自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

三里塚の闘い/第二砦の攻防

2020-03-07 | ムラぐるみ、家族ぐるみ、闘う人々

当たりの良いタイトルなら三里塚闘争であるが、今回の自分史のタイトルに闘争名をつけるのは、命がけで戦った老人から少年少女にたいして、関連死した当事者たち、障害を負ったり拘束されたりした男女にたいして心恥ずかしい。なぜなら私は自著で中国、キューバ、ベトナムの人民戦争に希望を託し三里塚闘争に深く共感しながらまともに参加しなかった・・・。

初めて現地を訪れたのは1970年の夏であった。情況誌編集者に連れて行ってもらったので名の知れた闘将たちの話を聞くことができた。
本三里塚の島寛征青年行動隊員は多分親団盟と全学連の間で武闘路線にどう関わればよいのかで頭がいっぱいだったのか農作業中の顔に苦悩がにじみ出ていた。夜は公団による第三次強制立ち入り調査(のちに農民が誇らしげに三日戦争と呼ぶことになる)に備えて木の根団結小屋に地下壕を掘る作業で多忙を極めていた。沖縄ルーツの教師の息子、大学を出たばかりのインテリ、天浪開拓地に沖縄引揚者集落があったという話はちらっと本で見ただけだから本当かどうかわからない。50年後の今年、戦後農民闘争史上の人物、智将として論じたい一人である。
次に東峰開拓地の石井武氏を訪ねた。戦後復員して荒れ地開拓に挑んだ石井武氏の話は明快だった。竹の根を掘り起こすのにどれだけ苦労したか、すべてを聞くまでもなく、わたしはその苦労に共感することができた。開拓では木の根は樹木の地上部にくらべて数十倍厄介だ。
わたしの亡き父母はロンドリーナ市の初代開拓者である。原始林を切り開く道具が頭にひらめいた。斧、二人用のこぎり、ロープ、滑車、大鎌、ピッチフォーク、スコップ、つるはし、鍬、マッチ・・・。家族だけでは開拓できない。入植者同士のもやいが必須である。その頃の同じ開拓地の写真は当ブログのバックナンバー2010年2月「開拓/ジャングル体験」で見ることができる。
病魔と闘いながら死の直前まで国家権力と戦った闘将・石井武さんについては後日一章をもうけないと気が済まない。
芝山町の古村・辺田部落の石井英祐・節子夫妻もまた同様に後日取り上げねばならない。わたしは少年行動隊支援の名目で面倒見のよい石井家に泊めてもらった。石井家は古村ゆえ代々屋号「じゅぜえむ」(十左衛門)で呼ばれていた。夫妻の家族は老いた父母と中学生の娘さんと5年生の男子ともう一人女の子がいたように思う。
夫妻はこれぞ篤農と想わせる、慎ましいが活力のあるお百姓で、人徳も信頼もあり部落と空港反対同盟の指導的立場にいた。婦人行動隊の先頭に立って機動隊と戦った節子さんの話によれば、辺田のおっかあたちは、闘争に参加することにより社会的視野が広くなり家の内外で主張をもてるようになって、嫌だった百姓仕事が楽しくなった、非常呼集を告げるドラムカンが鳴らされるとわくわくして心が弾む、ということだった。写真の笑顔がそれを物語っている。


撮影  小川プロダクション
節子さんは食事時には泊めている支援の学生に村や家族のことを話してくれた。5年生の男の子が子供会から自分だけ野球のグローブがないと泣きながら帰って来たとき英祐さんが涙をぬぐって買いに走った話には涙が出た。
少年行動隊支援と云っても夏休みだった(同盟休校と学習支援がなかった)から取り立てて記すほどのことは私にはなかった。しっかりしていて頼りになるのは同じ学年なら女の子だった。男どもは支援のあんちゃんたちに教えられた隠語でふざけあっていた。近藤無作さんとか嵌めっことか、わたしには初耳だった。
その彼らが、集落ぐるみ、家族ぐるみの三日戦争で鍛えられ翌年の代執行阻止闘争では周辺市町村の小中学校への早朝ビラまき、地下壕前での独自の決起集会と公団事務所への抗議行動をおこなった。
特筆すべきは2月15日芝山中学校の朝礼に押しかけ、デモ行進、体育館での団交、そのあとクラスオルグをし、校内放送でも呼びかけ、体育館での全校討論集会を実現したことである。3分の2の生徒が参加したのは飛行機が飛べば騒音下に置かれる学校ならではのことであろう。教師の造反は零だった。
皆でスイカを食べていたとき、キャプテンの女の子の父親で世話役の萩原さん(だったと思う)が子供たちの前で私を褒めた。「先生は自分はあまり食べないで隊員たちに食べさしている」 存在感のない私を持ち上げるために子供たちに言い聞かせたものと思う。開拓後の農園で育ったわたしは近くに隣家のない一人っ子育ち、他人をおもんばかって遠慮するような人間ではなかった。
存在感といえばこんなこともあった。支援のあんちゃん数人に囲まれて「お兄さん、どこから来た?」 と訊かれた。怪しいヤツと疑われたのである。
あるいは、公団によって地ならしと土木工事が大々的に進められている現場の道で少年行動隊でデモをしていた時のことである。作業員に向かって「作業やめろ」と皆で叫んでいた時、しゃがんで仕事していた中年の気の弱そうな作業員が下を向いたまま「俺は五日前にムショを出て来たばかりだ」とつぶやくように言った。触らぬ神に祟りなしとばかり足早に離れた。
しこしこと一人でやるのが性に合っているので私は別の任務に就いた。昼間ずらっと横並びしているダンプカーのガソリンタンクに砂糖を入れるサボタージュである。当時ブルドーザ等の作業車破壊を狙うゲリラ活動が夜間頻発していて修理工場はどこも手いっぱいだった。一袋の砂糖が尽きた時わたしの取るに足らない一回目の「闘い」は終わった。

