自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

空港管制塔占拠/三里塚闘争の天王山/開港阻止に向けた一連の市街戦、要塞戦、攻城戦

2020-05-31 | 近現代史 成田空港反対闘争

1986年に東峰十字路事件に関する裁判で千葉地裁が双方の「手打ち」をほのめかす判決(執行猶予付き有罪)を下したことを記述して前章を締めくくった。そういう気運になるまでにはまだいくつか衝突のヤマを経なければならない。
  岩山大鉄塔 出典  sanri-pp.pdf  三里塚闘争史

1972年3月、反対同盟は、A滑走路の延長上(岩山地区)に離着陸を不可能にする高さ62mの巨大鉄塔を建設した。そして、それの共有化運動や戸村一作委員長の参院選全国区出馬等で三里塚闘争の全国化をはかった。その過程で芽吹いた全国的大衆団体が「三里塚闘争と戸村一作に連帯する会」(後に改称して、三里塚闘争に連帯する会)である。以後、三里塚闘争は全国の反基地、反公害、反戦平和運動のメッカとなる。だが騒音下になる岩山地区住民は集団移転に方向転換した。
一方裁判を背負いながら鉄塔建設を進めた青年行動隊は、被告ゆえに実力闘争からは距離をおいて、裁判費用を稼ぎつつ将来の展望を模索する。無農薬・有機農法(ワンパック産直運動等)に新時代の光明を見出す。また戸村一作委員長の参院選挙出馬を議会主義に堕するとして応援しなかったが三里塚闘争に全国の住民運動の関心が集まった点を評価してそのうち町議会に進出するようになる。

5年後・・・
1977年、開港の障碍となる岩山大鉄塔をめぐる攻防が始まった。4月17日の反対同盟が呼びかけた鉄塔決戦全国総決起集会は闘争史上最大の2万3千人の大動員となった。全国の市民運動、地域闘争、労働争議との連帯が実を結んだのである。青年行動隊の穴を埋めるかのように、60年安保前後の世代が年季の入った叡智と全国的影響力で、開港阻止闘争を管制塔占拠にまで上り詰めさせる上で、一役買った、とわたしは理解している。
だが大鉄塔は5月6日午前複数の大型クレーンであっけなく引き倒されてしまった。行政と司法が結託して秘密裡に仮処分を申請・決定して抜き打ち撤去を断行したのであった。
早朝、異変に気が付いて駆けつけた反対派は周囲を固めた機動隊に阻まれて呆然と眺めるしかなかった。5年間開港阻止の頼みでありつづけた鉄塔が航空法違反部分だけでなく根元から撤去された無法に対して、反対派は地団太踏んで悔しがり「こっちも無制限の実力行動が許される、という気になった」(青行隊員だった石毛博道さん)
三里塚はふたたび戦場と化した。5月8日臨時野戦病院でスクラムを組んでいたタクシー運転手・東山薫さんが至近距離からの水平撃ちガス弾で無防備の頭を打ち砕かれて後日死亡した。翌日芝山町長宅警備の警官が臨時詰所に火炎瓶を投げ込まれて死亡した。この日から鉄パイプと火炎瓶が反対派青年の標準装備となった。機動隊も新兵器=強化プラスティック弾を試射した。

反対同盟は、開港阻止闘争のあらたな拠点として、横堀地区に鉄筋コンクリート造りの 要塞と鉄塔を建設する。場所は自死した三ノ宮文男さんの畑であった。
1978年2月6日、4階建て(地下1階地上3階)に増築された要塞をめぐって第一次要塞攻防戦が始まる。航空法49条違反容疑の「現場検証」と称して機動隊が車両を連ねて重機2台と共にやってきた。令状によらない差押、捜索又は検証は憲法違反である。
機動隊は夜10時までかかって(それほど外周のゲリラ部隊にも手を焼いたということ)要塞に立て籠もっていた反対同盟各隊(行動隊、婦人行動隊、辺田・横堀・木の根)代表幹部6名をふくむ45名を逮捕した。わたしがかつて世話になった辺田部落代表の石井英祐さんもこの時逮捕され、節子夫人は果敢に機動隊とぶつかり重傷を負っって病院に緊急搬送された。

クレーン車の前に婦人行動隊が身を投げ出す。機動隊が容赦なくジュラルミンの盾で殴る。立て篭もった石井英祐さんの妻、節子さんが、つまりジューゼム(屋号・十左右衛門)のおっ母ぁが顔を盾で割られる。鼻の骨を折られ眼の下が陥没する。
これが空港建設だ。成田空港が作られてきた姿そのもの。
節子さんは「機動隊が見えたから要塞に入るか、クレーン車が来る道を塞ぐかしかないって思って、機動隊のところへ駆け出していったんだよ」
なんていう人たちなんだろう、俺は泣けてくる。narita1978.jugem.jp/?eid=21

