本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う

2011年05月08日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
         >>> 本能寺の変の定説は打破された

 今回のブログの表題はかなり刺激的なものにしました。これは藤本・鈴木両氏共著の本の題名『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』のモジリです。
信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う (新書y)
鈴木 眞哉,藤本 正行
洋泉社


 このような題にしたからといって私は世の中の謀略説を擁護するわけでは一切ありません。私も藤本・鈴木両氏が主張する謀略諸説への疑義はほぼ「その通り」と肯定します。ただし、唯一拙著への評価は除いてです。
 繰り返しになりますが藤本・鈴木両氏が拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を読んだかどうかも分らないレベルにもかかわらず、拙著を謀略説にくくって、「奇説」とか「落第組」というレッテルを貼ってしまったことははなはだ残念なことです。なぜならば、お二人こそ歴史研究者として最も私と近い立場にあり、拙著を最も理解し得る存在と期待していたからです。
 その思いからの反論を下記の4回に分けてブログに書きましたのでお読みください。正直、気分のよい作業ではありませんでしたが、批判を浴びた著者の防衛上の義務として反論せざるを得ませんでした。
 ★ 藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 ★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 ★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 ★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)

 ところで、他人の説の批判を書いている藤本・鈴木両氏の唱える説は何なんでしょうか?
 今回はそれを分析・評価いたします。両氏の共著『信長は謀略で殺されたのか』を分析して私は下記の「説」ととらえました。

【光秀前半生】
朝倉仕官説
 光秀は織田信長・足利義昭に仕える前は朝倉義景に仕えていた。
信長・義昭両属説
 朝倉義景の後は信長と義昭の両方に同時に仕えていた。

【光秀謀反の動機】
怨恨&野望説
 信長を恨む気持ちと天下を取りたい気持ちの混在

【謀反プロセス】
単独犯行説
 共犯者はおらず光秀の単独犯行である。
偶発説
 たまたま偶然に信長を討てるチャンスが来たので討った。特段の段取りも謀略も存在しない。
神君伊賀越え命からがら説
 本能寺の変勃発後の徳川家康の脱出行は命からがらだった。
中国大返し強行軍説
 本能寺の変を知った秀吉は6月6日午後に備中高松を出発し、暴風雨の中、80キロも強行軍で翌日姫路にたどり着いた。

 以上の説は現代の歴史研究界の定説とみてよいでしょう。世の中でももっとも広く受け入れられている説と思います。この定説は歴史学界の権威者高柳光寿氏が50年ほど前に書いて、今でも名著とされている『明智光秀』で確立したものです。藤本・鈴木両氏はこれを追認した形になっています。
明智光秀 (人物叢書 新装版)
クリエーター情報なし
吉川弘文館

 いかにこの本が歴史学界や周辺の方々にとって「凄い本」であるかはamazonの書評コメント紀伊国屋BOOKLOGの書評を見ていただければわかると思います。諸手をあげての絶賛といってよいでしょう。高柳説を「神聖にして侵さざるべきもの」としている方々がいらっしゃるような気がします。

さて、『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』を分析した結果、藤本・鈴木説は基本的な裏付け史料や論旨は高柳氏『明智光秀』を踏襲したものになっていると判明しました。若干修正を施しているのは、高柳氏が野望説を主張したのに対して、学界での根強い怨恨説支持も考慮に入れたのか両説の混合にした点のみです。
 Wikipedia「高柳光寿」の記事(本日2011年5月8日時点)を見たら高柳説は「藤本正行氏、鈴木眞哉氏らによって支持・補強されている」と書かれていましたので、私の以上の分析は的を射たもののようです。

 これまで、桶狭間の戦いが奇襲戦ではなかったとか長篠の戦で鉄砲の三段撃ちはなかったとか、世の中の定説を崩す本を出版してきた藤本・鈴木両氏ですが、こと本能寺の変に関しては定説の主張者ということになります。鈴木氏の著書に「旧説・奇説を信じる方々への最後通牒」という刺激的な副題が付けられていますが、こと本能寺の変に関しては両氏は旧説を信じて、先鋒となってその擁護論を展開する形になっています。

