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【2015年4月6日追記】
BS日テレ4月9日(木)19:52からの「片岡愛之助の解明!歴史捜査」は『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫)の内容に沿って制作されていますが、番組スタッフの取材で判明した新事実もあります。
そのひとつが愛宕百韻。愛宕神社に奉納された愛宕百韻の原本は江戸時代の火災によって焼失したとされてきましたが、愛宕神社の神職にインタビューしたところ、原本は秀吉が没収したとのことです。火災で焼失したのは写本だったそうです。
これによって、秀吉の愛宕百韻改ざんはさらに裏付けが強化されました。
>>> 片岡愛之助BS日テレ「解明!歴史捜査」放送開始
>>> 「光秀の暗号」愛宕百韻は完全解読されている
【2012年1月15日初稿、2014年5月29日追記】
前回は本ブログの「愛宕百韻シリーズ」で解読した結果を裏付ける証拠が『信長公記』にあることを書きました。
★ 愛宕百韻の解読捜査(追記前編):新証拠出現!!
その内容、つまり金子拓氏が「信長学起動」というサイトに書いている 「愛宕百韻」と『信長記』から肝心の部分を要約して以下に示します。
太田牛一の自筆の『信長公記』本として池田本と建勲(たけいさお)神社本がある。後者に書かれている愛宕百韻の発句、脇句、第三はよく知られている下記の通説通りのものであるが、前者はこれと赤字の部分が異なる。
発句 ときハ今あめがした知る五月哉 光秀
脇句 水上まさる庭のまつ山 西坊
第三 花落る流れの末を関とめて 紹巴
前者の発句は「しる」ではなく「なる」、脇句は「まつ」ではなく「なつ」、第三は「流れの末」ではなく「池のなかれ」となっている。しかも、初めは後者と同じ句が書かれていたものを牛一自身の手で擦り消して書き直されている。
これが何を意味するかというと、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた通り、牛一は『惟任退治記』の著者大村由己を通じて秀吉が改ざんした句を教えられて『信長公記』の原稿を何冊も書いていた。池田本も建勲神社本もこうして同じ句が書かれました。ところが、その後、本当の句を知り、その時点で手元にあった原稿を擦り消して書き直した。それが池田本として伝わった、ということになります。
私の愛宕百韻解読の前提とした京都大学附属図書館所蔵の愛宕百韻写本の句はこの池田本と同じ句です。そして解読結果は次のようなものでした。
発句 土岐氏は今雨に叩かれているような危機にある五月である。(6月には危機から脱したい。そして挙句の通りに平和・安寧の世にしたい)
脇句 危機にあるなんてとんでもない。光秀様は土岐氏の先祖よりはるかに勢力をもって栄えています。
第三 守護職を失った土岐池田氏に成り代わって土岐氏本流をお継ぎになればよい。
通説の句ではこのように発句・脇句・第三・挙句から一貫した意味を読み取ることはできません。事実を書き残したいという牛一の誠意が私の愛宕百韻真贋判定及び解読の結果を裏付けることになりました。
さて、秀吉は発句を光秀の天下取りの野望があったことの証拠とするために改ざんしました。それでは脇句、第三の改ざんの狙いは何でしょうか。
おそらく、発句を「なる」と直しても脇句・第三までの意味が通らないように用心深く改ざんしたのではないでしょうか。特に、「池」という土岐池田氏を意味するキーワードを消したかったのではないかと思います。
なお、金子拓氏の文を読んで気付かれると思いますが、金子氏は愛宕百韻の通説の元本として『惟任退治記』の存在を全く見逃しています。これは金子氏に限ったことではなく本能寺の変研究界に共通することです。秀吉の書かせた『惟任退治記』に怨恨説・野望説の大本が書かれているという事実を見逃しているのは本能寺の変研究界の謎といってよいでしょう。
★ 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/new_color.gif)
(実は金子拓氏が『惟任退治記』の稿注を行いました。さて、どのような注釈を書いたでしょうか?)
【愛宕百韻シリーズ】
愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
愛宕百韻の解読捜査(土岐氏の流れ)
愛宕百韻の解読捜査(完全解読の意義)
愛宕百韻の解読捜査(遂に完全解読!!)
【金子拓氏の著書】
【愛宕百韻完全解読を書いた新刊(2013年12月発売)】
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」15万部突破
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4
【信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤うシリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
BS日テレ4月9日(木)19:52からの「片岡愛之助の解明!歴史捜査」は『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫)の内容に沿って制作されていますが、番組スタッフの取材で判明した新事実もあります。
そのひとつが愛宕百韻。愛宕神社に奉納された愛宕百韻の原本は江戸時代の火災によって焼失したとされてきましたが、愛宕神社の神職にインタビューしたところ、原本は秀吉が没収したとのことです。火災で焼失したのは写本だったそうです。
これによって、秀吉の愛宕百韻改ざんはさらに裏付けが強化されました。
>>> 片岡愛之助BS日テレ「解明!歴史捜査」放送開始
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【2012年1月15日初稿、2014年5月29日追記】
前回は本ブログの「愛宕百韻シリーズ」で解読した結果を裏付ける証拠が『信長公記』にあることを書きました。
★ 愛宕百韻の解読捜査(追記前編):新証拠出現!!