2月7日朝、要塞の上の鉄塔では支援党派の4人が、放水でずぶ濡れの服のまま厳寒零下の夜を不眠不休でしのいで、機動隊に対して徹底抗戦していた。

周りでは、反対同盟のお母ちゃんらが、青年行動隊(青行)の幹部連中を囲んで、「もう降ろしてやれ、 死ぬから、降ろせ」って、ワンワン泣いてるんだよ。で、「手~ふれ~」って言うと、手ふるから、まだ大丈夫 だとなって、朝をむかえたわけ。0a2b3c.sakura.ne.jp/sanri-h.pdf 

阻止線で心配して見守る反対同盟と支援の人たちは感涙にむせびながら「もうよい、降りてこい」とひたすら願った。ふたたび夜となって衰弱と凍傷には勝てず同盟の撤退命令を伝える青行隊員(参加したのは2人だけという)の説得を受け入れて10時近くになって「投降」した。反対同盟の人たちと支援党派の活動家の間に虹がかかった瞬間であった。

開港の日程が4日後に迫った3月26日抵抗の炎は全国からの増援を得て天を衝く勢いで燃え上がった。空港周辺が火炎と黒煙と水煙に包まれた。画期的な管制塔占拠事件である。空振りに終わった岩山大鉄塔決戦がここに来てようやく壮大な祭りとして実現したのである。
それは1年有余にわたる開港阻止闘争の集大成であった。全国から届けられた一億円カンパは横堀要塞籠城戦に化けてしぶとい第二次要塞戦が戦われた。反対同盟からは石井武さんをふくむ3人の幹部が籠城した。警備本部は横堀を主戦場と見て千葉県警機動隊を配備した。
反対同盟は正午から三里塚第一公園で1万2千名を結集して大規模な開港阻止全国集会をもった。沖縄はもとより各地の住民団体、労働団体と「廃港」要求宣言の会(主にベ平連関係の知識人・文化人)が白ヘルと青ヘルの党派とともに参加した。警視庁機動隊が周辺と第3ゲートの警戒にあたった。横堀要塞とのあいだには機動隊の二重三重の長い壁が立ちはだかった。下掲映像   senkiha.net/1978a.html


また赤ヘル三派と部落解放同盟、三里塚闘争に連帯する会等の「開港阻止決戦・空港包囲大行動  総決起集会」(菱田小跡地)には戸村委員長も顔を見せ「三里塚のたたかいは、いまや闘争ではなく戦闘である」とアジ演説をした。  
そこを出発したデモ隊は3方向にむかった。一隊は横堀支援に、一隊は第6ゲートに向かった。主力部隊は長蛇の列をなして辺田、中谷津、一鍬田と大迂回して東峰方面から第8ゲートをめざした。各阻止線で機動隊と衝突しつつ道々火炎瓶で車輌、施設を焼いた。対物破壊目的の金属板をフロントに装備した大型トラックを先頭にゲートを突破して敷地内に侵入して管理ビル周辺で暴れ回ったが到着が遅れたため管制塔突入時限にはシンクロできなかった。警備本部はヘリで上空から監視し追っかけながらもゲリラ各隊の真の狙いをつかみきれなかった。
別動隊8人が、火炎瓶と廃油入りのドラム缶を積載したトラック2台に分乗して、空港の北から南下して第9ゲートを突破して管理塔前まで侵入した。Uターンしようとした際、搭載ドラム缶が倒れて廃油が流れ出し、火炎瓶の炎が燃え移ってトラックの荷台が炎上した。火炎瓶を投げていた山形大の活動家新山幸男さんが火炎に包まれて後日死亡した。
選ばれた決行部隊22人中の15人は前夜から暗闇の地下排水溝に潜み午後1時を期して第9ゲート突入部隊に呼応して混乱する警備の隙をついて管理棟ビルに入りエレベータで上がった。途中管制塔のエレベーターに乗り換えて14階に上がった。最上階管制室に達した6人と14階にとどまった4人は機器をハンマーで破壊した。その間に管理棟 ビル2 階の空港署に置かれていた警備本部は虚を突かれて幹部が侵入者と入れ違いに逃げ出したため機能停止した。 管理棟ビル周辺などの空港中枢部は、九州管区動員の福岡県警等の警官が主に警備していていて手薄だった。
警備本部は14000の機動隊員を動員しながら赤ヘル三派と反対同盟の首脳が秘密裡に練り上げた作戦の前になすところなく敗れたのだった。占拠部隊の一人中川憲一さん(元国鉄の下請け労働者)は、故郷金沢の加賀一向一揆を引き合いに出して「空港包囲・突入・占拠」は「一向一心」心が一つになって、一つの目標に向かって突き進んだ闘いだった、と振り返っている。また往年の、今も現役の百姓革命家・加瀬勉さんは管制塔占拠を「闘争は最高の芸術である」と称賛した。