 だからといって、このこと自体を私は問題にするつもりは一切ありません。問題にしたいのは、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にはこれらの全ての説に対して裏付け史料を示して疑義を提示しているということです。その拙著に対して「奇説」「落第組」という評価を書かれた際に、拙著に書かれている定説(つまり藤本・鈴木両氏の説)への疑義についての評価も反論も一切書いておられません。これがなんとも残念であり、かつ、「両氏は拙著を読んでいないのでは?」という疑念につながっています。

 藤本・鈴木両氏が著書に書いている説については次回具体的な疑義を書きますが、拙著でも本ブログでも基本的なことは既に説明済みです。下記のページにも書いてありますので、次回までに予習しておいていただけると幸いです。
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
>>>続き
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)

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2 コメント

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「信長は謀略で殺されたのか」所感 (フロイス・2)
2011-05-09 02:21:06
グッドタイミングと言うべきか、ちょうどこの本を読んだところでした。 まず指摘しておきたいのですが、この本が出版されたのは2006年2月です。 当然、その3年後に出版された明智さんの本は考証の対象外です。 しかし、藤本氏が昨年出版された「本能寺の変…」で書いておられるように、明智説批判のベースはこの本が主張している謀略説否定論であり、その延長上に例の「奇説」批判が求められます。 鈴木氏の本はまだ読んではいませんが、流れからすると同じものと推察します。 いずれにしても両氏の謀略説否定論がここに集約されている書籍と言っていいと思います。

まず「謀略説」の定義ですが、これがかなり間口の広いものです。 戦前は光秀単独犯行説が自明と考えられてきた事を指摘した後、以下の記述となります。 「ところが戦後になると、本能寺の変には隠された謎があるという見方が、にわかに浮上してきた。 謎の核心は、光秀を背後から操った者がいたのではないかとか、光秀の共犯者がいたのではないかというものである。 要するに、事件の背後には謀略があったというのである。 仮に従来の説を『光秀単独犯行説』と呼ぶとすれば、こちらは『謀略説』と総称することができるだろう。」(p・4) 比較的ルーズな「黒幕」の定義(p・23)とあわせて、要するに通常の意味での黒幕か共犯者のどちらかの存在を主張する説を、「謀略説」と総称されているのです。 従って、この概念枠組みから、明智説を謀略説の1つと位置づけることは可能です。 同時にこの枠組みの広さから、例えば「黒幕」という言葉から誤解や混乱が生じる余地も指摘しておかなければなりません。

次に、この本が用いる論証のプロセス、いわゆる方法論が示されていますが、これは実証的なものと評価できます。 まず、「本能寺の変の実態を検証することから」(p・5)始まります。 その上で、個々の謀略説(繰り返しますがこの時点では明智説は未発表です)を検証するというスタンスなのですが、その際のポイントとして:
 
①実証性があるか? 即ち、
A 論拠となる資料はあるか? 
B あっても信頼できるか? 
C 正しく解釈されているか? 

②論理的整合性を持っているか?

③仮にそうだとしても、表面上理屈に合っているだけでは足りない、とされ、常識的にみて納得できるものか? それに加えて「そこには当時の社会のあり方やそこに生きていた人々の価値観などに照らして、妥当といえるかどうかということも含まれている。」(p・6)

というものが挙げられているのです。 これらのポイントに沿って明智説が検証されたのであれば、その評価の肯定・否定を問わず、有効で面白い議論が展開されるはずです。 昨年の「奇説」批判では、それが十分になされていないことが悔やまれます。

その「本能寺の変の実態」ですが、「信長公記」をベースにした、これも実証的なものと印象を持ちました。 例の「森蘭丸」も、正しく「森乱」と書かれています。 このコンテクストに、「本城惣右衛門覚書」が、「近年注目されている貴重な資料」(p・39)として紹介されています。 注目すべきは、惣右衛門が「目標は家康様とばかり思っていた」(p・41)というエピソードの後に出てくる以下の記述です。

「惣右衛門が家康を襲うと誤解したのは、彼の無知ではなく、当時世間には、信長が光秀に命じて同盟者の家康を殺害しても不思議はないという感覚があったことをうかがわせる。 それは、謀反、裏切り、暗殺が日常茶飯事だった時代の感覚というものだろう。」(p・42)

的確な認識だと思います。 では両氏は、信長による家康討ち自体をどう捉えられているのか。

「もっとも、信長にとって家康は、武田家を抑え込む有力な材料であった。 およそ二ヶ月前の武田家滅亡で、その利用価値は幾分減少したものの、この時点で殺すような理由はなく、信長にもその意思はなかったはずだ。 もしも、信長が本当に家康を殺したかったならば、安土に来たところで始末していたはずである。」(p・43)

