鹿児島の父より電話が入ったので、何かと思ったら、
「テレビで高峯秀子と笠置シヅ子の映画『銀座カンカン娘』を観ていたら志ん生が出てきた。録画したのでダビングして送ろうか?」
と言う。
父は、わたしが、五代目古今亭志ん生の録音をよく聴いていたことを憶えていたのだ。
(志ん生を聞き始めたのは、宇野功芳先生のご著書「名曲とともに」に落語のコーナーがあったことがきっかけ)
そんな他愛のない用件で、80を過ぎた親爺が50を過ぎた息子に電話をかける、というのも滑稽だが、なんとも有り難いことである。
わたしはわたしで、早く動く志ん生が観たくなって、動画を検索したところ、某サイトにて発見。
十八番の「替り目」を演じている場面が切り取られていた。
この映画、1949年(昭和24年)封切りというから戦後4年目。
志ん生が命からがら満州から引き上げてから僅か2年後、59歳の姿が拝めるということになる。
後年に比べずいぶん痩せているが、話す声や仕草だけで可笑しいという芸は流石。
ありがたや、ありがたや。
ちなみに、志ん生が脳溢血で倒れたのはこの12年後、1961年(昭和36年)の巨人軍の優勝祝賀会にてのこと。
志ん生の噺に選手たちがまったく耳を傾けず、飲んで騒いでいるという状況の中、頭に血が上ってしまい、倒れてしまったのだ。
このエピソードを結城昌治の「志ん生一代」で読んで知ったのは音大生時代であったが、そのとき、わが巨人嫌いに益々拍車のかかったのは述べるまでもない。
まあ、本当をいうと、選手たちに罪ははない。
落語に興味もない人々の集う宴席に、気を利かせたつもりで、志ん生を呼んだ贔屓の人物がよろしくなかったのだろう。