本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その1

2010年07月27日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 前回の「定説の根拠を斬る!」シリーズで「今回がこのシリーズの最終回」と書いてしまいました。
 ★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」

 大事なことを忘れていました。そもそも、このシリーズを始めたきっかけが光秀の山崎の合戦での敗北後の行動とその死についての定説がおかしい!ということだったのです。その話を整理して書かずして、このシリーズを閉じるわけにはいかなかったのです。
 全ての端緒はこの5月に東京国立博物館で開催されていた「細川家の至宝展」にありました。息子と一緒に行動することは珍しいのですが、この日は二人で行ってきました。そこで見たのが細川藤孝が織田信長から与えられた京都山城の領地の当時の地図です。
 そこでひらめいたのが、光秀が秀吉と戦った山崎の合戦の現場も光秀が逃げ込んだ勝龍寺城も坂本までの逃走経路も全て藤孝の領地!!!!
 これもご先祖光秀公のお導きだったのでしょうか。脳みそに稲妻が走りました!
 ということは、光秀は土民に殺されたのではなく、細川家の正規軍に殺されたのではないかという疑問です。これをブログのコメントに書いたところ、ブログの読者のフロイス・2さん、不知火亮さん、k.ののさんから立て続けに素晴らしい情報をいただきました。下記のページのコメント欄をご覧ください。

 ★ 細川家の至宝展でひらめきました

 それまでは、自分ひとりで推理をめぐらしていたのですが、なんと支援者の方々が一緒になって考えてくださっている!! これはとてつもなく感激です!! これが「定説の根拠を斬る!」シリーズを始めるきっかけとなりました。

 ですから、何としてもこの定説については斬っておかねばなりません。多分、長いお話になると思いますので今回は「その1」といたしました。これから「歴史捜査」を行います。私にも現時点では真実が見えていません。でも乞う、ご期待!全く違う真実が見えてくるような予感がします。

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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6 コメント

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私にとっても (不知火亮)
2010-07-28 04:39:59
まさに脳天に稲妻です。
本能寺の変と同じく、この山崎合戦から敗走に関しても謎が多すぎるように思います。
それは、明智先生が斬っておられる、中国大返し、安土城焼失、神君伊賀越え等、全てが連動したものなのかもしれません。
それらが全て一本の糸で結ばれた時、本当に腑に落ちる瞬間が迎えられるのかもしれないですね。
以前のコメント欄に書かせて頂きましたが、やはりこの勝龍寺城からの敗走はあまりにも不自然な点が多すぎるように思います。
この一連の定説は、書物等を読むと「ふむふむ、なるほど」とさらっと流してしまいがちになるのですが、現地で距離間や空間を体験してみると、「御坊塚本陣から勝龍寺城に篭った光秀、光秀を勝龍寺城から逃がしてしまった秀吉、どちらもどうなってるの?」とクエスチョンだらけです。
現在の定説の元を作っている史料が完全では無いために、様々な疑問を残しているのだと思うのですが、その史料の不完全さは「記憶違いや誇張」程度のものなのか「事実とは全く異なる改竄」が行われているのかで、我々が学んできた歴史は大きく変わってしまいますね。
この「不自然だらけの光秀敗走」、私もじっくり考えながら拝見させて頂きます。
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期待しています (フロイス・2)
2010-07-31 01:24:51
明智様、たぶん光秀公のお導きでとてつもない真相に肉薄されているのでは、と感じています。 「本能寺の変」の翌日に藤考は断髪しているようですが、考えてみるとこれも異常な素早さと言えるのではないでしょうか。 藤考のこの行動は、光秀からの援軍要請を拒む「中立宣言」の強い意思表示と考えられているようです。 これは支援を期待していた光秀にとっては大変なショックだったでしょうが、同時に「中立」であれば「仮想敵」のリストからは当然外れるわけです。 山崎を合戦の地に選んだのは光秀だと言われています。 その理由は、山と川に挟まれたような地形で、秀吉の大軍が動くにくいからだとされていますが、こういう地形で後方から攻められたらお手上げのはずです。 逆に言うと、光秀は後方を警戒する必要は感じていなかったのでしょう。 自軍の劣勢は認識していたはずですから、「退路」についても考えはあったはずだと思います。 歴戦の武将であれば当然のことでしょう。 その点に関しては秀吉も、そして藤考も同様であったはずです。

御著書の200ページに、「惟任退治記」が藤考の貢献を「図らずも」述べているという記述があります。 具体的には、「光秀の陰謀に組せず、秀吉と心を合わせ、飛脚を飛ばして情報を伝えてくれたこと」を秀吉が賞賛しているわけですが、本当に「図らずも」なのでしょうか? ひょっとすると「比類なき御覚悟」にはそれ以上の事が含まれていることを隠すための、秀吉一流の情報操作かもしれません。

いずれにしてもこの件に関する歴史捜査にも大いに期待しています。
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調べてきました (明智憲三郎)
2010-07-31 22:43:59
 本日国会図書館へ行って不足していた史料を入手してきました。その経緯は本ブログの「本能寺の変:久しぶりに国会図書館へ」に書きましたのでご高覧いただけると幸いです。
 材料が揃いましたので、明日から自信をもって斬りにかかりますので、ご期待ください。
返信する
土民じゃなくて、飯田一党? (近江商人門坂子孫)
2011-11-26 20:28:19
今年の夏、2回明智光秀最期の地と言う場所へ行きましたけど、そこまで行く道のりはあまり怖い気持ちは有りませんでした。京都ライオンズクラブって書いてある石碑の場所は、何か怖い気持ちになりました。
土民に襲撃されたのでは無くて、織田信長の近習
飯田一党に襲撃されたと書いてました。
飯田一党って?明智様ご存じですか?
そこの土地に昔からいらっしゃった飯田さん。
近くの神社は飯田さんと関係有るらしいです。
 僕がその石碑の有る場所よりもっと気になったのは、そこから先が地道の下り坂になってて進んで行くとなんとも言えない気持ち悪い竹藪が有りました。水がチョロチョロ流れてて、そこら辺でも写真を撮影しまくりました。後で調べると、元々の明智藪と言われている場所だと言う事が分かりました。昔の写真資料に有る写真の場所です。
 明智様は、ここ行かれた事有りますか?
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400年後の現場検証の価値は? (明智憲三郎)
2011-11-27 12:14:35
 飯田一党の件を書いた石碑のことは聞いたことがあります。その根拠史料を是非調べてみたいと思います。
 私の歴史捜査は当時書かれた史料から真実を復元するもので、「400年後の現場検証」にはあまり価値を感じておりませんでした。当然、景観は様変わりしています。むしろ、通説に合わせた改ざんが行われていて、それに騙される危険もあります。
 ただ、そのことを理解したうえで、一度行ってみたいとは思います。
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価値は無いかも?でも! (近江商人門坂子孫)
2011-11-28 13:34:30
確かに、通説で、それが真実でないなら、価値はないでしょうけど、景観も当時とはずいぶん違うでしょう。
 でも、僕は、なるべく時間が有れば、現地に足を運んでいます。道とか景色は違うけど、山の形とかはあまり変化ないでしょうから、しかも何かを感じる気がしませんか!?コメント返信有り難うございました!
 あっそうそう、織田信長の近習の後に武士集団と言うのが書き込み抜けてました!
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