その内容、つまり金子拓氏が「信長学起動」というサイトに書いている 「愛宕百韻」と『信長記』から肝心の部分を要約して以下に示します。
太田牛一の自筆の『信長公記』本として池田本と建勲(たけいさお)神社本がある。後者に書かれている愛宕百韻の発句、脇句、第三はよく知られている下記の通説通りのものであるが、前者はこれと赤字の部分が異なる。
発句 ときハ今あめがした知る五月哉 光秀
脇句 水上まさる庭のまつ山 西坊
第三 花落る流れの末を関とめて 紹巴
前者の発句は「しる」ではなく「なる」、脇句は「まつ」ではなく「なつ」、第三は「流れの末」ではなく「池のなかれ」となっている。しかも、初めは後者と同じ句が書かれていたものを牛一自身の手で擦り消して書き直されている。
これが何を意味するかというと、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた通り、牛一は『惟任退治記』の著者大村由己を通じて秀吉が改ざんした句を教えられて『信長公記』の原稿を何冊も書いていた。池田本も建勲神社本もこうして同じ句が書かれました。ところが、その後、本当の句を知り、その時点で手元にあった原稿を擦り消して書き直した。それが池田本として伝わった、ということになります。
私の愛宕百韻解読の前提とした京都大学附属図書館所蔵の愛宕百韻写本の句はこの池田本と同じ句です。そして解読結果は次のようなものでした。
発句 土岐氏は今雨に叩かれているような危機にある五月である。(6月には危機から脱したい。そして挙句の通りに平和・安寧の世にしたい)
脇句 危機にあるなんてとんでもない。光秀様は土岐氏の先祖よりはるかに勢力をもって栄えています。
第三 守護職を失った土岐池田氏に成り代わって土岐氏本流をお継ぎになればよい。
通説の句ではこのように発句・脇句・第三・挙句から一貫した意味を読み取ることはできません。事実を書き残したいという牛一の誠意が私の愛宕百韻真贋判定及び解読の結果を裏付けることになりました。
さて、秀吉は発句を光秀の天下取りの野望があったことの証拠とするために改ざんしました。それでは脇句、第三の改ざんの狙いは何でしょうか。
おそらく、発句を「なる」と直しても脇句・第三までの意味が通らないように用心深く改ざんしたのではないでしょうか。特に、「池」という土岐池田氏を意味するキーワードを消したかったのではないかと思います。
なお、金子拓氏の文を読んで気付かれると思いますが、金子氏は愛宕百韻の通説の元本として『惟任退治記』の存在を全く見逃しています。これは金子氏に限ったことではなく本能寺の変研究界に共通することです。秀吉の書かせた『惟任退治記』に怨恨説・野望説の大本が書かれているという事実を見逃しているのは本能寺の変研究界の謎といってよいでしょう。
★ 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
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(実は金子拓氏が『惟任退治記』の稿注を行いました。さて、どのような注釈を書いたでしょうか?)
【愛宕百韻シリーズ】
愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
愛宕百韻の解読捜査(土岐氏の流れ)
愛宕百韻の解読捜査(完全解読の意義)
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【金子拓氏の著書】
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【愛宕百韻完全解読を書いた新刊(2013年12月発売)】
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定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
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定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
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定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4
【信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤うシリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
疑問する面があります。
連歌師の里村紹巴が秀吉に追訴され、その連座の責任を
とらされる、そんな状況を憂慮して、彼自らが弁明して、もと
は”なる”であったが、心悪しき者に仕業により、”しる”と
改ざんされたと偽りの主張して、言い逃れたという一件があったとのことですが、
この一件が事実ならば、元々は”しる”であったということになり、また、信長公記に関して、
1610年過ぎ以降に牛一自身が備前の池田藩主輝政に贈呈したかの池田本が”かな”や”池のながれ”等のものとして
ある訳は、その池田家が織田家信長の父の代よりの重臣
であり、また信長とはほぼ同年の乳兄弟で有力家臣・池田
恒興という大変忠孝な方を父としており、その頃、信長一代記に関わる唯一ゆかり深いご人であったゆえ、その家臣同胞として、怨恨だの野望謀叛だのといった差しさわりのない
ものとして、贈呈されたのでないでしょうか。
異論を差し挟むようで申し訳ありませんが、参考までに
私論を述ベさせて頂きました。
中学(京都)の行事で、紅葉の時期に愛宕登山があり、愛宕神社がゴールでした。
当時分校が出来る前のマンモス校で、40人×15クラス×3学年で男女別、学年別で順位がつきました。
その頃は御先祖様が連歌を催されたことも、桂辺りから本能寺を目指されたことも全く知りませんでした。
ただでもきつい愛宕山登山を競争で登るとは恐ろしいことですね。さぞ、きつかったことと思います。それとも大人より体の軽い中学生の方が楽に登れるのでしょうか。昔の人も愛宕神社に気軽に詣でていたようです。
2年前、五合目で雷雨にあって引き返したのですが、それでもきつかった。今年6月15日に再挑戦します。
私などはずっと歩いて登っていましたが、運動部さんは嵯峨の釈迦堂を出発する辺りは走ってました。
愛宕神社でお弁当を食べて下山していたのでしょうか。
半日の行事だったと思います。