本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

『本能寺の変 四二七年目の真実』出版のお知らせ

2010年08月24日 | このブログのガイド
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『本能寺の変 四二七年目の真実』出版のお知らせ

 四百二十七年間解けなかった本能寺の変の謎が遂に明らかになりました。

 私は明智光秀の子孫としての意識から、本能寺の変の真相には人一倍強い関心を抱いてきました。二十歳の頃に、「怨恨説」(信長が光秀に辛く当ったので、光秀が信長を怨んで殺したという説)は江戸時代に出版された軍記物という物語の作り話に過ぎないということを知りました。それでは、本当の動機はいったい何なのか。いずれ歴史研究がその真実を明らかにしてくれるに違いない。と、それ以来、その日が来るのをずっと待ち続けておりました。

 ところが、それからいつの間にか四十年。誰も真相を明らかにはしてくれませんでした。それどころか、未来永劫、真実は明らかにならないという失望感にとらわれるようになりました。それはなぜかというと、歴史研究の姿勢に決定的な誤りがあると思わざるをえなかったからです。
 ひとつには、相変わらず軍記物という「物語」に書かれている話を史実の如くに扱っていることです。二つ目は、謀反の原因を光秀の個人的な感情に求めようとしていることです。そこには信長政権の主要閣僚であり、近江・丹波の領主であり、土岐明智(ときあけち)氏の氏族長でもあるという「公人としての光秀」という視点が欠落しています。三つ目は、余りにも少ない史実から論理的な裏付けも乏しいまま、結論だけを安易に作ってしまっていることです。

 この状況に失望した私は、私自身、自らが真相を解明せざるをえないと決意しました。そこで、本能寺の変の当時に書かれた信憑性ある史料だけを選び出して、それらを丹念に読んで証拠を探し、そこから真実を論理的に解明していきました。科学的な犯罪捜査と同じ手法であることから、私はこれを「歴史捜査」と名付けています。
 その結果、通説・俗説・新説のいずれとも異なる真相を解明するに至りました。本能寺の変の謎とされている全ての事柄について、裏付けのとれた論理的な答を見出し、しかも全体のストーリーの細部にまで辻褄が合ったのです。

 こうしてたどりついた真実。これを世の中に広めて、これまでの誤った歴史を書き変えることが子孫としての私の使命だと思い立ちました。四百年にも渡って、世の中の隅々にまで浸透してしまった通説を覆すのは容易なことではありません。そこで、私はどなたにでも納得していただけるように、かつ興味を持って読んでいただけるように「歴史推理ドキュメト」という形の本にまとめ上げて、世の中に広くご理解を得ることにしました。そして、執筆を始めて三年。ようやく出版に至った次第です。
 これまでの通説にとらわれることなく、虚心坦懐に読んでいただければ幸いです。そして、誤った歴史を書き変えるという、おそらく「叶わぬ夢」かとは思いますが、これからの活動にご支援をいただければと思います。

       平成二十一年三月 明智憲三郎

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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7 コメント

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初心忘れるべからず (明智憲三郎)
2010-08-24 17:34:14
 本当は本ブログの最初に掲載すべき記事でしたが、昨年三月の出版の際の思いを綴った文章を掲載しました。当時自分で配って回ったビラの裏面に書いた文章です。東戸塚、戸塚、緑園都市の周辺で1万枚ぐらい配りましたが読んでくださった方はどれぐらいいらっしゃたでしょう。
 初心忘れるべからずと思いを新にしました。
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ロングセラー (フロイス・2)
2010-08-25 01:10:21
御著書も今は7刷目くらいでしょうか? 先日も書店で平積みになっているのを見かけました。 一過性のベストセラーとは異なる、ロングセラーとして、着実に賛同者のベースを拡張しつつあると拝見しています。 僕自身も、戦国史により大きな関心を持つようになりましたし、わけても以前はむしろ印象が薄かった光秀に対して、好感と親しみを感じるようになりました。 光秀関係の記事や書籍にも目を通す機会が増えてきています。

