本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)

2010年07月10日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 軍記物によって広まった「神君伊賀越え」の通説は、徳川家康が堺から命からがら三河まで逃げ帰ったこと、同行していた穴山梅雪が一揆によって殺されたこと、そして家康が光秀に対して敵対行動に出たことでした。これを史実として定説にしたのが高柳光寿氏の名著中の名著とされる『明智光秀』でした。
 しかし、その根拠は実に脆弱なものです。前回は「穴山梅雪が一揆に殺された」という定説の根拠を斬りました。
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」

 今回は三河に逃げ帰った家康が「光秀に対して敵対行動に出た」という定説を斬ります。
 まず、高柳氏の記述を再度確認してみましょう。
 「家康は六月四日岡崎に帰ると居城浜松には赴かないで、翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た。けれども、彼はそれよりも甲斐・信濃の経営を主としたのであって、十四日には自分で兵を率いて尾張の鳴海(名古屋市緑区)まで到るという有様であったが、その行動は緩慢であり、十九日になって、秀吉から光秀の滅亡を通知し帰陣するようにいって来たので、二十一日には兵をかえしたのであった(『家忠日記』『当代記』『三河物語』『寛永諸家系図伝』『古今消息集』『深沢文書』『一蓮寺文書』『吉村文書』『高木文書』)」

 上記の文章中の十四日、十九日、二十一日の記載内容は高柳氏が参考史料の一番目にあげた『家忠日記』に書かれている通りであり、『家忠日記』の信憑性の高さからみて史実といえます。ところが肝心の「翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」という記載はどうでしょうか。高柳氏の書き方をみると、これも『家忠日記』に書かれているように思えます。ところが、『家忠日記』には次のように書かれています(要約しました)。
 五日 岡崎城へ出仕したら早々に出陣の用意をしろとのことで居城の深溝(ふこうず)へ帰った。
 六日 一日待機。八日に東三河の軍勢が岡崎に来るので知らせを待てとの指示があった。
 九日 出陣はしばらく延期との知らせがあった。
 十日 十二日に出陣との知らせがあった。
 十一日 出陣は十四日まで延期との知らせがあった。

(業務日誌のように正確な記録を残した家忠が日記に書き込んだ絵をご紹介します。土木担当のエンジニアらしい生真面目な文章と遊び心に富んだ挿絵の取り合わせがとても面白い日記です。私の尊敬する人物ですが、残念ながら関が原の合戦に先立つ伏見城の戦いで戦死しています)





 これを読むと、五日には出陣準備の命令が出ています。これをもって「すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と言えるのでしょうか? むしろ「待機して敵対行動には出なかった」というべきではないでしょうか。
 実は家忠の日記を読んでも、どこにも出陣の目的が「光秀討ち」にあるとは書かれていません。それどころか日記を詳細に読むとむしろ「光秀救援」の行動と考えられます。そのことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたとおりですので説明は省略しますが、高柳氏が通説を頭から信じ込んで『家忠日記』を読んでいたことは確かです。それが『家忠日記』には書かれていない「翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」という言葉になってしまったのです。
 ★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』あらすじ

 そして家康の行動を「光秀討ち」ととらえたために、あの安土城放火犯を迷宮入りにさせてしまうことにつながったのです。
 ★ 定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」

 「歴史捜査」を行うとこのような例が実にたくさんみつかります。信憑性の高い史料に書かれていることでも通説・定説に合わない記述は見逃されているのです。研究者がふるいにかけて捨ててしまっているのです。
 次回は「神君伊賀越え」が命からがらの極めて困難なものだったという定説の根拠を斬ってみます。
 >>>続く

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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穴山梅雪が殺害されたときすぐ近くに居た人の書付 (ファン)
2020-06-12 19:39:36
以前買った著書を読み返して、いまも改めて感服しております。
信長が家康を粛清しようとしていた?、という説のところがもう少し詳しく知りたいところです。
それに関連して以下URLがひっかかりました。
http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/yamaguchi.html
伊賀越えのときに、家康が木津川を渡ったとき(舟)、その渡河を手伝った人(の子)の書付がリアルなので興味深いです。
私としては興味の対象は、梅雪を家康の指示で殺害したかどうかです。(以下、私訳)

新主膳(書付は後年この息子が書く)と市野辺の2人が馬に乗り、渡し場の五丁ほど下にて人夫六、七十人を集めたのち、渡し場の川岸に東から到着した。
家康は堤防のかげを通って行ったので会えなかったが、渡し場では大将(酒井忠次)一人が残りの人数を渡河させるべく指示しているところだった。
そこへ2人が「山口城の組下の者、恐れながらお迎えに参った」と申したところ、酒井忠次は大喜びした。「(酒井忠次殿)、早くお通りになって、そのあと小者らは(私らが)川越えさせておきます。急いで家康公の所へお急ぎ下さい。一人たりとも犠牲にはしません」と申したところ「(酒井忠次は)その儀に頼み入ります」と言って馬に乗って後を追っていった。
さて、2人は渡し場の西側に渡河して、後に残っていた小者や中間を残らず川越えさせたあと、ここ(渡し場西側?)へ戻ったときに、穴山梅雪一行は渡し場の西方の表にて、一揆の野伏どもに襲われていたのであった。
2人は城に帰り、城主の山口に上記のことを報告し、働きぶりを誉めてもらった。
さてまた「家康公がお休みになっている間、大手門は固く閉めて一人も入れるな」と申されて、門を堅めているところに、渡し場でお目にかかった侍が出てきて、
「このたびはご両人の働きのおかげでうちの者は一人も失うことなく着くことができた。拙者は酒井忠次と申す。さてお二人に頼みたいことがあるのだが・・お供の若いとはいえない馬が一匹いるだけなので、辺境の道で険しいので、然るべき馬がいれば替えさせていただけませんか」と申すので、もっともなことなので、すなわち家中の永沢三蔵と申す者の馬が申し分ないので、替えさせますと返答した。
家康様は宇治田原お御通りは天正十壬午年六月三日の午前10時ごろ、山口城にて食事を召され、正午には門を出て、信楽を通っていかれた。
そのとき私は7才で、神君伊賀越えの様子は定かに覚えておらず、親の主膳がかくのごとし申し伝えたことを、今回(主君の)お尋ねのため、書き付けにて差し上げ候。以上
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