二回目は1971年3月4・5日だった。公団による収用予定地六ケ所の代執行は2月末に始まっていた。代執行では少年行動隊が同盟休校して最前線に立ち婦人行動隊が砦の杭に体を鎖で縛り付けて闘い青年行動隊員が地下壕奥深く潜って抵抗した。同盟の呼びかけに応えて集まった野次馬が機動隊と公団の手荒な行動に怒って同盟に加勢した。
3月3日の土砂降りの雨の中の泥まみれ流血の闘いは、さながら黒沢明監督の『七人の侍』の戦闘シーンを想わせた。反対同盟に同心して心を一つにした家族ぐるみの悲壮で勇敢な涙ぐましい戦いだった。
戦争--「鎖ごとしょびけ、親子もろとも殺せ!」 絶叫する母親。泥水の中に柱ごと引き倒される老婆。破壊されるバリケード、小屋。こわしにやってきた者への怒りが、やがて、火炎ビンを生んでいく。小川プロ『三里塚・第二砦の人々』映画宣伝情報から。
それをTVで見ていて居ても立ってもいられなくなって私は現地に駆けつけた。
私が行った4日は休戦だった。雨で地盤が緩んで青年行動隊が籠っている地下壕が崩壊して大参事が起きることをを惧れた公団側の考えではなかったかと思う。その間に公団も同盟も戦術を練り直した。仕切り直しである。
全国から駆け付けた個人支援者は前日の教訓を生かした機動隊による検問に遮られて主戦場には近づくことすらできなかった。私はある団結小屋に行き着いたが周りは赤土の大地で目じるしが皆無なのでどこをどう歩いたか全く記憶がない。ノーヘルメットの者ばかり集められて周辺の小山の頂きにあった無人監視塔をまもるように指示されそこに行った。
監視塔の周りで100名あまりで夜を明かした。指揮者、連絡員はおろか同盟関係者は一人もいなかった。ヘルメットも角材も石礫も皆無だった。わたしはヤッケに登山靴姿だった。持ち物は懐中電灯だけだった。
一番不足していたのは自分たちの地図上の位置と任務の位置付けだった。木造のピラミッド型の塔を囲んで斜面に座って静かに、3月5日の決戦の朝を待った。焚火をするでもなくインターを歌うでもなく不思議な無言の光景だった。私はブルドーザやダンプカーが走り回る大地の下に地下壕があると思い込んでいたので穴に籠っている青年決死隊の命が心配で朝まで全く眠気を感じることがなかった。
夜が明けかけると新聞社のヘリが爆音をまき散らして飛び交い、やがてあたりが騒然となって来た。樹木越しに見下ろすと車両と機動隊が続々と集結しつつあった。この日機動隊は増員されて3500人が動員された。凸凹の大地でどこに同盟の砦があり農民放送塔があるのか又公団及び機動隊の攻撃目標が何処であるかも皆目わからなかった。拡声器がやかましかったが何をどこに向かって言っているのかわからなかった。
反対側つまり塔の背後は赤土の広大な整地でダンプが走りブルとユンボが作業をしていた。そのそばの道路では出動した機動隊が我々に背を向けて野次馬(状況次第で「暴徒」に変わる)を遠ざけていた。今にして思えば、我々も機動隊監視下の囲まれた野次馬扱いだった。われわれ「野次馬」もまた機動隊の一部を主戦場の外にくぎ付けにする消極的な役割を果たしたのだった。
われわれは樹木側の登り口の小道で機動隊の小隊と対峙した。登り口正面にバラック小屋があって中から時折盾に身を隠して小隊が飛び出て来る気配があった。そのたびにいつの間にか配られた火炎瓶を投げつけて引っ込ませた。至近距離で見下ろしながら投げるからかなり命中した。わたしも一発ジュラルミンの盾に命中させた。
3日に重機と屈強なお雇い作業員(同盟は彼らを東京から来た壊し屋と呼んだ)に第2砦を滅茶苦茶毀された同盟は、青年行動隊に突き上げられて、この5日に初めて砦に火炎瓶の持ち込みを許可した。
小山ではどちらも攻める命令を受けていないので乱戦にならず牽制しあうだけで時間が経過した。昼過ぎ火炎瓶が尽きたので誰いうとなく上の方に向かって逃げ始めた。監視塔と野次馬の間には盾を持った機動隊が10m間隔で阻止線を張っていた。機動隊員は合流させまいと左右に動くが身軽な若者がばらばらとすり抜けるのを阻止することはできなかった。
阻止線を突破した私は、現場に近づけない野次馬が立ち尽くす道をひたすら電車駅目ざして急いだ。主戦場の状況が全くわからないまま私は逃げ帰った。
翌6日公団は収用予定の第3・4・5砦を高圧放水とチェーンソー等で手荒に制圧し、農民放送塔と地下壕(全長100m)を除いて、第一次代執行の終了を宣言した。
陣地をほぼ失った同盟の闘争はヤマを越えたかに見えたがクライマックスはまだ先にあった。

出典  『闘う三里塚』 三一書房   1971.7.31



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