ところで、先日「ざわめく竹の森」(伊東眞夏; 文芸社 2008)という本を読みました。 光秀最期の1ヶ月を描いた歴史小説(と言っていいと思います)ですが、これにちょっと気になる人物が出てきましたので、あるいは「歴史捜査」の捜査線上に浮かんだかもしれないなどと思いお聞きする次第です。 勧修寺タダ豊(「タダ」の文字変換が出来ないのですが「伊」から「ニンベン」をとったものです。 以下タダトヨと書きます。)、または詔可上人という人物です。 小栗栖の近くの「勧修寺」という寺の僧侶なのですが、元は公家で長く武家と天皇家の折衝を担当してきて、その相手は主に毛利氏だったということです。 また、たぶんその孫の晴豊だと思いますが、本能寺の変の前日、本能寺で信長からその都市の暦の変更の要請を受けたと、これはネットで見つけました。 簡単に言うと、伊東氏は光秀は謀殺されたとされ、その真相をタダトヨにおびき出され待ち伏せていた刺客に討たれた、とされています(具体的ないきさつは省きます)。 この他にも伊東氏はいくつか独自の説と思えるものを書かれていますが、なにぶんにも小説であるため、それらの根拠や資料については知るべくもありません。

僕が感じたことは、「光秀の敗走とその死」に関して、タダトヨ、あるいは勧修寺の周辺に何がしかの資料や情報を見出せないだろうか?、ということです。 この人物は毛利氏との折衝に携わっていた、毛利氏と言えば安国寺、秀吉、藤考…、と、1つのラインが見えるような気もしているのですが。

では、これからも「歴史捜査」の進展を楽しみにしています。 秀次や利休まで、「証人」、「参考人」、「容疑者」なども多彩な顔ぶれとなってきましたが、遠からず戦国史にまた1つ新たな光が当たることを期待しています。
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広がりが楽しみです (明智憲三郎)
2010-08-28 07:15:41
 フロイス・2様との接点の広がりは私も大変楽しんでおります。先日の吉祥寺での講演会へのご出席もありがとうございました。フロイス・2様からの刺激はとても励みになっております。
 「ざわめく竹の森」のお話も大変興味深く読ませていただきました。いろいろな観点で歴史を掘り返していくことで何か出てくる可能性が広がっていると思います。
 その中から真偽を見分けていくことが、私のひとつの役割のような気もしております。「ロマンより真実が面白い」という精神でこれからも真実を探求し続けたいと思います。
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Unknown (名無し)
2010-10-12 21:00:10
始めてコメントをします。
すでにご存知かもしれませんが、
本能寺の変について取り上げた書籍が
出版されたのでご報告します。

藤本正行『本能寺の変-信長の油断・光秀の殺意-』(洋泉社、2010年発行)
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まず拙著をお読みください! (明智憲三郎)
2010-10-15 23:16:39
 早速読ませていただきましたが、まず拙著をお読みいただいてから云々していただくべきと思いました。
 著者の藤本氏は実証的な著述で評価の高い方で、私も評価していた方ですが、何か出版を急がねばならない事情があったのでしょうか。前作までの姿勢を自ら否定するような残念な結果になってしまいました。出版社の編集者にお任せだったのでしょうか。にわかには信じられない論説です。
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ラジオで (HappyQ)
2010-10-21 20:25:47
今日、ラジオで貴殿のことを知りました。
聞いているうちにどんどん引き込まれて行きました。
5月24日か5月28日か?を証明するために、天気の記録を調べるなど、まさに「捜査」そのものです。
織田家当主と400年の時を経て会談するなど、歴史好きの人間にはたまらない出来ごとです。
御本を買って読みます。
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誠にありがとうございます (明智憲三郎)
2010-10-22 21:19:38
 拙著お読みいただけるとのこと、誠にありがとうございます。
 実は拙著出版を契機に先祖同士つながりのある方々とのお付き合いが始まっています。先日は徳川家の宗家とお会いしました。光秀の家臣だった斎藤利三や明智秀満の子孫の方々からもご連絡をいただきました。光秀子孫と伝わる方々の情報も集まってきています。
 いずれ「明智光秀ゆかりの会」でも立ち上げようかと思います。四百年間苦節に耐えた子孫の思いには互いに共感するものがあろうかと。
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