本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)

2011年05月15日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 連載してきた藤本正行氏・鈴木眞哉氏の拙著批判への反論も今回が6回目です。前回は両氏の唱える説の正体が歴史学界のメジャーを占める高柳説(高柳光寿氏が50年ほど前に『明智光秀』に書いた説)の追認であることを書きました。今回はその説の中味をばっさりと斬ってみます。
【これまでの連載記事】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う

 前回ご紹介したように両氏の説は以下の説から成り立っています。両氏共著の『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』と高柳氏の『明智光秀』を見比べながら、ひとつずつその論拠の脆弱さを解説していきます。

【光秀前半生】
朝倉仕官説
 「光秀は織田信長・足利義昭に仕える前は朝倉義景に仕えていた」とする説です。
 この説は高柳氏が著書の中で「確証はないが、或いはそれは事実であったかも知れないと思われないではない」という微妙な言い回しで肯定したために歴史学界で定説になってしまった説です。高柳氏は『明智軍記』と『細川家記』(綿考輯録)が同じことを書いていることを根拠にしていますが、この『明智軍記』について高柳氏は同じ著書の中で次のように言い切っています。
 「この『明智軍記』は誤謬充満の悪書であるから、以下光秀の経歴を述べるところでは引用しないことを断っておく
 ご自身が全面否定した書物に書かれていることを採用することはダブルスタンダード(二重基準)として研究姿勢を問われることですが、さらに問題があります。『細川家記』を読むとこの書物が『明智軍記』を参考にして書いたと明記されているのです。つまり、「朝倉仕官説」は本能寺の変から百年以上たって書かれた悪書『明智軍記』そのものが生み出したのです。その五十年後に書かれた『細川家記』が都合よく使ったのです。
 このことを高柳氏が見落とすはずはありません。素人の私でも『細川家記』を普通に読めばわかることですので、読者に対して都合よく情報隠蔽したといわれても反論できないと思います。
 高柳氏の「朝倉仕官説」については既にこのブログで詳しく書きましたので下記のページをご参照ください。
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」

 藤本氏は著書『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』で「朝倉仕官説」を確定事項として書いていますが、根拠として引用しているのは『細川家記』のみで『明智軍記』は書いていません。おそらく高柳氏の説明のままだと『明智軍記』に依拠した説であることが丸見えになってしまうので『細川家記』のみに絞ったのではないでしょうか。

信長・義昭両属説
 「朝倉義景の後は信長と義昭の両方に同時に仕えていた」とする説です。
 この説は高柳氏が著書の中で次のように言い切ったために歴史学界の定説となった説です。
 「義昭が美濃へ移った当時、光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい
 しかし、この根拠も『明智軍記』と『細川家記』が同じように書いていることにあります。つまり『明智軍記』に依拠したものなのです。藤本氏の著書における書き方は「朝倉仕官説」と全く同様です。

【光秀謀反の動機】
怨恨&野望説
 「信長を恨む気持ちと天下を取りたい気持ちから謀反を起こした」とする説です。
 高柳氏が著書で「怨恨説」を否定して主張したのが「野望説」。これを契機に歴史学界では「怨恨説」対「野望説」の論争が長らく続きました。その中和をとったのが藤本・鈴木両氏の共著の説です。
 このように武将を私人としてみて謀反の動機を考えることに大いに疑問を抱きます。そのことは既に下記のページに書きましたのでご参照ください。 
 ★ 本能寺の変は三面記事?
 ★ 怨恨説を斬る!
 ★ 野望説を斬る! 

 ましてや、この2つの説が何から生じたかのかを考えれば、いかに怪しげな説であるかはわかるはずです。この2つの説を最初に書いたのは羽柴秀吉が家臣に書かせた『惟任退治記』(高柳氏の著書では『秀吉事記』と書かれている)です。このことは下記のページに詳しく書きましたのでご参照ください。
 ★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
 ★ 通説の創作者は秀吉!

 ここで問題としたいのは高柳氏も藤本・鈴木両氏も『惟任退治記』の記事はいろいろ引用しているにもかかわらず、『惟任退治記』が両説の発信源であることに気付いていない(あるいは無視している)ことです。本能寺の変の四ヵ月後、正に織田家から政権を取らんとする秀吉が書かせた宣伝書としての「本能寺の変の顛末書」の文面からもっと丁寧に「秀吉の意図」を読み取るべきです。

 ここまであらためて高柳氏、藤本・鈴木両氏の主張をたどってみて感じるのは、その「武将観」です。戦国の世を生き抜かねばならない厳しい環境にあり、生き残るための策を必死にめぐらしていたであろう武将の姿が全く感じ取れません。「何も考えていない連中」といった感じまでします。それが動機の怨恨&野望説であり、プロセスとしての偶発説につながっているように感じます。

 さて、だいぶ長くなりましたので、謀反のプロセスについては次回斬ることにします。
【謀反プロセス】
単独犯行説
偶発説
神君伊賀越え命からがら説
中国大返し強行軍説

 なお、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』には高柳氏、藤本・鈴木両氏の説に代わる真実を書いていますのでご参照ください。
>>>続き
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)

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