本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変「当日の謎」解きに挑戦しよう!

2015年10月28日 | 427年目からの挑戦
 秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申候
【2015年10月28日追記】
 『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫では下記の2014年4月17日記事のように天正十年六月二日の本能寺の変当日の四つの謎を提示して、謎解きを行いました。
 新刊『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎では本能寺の変から遡ること3カ月間の25件の証言から読者自身に謎を見出していただき、さらに読者自身にその謎を解いていっていただくことにいたしました。実は謎は当日の四件だけではないことに気付かれると思います。ひょっとすると著者とは異なる謎と答の発見があるかもしれません。読者ご自身の推理をお楽しみください。
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』あらすじ
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』読者書評
 >>> 「桶狭間の戦い」信長勝利の方程式が解けた!
 >>> あなたも「本能寺の変」の謎解きに挑戦できる本
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【2014年4月17日記事】
 本能寺の変が勃発したのは今から431年前の天正十年(1582)六月二日。その日の信長と光秀の行動には二つずつ、合計四つの謎があります。
 あなたは、その謎が解けますか?

 拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)の第7章では、その謎を提示し、その後に謎解きを行っています。第7章の「六月二日の未解明の謎」の節を以下に掲載しますので、謎解きに挑戦してみてください。
 なお、『本能寺の変 431年目の真実』のプロローグもこのブログに公開しています。
  >>> プロローグ【問題だらけの本能寺の変の定説】


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 第7章「本能寺の変はこう仕組まれた」

 六月二日の未解明の謎

 本能寺の変の当日、六月二日に起きた出来事で定説では全く説明されていない重要な史実が四つある。定説となっている油断説、偶発説ではこの四つの謎に合理的な説明ができない。定説だけでなく様々に唱えられている黒幕説や冤罪説でも同様である。動機だけでなく、この四つの謎に合理的な説明の付く謀反の実行プロセスが解明されなければ、本能寺の変の全貌が明らかになったとはいえないのだ。

家康・順慶呼び出しの謎 信長はその日、本能寺で何をしようとしていたのか?
 六月二日早朝、徳川家康と重臣合わせて四十人ほどが堺から本能寺へ向かっていた(『茶屋由緒記』)。同じく、大和の武将・筒井順慶も本能寺へ向かっていた(『多聞院日記』)。信長は彼らを本能寺へ呼びだして何をするつもりだったのだろうか。
 信長は大量の茶道具を安土から持ってきていた(『完訳フロイス日本史』)。とすると、信長は家康歓待の茶会を本能寺でするつもりで関係者を呼び集めていたのかもしれない。光秀も招待されて茶会の計画を知り、油断ありと判断して謀反に及んだとも考えられる。
 茶会には本能寺近くの妙覚寺に宿泊していた織田信忠も接待役として当然呼ばれていたであろう。だとすると、光秀は信忠・家康が来るのを待って、信長だけでなく信忠・家康も一緒に討ちとるべきだった。なぜそうしなかったのだろうか。
織田信忠見落としの謎 光秀はなぜ信忠を見落としていたのか?
 織田信忠は信長の命令で家康一行に同行していたが、堺へ行く予定を変更して五月二十九日に上洛し妙覚寺に宿泊していた。六月二日、信忠は本能寺が襲われたことを知って二条御所へ移り、そこに立て籠もった。光秀は信忠が二条御所に立て籠もるまで気付かず、信長を本能寺で討った後にやおら二条御所を包囲した(『信長公記』)。
 光秀が本能寺近くの妙覚寺にいる信忠を見落としていたということは、五月二十九日から六月二日早朝の襲撃まで、光秀は本能寺周辺を全く監視していなかったということだ。絶対に討ちもらしの許されない謀反において、そのような迂闊なことがありえるだろうか。本能寺への信長や家臣の出入りはもちろんのこと、信長の軍勢の京都への出入りも監視しなければならなかったはずだ。
 信忠を同時に討たなかったのは何かの手違いといった偶然で片付けようとする研究者が例によっているが、そのような迂闊な軍事行動があり得るだろうか。光秀はフロイスが「才略、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受け、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と評した人物だ。そのような幼稚なミスを犯すとはとても考えられない。
安土城進軍の謎 光秀はなぜ安土城に迷わず進軍したのか?
 信長は六月四日に西国に出陣すると公家衆に語っていた(『日々記』)。とすると、安土城には出陣準備を整えた織田軍が集結しつつあったはずだ。当然、織田軍は安土城に籠城するか出撃して光秀軍を迎え撃つことができたはずだ。安土城は三方が琵琶湖で囲まれ、唯一陸続きの南面にはもちろん堀があった。籠城して長期戦に持ち込めば織田軍は必ず勝てたであろう。
 ところが六月二日、信長・信忠を討った光秀はその日、迷わずに安土城へと進軍した。安土城の織田軍が籠城せずに退去し、光秀の無血入城を許すという読みがなぜできたのだろうか。
信長の油断の謎 信長はなぜ無警戒で本能寺にいたのか。
 定説では信長は油断したので光秀に討たれたとされている。しかし、フロイスが「戦術にきわめて老練」と評価した信長が初歩的なミスを犯すとは考えられない。何を考えて信長は無警戒のまま本能寺で六月二日を迎えたのであろうか。

