の会士が指導運営できる道理はない。グアラニーの伝統であるカシーケ(首長=呪術師)と戦闘指導者の協力で始まり、次第に役割が決まり役職化された。村長(コレヒドール)以下、法秩序*、労働監督、祭祀、財務、寄合議長、書記等の役員が毎年選挙によって決められた。
*法秩序の例として財務監査、規律の維持、懲罰をあげることができる。
以下、前掲『パラグアイを知るための50章』中の武田和久論文に依拠しながら論述する。
イエズス会はグアラニーの風俗習慣を尊重したからほとんどのコレヒドールは終身だった。役員就任にはミッション全体を監督するイエズス会管区長、国王が派遣する総督の承認が必要だった。多分、会士の意向に沿った人物が役員に選ばれたと思う。
ほかに村々に複数の自営組織ミリシアが設けられ役職が振り分けられた。成人男性はいずれかの部隊に所属することを義務付けられた。軍隊経験のある会士が、銃や馬の扱い方をはじめ必要なスキルと戦闘訓練を指導した。イエズス会パラグアイ管区長モントヤは国王に銃の保持許可をたびたび請願していた。1649年、既述のカルデナス騒動の最中、ついに銃の保持とミリシアのスペイン正規軍化が副王によって制度化された。

軍事 ミリシアの国軍化
布教村のグアラニーは保護と特権を与えられた替わりに軍事動員の義務を負った。費用は布教村負担である。その出動は多岐にわたった。ラプラタ湾両岸の植民都市防衛のほか、より野性的で好戦的な先住民の討伐で活躍した。イエズス会ユートピアの限界の一つである。
中でもアスンシオン市民の反総督の乱(コムネロスの乱 1721~35)鎮圧は大ミッション地方の政治・経済的および軍事的優位を如実に物語っている。アスンシオン市民は、マテ茶輸出の減益(高い関税とブエノスアイレス商人が取るコミッションが原因)とエンコミエンダの減退で、イエズス会布教村寄りの総督と繁栄する布教村を敵視するようなり、チャルカス(現ボリビア)の国王出先機関アウディエンシアに窮状と対策を訴えた。総督の留任決定に憤激した市民は総督を監禁し、別の人物アンテケラを越権就任させた。アンテケラは「パラナ川北岸の4つのミッションを襲撃し50人近くのグアラニーを捕虜とし、支持者[エンコメンデーロ]に分配した。」
ペルー副王はアスンシオンのライバル、リオ・デ・ラプラタ総督サバラに事態の収拾を命じた。1727年、サバラが動員した2000のグアラニーと3000のアンテケラ軍がアスンシオン南部で戦ったが決着がつかなかった。グアラニー軍が6000に増員されるに至ってアンテケラは市内から脱出し、紆余曲折を経て1731年ペルー副王によって処刑された。
アスンシオンでは20カ月間監禁されていた総督が解放され、騒乱は収まるかに見えたが、アンテケラ処刑の報に市民は激怒してさらなる蜂起を準備した。みずからコムネーロス(自治体comúnの自由市民の意)を名乗り、評議会を結成した。新総督を追い返し、1733年には再派遣された新総督を阻止し殺害した。
1735年、反乱は頂点に達し、合戦を経て、数で勝るグアラニー軍に鎮圧された。                                                                            

「ミッション独自の土地制度と生産物」
イエズス会のミッションは単に布教することではなかった。明確なクニ造りのプランを有してグアラニーを説得して集住させ、集団労働、共同利用という新生活になじませた。ロシア革命も中国革命も農業集団化で躓いたことと照らし合わせると、イエズス会ミッションの成功は興味深いばかりでなく高い評価に値する。
まず土地制度である。土地を「人間の土地」と「神の土地」に分け、前者を自給自足用として家族と親族に分け与え、後者を公用のための共同生産の場とした。
公共用の土地では、飢饉・軍事のための備蓄作物、副王域内の輸出用マテ茶が主に生産された。牧場、石切り場、美術工芸品作業場、武器製造所もあった。集住・定住社会に不可欠の、遊動民時代には全くなかった生産活動である。
大ミッションの東部では牛馬の牧畜が、中・西部ではマテ茶生産が盛んで、域内で産物の交換がおこなわれた。また、「教会用の鐘の鋳造、銀細工、織物、鉄鉱石の抽出、鉛丹生産や聖像の作成、本の出版などが始まり、各ミッションの特色が徐々に開花していった。」
特産物は村々の間で交換された。言うまでもないことだが、貨幣のない社会だった。

興味深いのは、ロシア、中国では、集団農場の生産性が自家用に比べて低かったが、ミシオンでは逆だったことである。先住民は蓄える習慣がなかったから自家用地では余分な労働をしなかったのである。
「神の土地」では生産性が高かったばかりでなく、製品の品質が高く、布教村のマテ茶は高値で取引された。彼らの労働意欲が高かった理由はグアラニーがキリスト教を受け入れ、信者集団として労働に勤しんだからである。また、労働の成果が平等に分配され、石造りの聖堂、聖像、家族ごとに空間を仕切った石造の長屋住居、学校、病人・未亡人用施設、集会場、作業場、畑、倉庫、墓地、牢屋、行事が行われる中央広場といった目に見える風景となって還元されたからである。グアラニーは十分に創造の喜びを感じながら労働したのだ。
イエズス会士はそれを神の恩寵と説いたにちがいない。もともと厄災も死もない地上の天国をもとめて移動する旅の風習があったと言われるグアラニー族だから、感激して涙を流しながら会士の説教に聞き入ったと思われる。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     



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