 出典   redmole.m78.com

屋上にいるのは逃れてヘリによる救出を待つ管制官。パラボラアンテナ伝いにキャットウオーク(幅60cm)に上がり二重ガラスを壊して外から16階の管制室に入ったのは6人、管制機器を破壊して開港阻止の実力誇示を達成した彼らは、ガラスを破って外から入ってくる警視庁レインジャー隊に抵抗せず、肩を組んでインターを歌いながら逮捕された。殺さず、人質を取らず、敵を超える武器は持たない、は彼等の申し合わせた規律だった。14階のバルコニーにいるのは4人、階下で掩護し警官隊に制圧された者5人。7人は前日地下排水溝に這入るところで発見され阻止された。

57日後の5月22日一番機が飛び立った。開港阻止は叶わなかったが闘争の勝機が見えた。10年前のベトナム戦争に先例があった。
ベトナム解放戦争で北正規軍と南解放戦線は、1968年旧正月テト攻勢で、サイゴンのアメリカ大使館を占拠した。決死隊22人(管制塔突入隊員選考はこの数字を意識しておこなわれた)は文字通り占拠を死守して全員死亡した。また、北正規軍によるケサン基地制圧はB52等による猛爆撃に阻まれたが、アメリカはまもなくケサン基地を放棄せざるをえなかった。テト攻勢は多大の犠牲を出して頓挫したが、心理的、戦略的には勝利して、ベトナム戦争の分水嶺となり、アメリカを和平交渉のテーブル(パリ会議)につかせた。

3.26の衝撃は政財界を揺さぶり右から左までの有力者の仲介により随時和平交渉が始まった。最初の接触は財界首脳と反対同盟首脳との会談だった。会談をセッティングしたのは、財界の労働運動対策総本部=日本経営者連盟の桜田武会長と新左翼労働運動希望の星=三菱重工長崎造船所社研の西村卓司代表である。ブントだった西村さんは若いが聡明な労働者と共に京都に来たことがあるが、その飾らない重厚な話しぶりに、学生のわたしは末席で労働者崇拝の心理をくすぐられたものだ。
会談の主な出席者は同盟からは戸村一作委員長と加瀬勉「政治顧問」、財界からは桜田武日経連会長、土光敏夫経団連会長、中山素平経済同友会終身代表幹事、五島昇東急グループ総帥(後の商工会議所会頭)と秦野章前警視総監・参議院議員である。
会談の詳細は不明である。加瀬勉さんの文章を借りる。「加瀬勉さんの抗議文」(2016.11.6)より。反対同盟大地共有委員会Blog所収
桜田「成田の内陸に空港を建設したことは、戦後自民党政策の中で最大の失敗であった。財界は海上空港を主張していたが、佐藤総理が我々の意見を聞かなかった。だからこんなことになってしまった。成田は4000m滑走路一本、貨物空港で事態を収拾したい」。
私は成田空港の建設を放棄してほしいと要求した。
秦野「関東管区、中部管区の警官隊を総動員したが警視庁成田で破れたり。ジャングルの中にビルを建てて周りから攻撃されているようなものである。とても守れ切れない。日本の警察は15000人毎日動員して10日しかもたない。警察行政が麻痺してしまう。成田の事態を収拾したい」。
私は闘争を継続すると秦野に言った。

会談は二回行われ、以下のことが合意された。
・政府は予定している 5 月 20 日開港を一年間延期する。
・一年間の休戦をする。その間、双方は共に実力行動を留保する。
・その間に双方の合意がなければ、一年後には戦闘再開。
・財界はこの条件を福田内閣に受け入れさせるために、運輸大臣に会見するBlog tsuge444「3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末」の一部を引用

諸般の事情により、財界の「自民党金庫番」桜田氏の休戦提言は運輸大臣の強硬姿勢をくずすことができなかった。続くいくつかの水面下交渉も情報が漏れて頓挫した。しかし成田闘争の原因が「政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らか」という財界首脳と反対同盟が共有した問題意識は、90年代の政府による謝罪と和解につながった。
そしてそれが今日無残に踏みにじられ、あろうことか多古町とそこに生きる百姓革命家・加瀬勉自身が「第3滑走路計画」の対象とされた。前述の、それに抵抗する抗議文は、いきなり「お前たちは犯罪者」ではじまる激烈なものだった。

一度ならず二度も身に降りかかる火の粉と闘っている加瀬翁に会いたい。最期の一瞬まで闘志を絶やさなかった故石井武さんと最近車の事故で不慮の死を遂げた石井紀子さんの墓に花を捧げたい。ご無沙汰した故石井英祐さんに会えず残念だ。節子さんに会ってご夫妻に敬意を表したい。同行の士を募る。鎮魂の旅が終わるまで、三里塚のブログはしばらくお預けだ。

 



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