モノと心の独り言

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映画「お早よう」から

2004-11-04 21:38:06 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
「お早よう」

TVが家庭に入ってくる前はどうだったのかと、
小津安二郎監督の「お早よう」、昭和34年作品を観る。
http://www.ozu100.jp/list.html

映画の時代は、丁度、若乃花が上り調子、
キネマが唯一の娯楽だったころの話。

戦後教育の子供が、日ごろの挨拶は意味ない会話だと合理ぶっている。
TV欲しさに愚図ったら、親父に「黙っていろ」としかられ、
コトバ尻をとらえ、意地で始めた「だんまりスト」も、
徹底するほど”言葉”のない不自由さが身に染みる。
親同士の関係も、コトバと気持ちのズレがズレを生んで、
子供が挨拶しないというだけで、おかしくなる。
飲み屋で、伴に飲む酒も、コトバが違いを浮き出させる。

TVのない夕食後の家庭は、本を読んだり、つくろいものをしたり、
じっくりとかみ締めるような時間、映像。
だまっていても滲み出してくる情感は、観る私の歳のせいだろうか?

意味のない遊びの「オナラ」も、”会話”の一種、
「オナラ」のうまいオジサンが感心されていたりする。
教わっている英語の発音と意味のズレ、軽く飛び交う「I love you」
コトバは、相手への働きかけ、
声は、互いの身体を同時に揺らす。

ラストシーンは、佐田啓二と久我良子
駅のホームで交わす天気の話や雲の話、
その取り留めのなさの中、
寄り添ってゆく二人が描かれる。




生活の動きには、必ず声の掛け合いがあり、言葉の内容だけでなく、
その関わり合いにに、反応しあっていた暮らしがあった。
コトバ・しぐさが、互いの仲間意識、内と外を、分けてゆく。

TVは、反応を要求されない映像のメディア。
文字のように想像が広がる余地もなく、
ラジオのように、身体を包み込み、揺り動かす音だけよりは冷静だ。
電話の声のように身体の中から響くのでもない。
TVゲームは、反応を要求されるメディアだが、
ゲームはプログラムされ、答えがの範囲が決まっている世界。

メディアの発展に従って、
人の内・外の境界の出来方、在り方がかわってきた。
場から、関心へ、
時間をずらせば、過去とも明日とも、メディア空間は維持できる。

さて、TV電話は、どうでしょう。

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