 五番目の謎として「本能寺で信長の遺体が見付からなかった謎がある」という指摘があるかもしれないので横道にそれるが解説しておく。この話は加藤廣著『信長の棺』が設定した謎だ。この本がベストセラーとなって世の中に広まったものだが、この本はあくまで小説である。小説家が話を面白くするために創作した謎に過ぎない。
 それを史実と混同して広まった現象は、江戸時代の小説である軍記物の書いた話が世の中に広まり、いつしか歴史学者も認める定説として定着してしまった現実と重なる。ひょっとすると三百年後にはこの謎が定説として定着しているかもしれない。
 この「謎」は実に簡単に解ける。答は「物理現象」だ。
 新聞やテレビで火事の報道を見れば、たちどころに理解できるはずだ。たとえばA夫さん・B子さん夫婦二人が住んでいる住宅が火事になり、現場から二つの焼死体が見つかったとしよう。この場合「A夫さんとB子さんが焼死体で発見されました」とは決して報道されない。「二人の焼死体が見つかり、身元を確認中です」と報道される。
 その家にはA夫さんとB子さんだけが住んでいることがわかりきっていてもである。なぜかといえば、焼死体は損傷が激しくて誰であるか判別がつかず、必ずDNA鑑定を行なうからである。
 焼死体を見慣れた戦国時代には、「焼死体の身元は判別できない」ことが人々の常識だったであろう。だから、首を取られたくない武将は自らの死に臨んで城や屋敷に火を放ったのだ。本能寺が炎に包まれた時点で光秀は信長の首を取ることを諦めたに違いない。「信長の遺体が見付からない」のは戦国時代の常識であり、それを謎とするのは現代の非常識に過ぎない。

 さて、いまだに定説や黒幕説・冤罪説などを信じている方はここで目を閉じて考ええてみていただきたい。信じている説でこの四つの謎の説明が付けられるのかどうか。もちろん、「偶然に」という答は禁じ手である。
 もし、説明が付けられたならば、これから述べる謎解きとどちらの蓋然性が高いかを比較評価していただきたい。
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

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2 コメント

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Unknown (山藤)
2014-04-10 14:46:53
 明智様初めまして。山藤と申します。貴殿の本を書店で見かけて、軽く読んで見たところ非常に感銘を受けました。
 ただちに購入して拝読させていただきました。 急いで読んだので見逃しましたが、てっきり大学の歴史研究家と思い込んでいたので貴殿のサイトでシステムエンジニアと知ったときは驚きました。 自分も日光東照宮の桔梗紋は織田の木瓜紋ではないかなと昔修学旅行で訪ねた時から思っていたのでああやっぱり俺がおかしいのではなかったのだと嬉しくなりました(誰もが桔梗紋といって憚らなかったものですからずっと不安でした)。
 一つお尋ねしたいのですが比叡山の松禅院には慶長二十年に光秀が寄進した石灯篭があるそうです。 比叡山は光秀が治めた土地ですから偶然とも思えません。また翁草では美濃の村に逃げ落ちたという記述もあり、実際に墓もあるそうです。 貴殿の本では細川家の者に殺されたと書いてあった様に記憶していますが、本当に光秀は殺されたのでしょうか。 私が読み飛ばしていただけかもしれませんが、何卒教えていただきたく存じます。
 拙い長文、まことに失礼しました。貴殿が相応しい評価をされることを願ってやみません。
 
 
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生存伝説はロマン (明智憲三郎)
2014-04-11 10:07:18
 このブログで「細川家の者に殺された可能性」に言及したことはありますが、証拠がないので本には書いていません。
 生存伝説はいずれも証拠がなく、義経ジンギスカン説と同様にロマンだと思います。「光秀」の名がある石灯籠も寄進者が「明智光秀」とは言えません。翁草は江戸中期に書かれた本なので、その頃にはロマンが既にできていたのでしょう。
 死亡説も遺骸のDNA鑑定がされたわけではないのですが、京都の粟田口に磔にされて衆人環視されたので、生存伝説よりははるかに蓋然性が高いと思います。
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