自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

舌癌手術/胸水との闘い/心臓が朝までもつか

2022-03-18 | 舌癌闘病記

舌修復後、次の一週間ベッドに寝たまま舌の傷がいえるのを待った。
主治医が、詳しい経過は不明だが、週末3月14日の夜7時から、気管カニューレから注水して、ドレナージだと称してタッピングをおこなった。洗浄と排液である。それが必要なほどわたしに何か病状の変化があったのか、まったく記憶がない。
気管への注水だから私はむせて恐慌をきたした。海や川で溺れもがく者の苦しみとはこんなものか、と実感できた。二度と受けたくない、不信感が後を引く医療行為であった。
主治医は、上大静脈輸液ルートからの輸液漏れを想定してそれに対する応急処置をほどこしたのだろう。それにしても溺れる状態を伴う施術が妥当だとは思えない。
その晩の体調の記憶はない。妻のメモに主治医の事後説明があった。原因不明だが夜中から明け方にかけて液漏れが多くなった。肺にたまった水はほどんど抜けて来たが胸水は利尿剤とかを使って徐々に減らすしかない。自分は3時ごろまで院内に居たが、その後連絡をもらったのが遅かった。
4:30、当直医が「水分へらした」とあるが、利尿剤を点滴したということだろうか。
6:50「心拍数が早くなってきた」
運悪くその日3月15日は日曜日。日曜日は医療従事者が各医局とも当直以外は休みである。H看護室長が懸命に主治医の行方を捜したが翌日まで見つからなかった。携帯の電源を切っていたとしか思えない。
ベッドでレントゲン機器を見上げた記憶がある。Ⅹ線写真では液漏を確認できなかった。S病棟医とH室長ナースが院内を駆けずり回って対応できる内科医を探した。昼頃、呼吸器科の当直医を見つけて連れて来た。その内科医がみずから持ち込んだエコー機器が「水がたまっている[のを]見つけた」。
13:00「内科医とS病棟医、ルート失敗で液もれの可能性」と発言
脈拍が上がりだんだん呼吸が苦しくなる。主治医は見つからない。私と妻が焦る。私はSドクターに至急次の打つ手を、と迫った。「私を信用してないのか」とドクター。はい、していません、と私。
胸水を抜くことのできる外科医を求めてHナースが駆け回る。そして明朝出勤する心血管外科医と8時か8時半に予約することに成功した。
私はそれを知らされてますます不安になった。呼吸数は倍ほどになり心臓は早鐘を打つ感じだった。あすまで心臓がもつか、心配のあまり、親友の大浜医師と高知市で内科医院を開業している妻の弟に電話してもらった。
大浜は病状を聞いて、まぁ大丈夫、と呑気な返事をした。義弟も命にかかわることはない、と断言した。心拍数、呼吸数を調べて正確なデータを伝えるべきだった。
その夜はまんじりともせず、早く朝が来ないかとじりじりしながら待った。心音がドキドキ響き、呼吸活動がハツハツと止めどなく意識を刺激した。交通が渋滞して外科医が間に合わなくなるのではいかとまで心配をした。傍で一晩中看ていた妻の心中、動揺はいかばかりであったか・・・。

 
 出典  knowledge.nurse-senka.jp
手術室に入って来た心血管外科チームは手際よく胸水を抜いた。看護師が170といったのを憶えている。リーダーが肋間にチューブ(金属管の感じがした)を刺し込んだ。液が容器にどっと出た。部屋の空気がほっとほぐれた。Hナースに血がまじってない液体を見せられて妻もようやく安堵の表情を見せた。
余談だが、反対側の脇腹からの穿刺は、研修医?に任されたが、痛い上に時間がかかった。大学病院は専科が多いのでいざというとき安心だが、若手の実習の場でもあるので、痛い目に遭うこともある。

その後主治医が再度ドレナージを提案してきたが断った。あのタッピングが輸液漏れを悪化させたと今も信じている。
最初の手術と今回のトラブルで心臓が極度に弱ったので血中酸素飽和濃度の測定がたびたびなされた。股間に近い所の深部大静脈から採血するので激痛を我慢しなければならない。たまたま大浜が見舞に来て施術を観ていたので、若いSドクターが緊張して何度もしくじり焦ったことがあった。
大浜は主治医から説明を聴いたが、ドクターは輸液漏れの原因は分からないと言った。わたしには、手術前[!]に2泊帰宅した際に不具合の原因が生じた、とのたもうた。
大浜に心拍数は170/分だった、というと、危なかったね、とひとこと言われた。一晩中格闘した自分にはコトバが軽く感じられた。

傷が治って全部の管から解放されたあとも、深部血中酸素濃度が正常値に達するまで退院を許されなかった。4月6日退院となった。家に着いて、母とピーコ(可愛がっていたセキセイインコ)の顔をみた時はじめて懐かしいヒトたちと景色に包まれた元の世界に生還した実感がこみ上げて来た。
サッカーの練習を見に行って、口さがないガキに「あっ、おじいちゃんじゃん!」といきなり言われた。還暦前の、まだ孫がいない身にとって、「おじいちゃん」は意外だったが、それほど衰弱していたのである。

衰弱の結果はすぐ現れた。逆流性食道炎である。今も定期検査項目に入っている。
理学療法士は付いたが、言語聴覚士は検討対象にすらならなかった。聞く人は聞きづらかっただろうが、私は気にせず喋った。今は、歌はだめだが会話は普通にできている。

いったい再建手術は誰のためだったのか? 患者の為か、それとも医者のためか・・・。

# 筆者の闘病記におけるスタンス 一事をもって全体を評するなかれ。
わたしがその病院に今も継続して定期通院している事実が上記スタンスの確かさを証明している。

 



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