この後に出版された明智さんの本の9章は、この件に関する一定の回答となっています。 明智説を検証(あえて批判とは言いません)する際、避けて通れないポイントです。

藤本・鈴木両氏は、惣右衛門の例に見られるような、機密保持の徹底が光秀の陰謀成功のキーとして評価されています。 それゆえ、複数の当事者が介在することから来る機密漏洩のリスクを内包した謀略は成立しえない、というスタンスが顕著です。 光秀謀反の動機については、それが黒幕の勝手な都合では、重臣たちを説得できない(鈴木氏の条件③も同様と推察します)として、結局は「いじめはやめよう & ハイリスク・ハイリターン」みたいな怨恨説と野望説のハイブリッドのような結論となっています。 謀略説がテーマとは言え、部下への説得力から動機を推論することはいささか無理と考えます。 動機に関する明智説には瞠目すべきものがあり、御両名に限らず多くの方に議論、検証していただきたいと思っています。

個々の謀略説の紹介と、それらに対する両氏の批判については、その対象となる本を読んでいないこともあるので省略します。 ただし、明智説との関連で興味深い記述は出てきますので、それらをいくつかご紹介します。

順不同になりますが、家康が謀略にからんでいれば、光秀は当然、家康からの援軍を期待したはずであり、家康を無事に帰国させる必要があるはずだが、その形跡は全くない。(p・182)という部分、これは今回のブログで明智さんも述べていられますが、「神君伊賀越」を前提としたものです。 明智さんが紹介している「家忠日記」、「梅雪の切腹」などをご自身の方法論と照らしてどう評価されるか、大いに興味があります。

同じく、「実は、これは義明だけの問題ではない。 本能寺の変の黒幕とされる人物や集団のなかには、事件の前はもちろん、事件が成功したあとも、光秀の役に立つことをした者は誰一人いないのである。」(p・128) これも、家康の甲斐織田領に対する攻撃と、その後の西陣での行動の評価と関わってきます。

そして、最大の論点は、やはり「信長の家康討ち」でしょう。 機密漏洩のリスクと並んで、というかそれ以上に両氏が謀略説否定の論拠とされていることが、前回の明智さんのブログでも指摘されたように、「光秀にとっての千載一遇の好機は、全て信長が直前にアレンジしたものであり、謀略のしようもない」ということです。 これに関連した興味深い記述があります。 「なお『足利義昭黒幕説』の藤田氏は、信長が光秀を使って家康を暗殺するつもりでいたところ、光秀に逆用されてしまったのではないかとの仮説を提示されたことがある。(『本能寺の変の群像』)」(p・178) 「これが事実ならば、信長が家康を殺すことの最大のメリットは、家康領の入手であり、当然そのための準備をしていたはずだ。 だが、信長はじめ織田家の関係者で、事件の前にそうした動きを見せた人物がひとりでもいただろうか。 信長の性格を云々する前に、そういう客観的な事実からの検証が必要であろう。」(p・179)

言うまでもありませんが、明智さんは、富士山見物に託けた信長の家康領の偵察(興味深いことに、光秀のほかに彼が謀反の後頼りにしていた細川藤考、筒井順慶が参加)、そもそも光秀は本能寺で家康を討った後に反転して家康領に進行の予定だったという仮説を提示されています。 これに関しては藤本氏が、その程度の戦力では無理ではないかと述べられていることは以前ここで紹介したとおりです。 信長の家康討ちが、軍事作戦として成立するものなのか、まさに客観的な事実からの検証が待たれていると考えます。

僕は明智説を、少なくとも一面的に謀略説とは認識できません。 確かに多くの当事者たちの多様なかかわりが指摘されていますが、それは単なる犯行計画というより、「謀反、裏切り、暗殺が日常茶飯事だった時代」のダイナミズムそのものであり、「当時の社会のあり方やそこに生きていた人々の価値観などに照らして」読み解かれた膨大な史料に根ざした包括的なものと評価しています。 自由でかつ成熟した議論の対象として取り上げられることを願っています。 藤本、鈴木両氏が言われるように「この事件に関しては、意外なほど明らかにされていないことが多い」(p・5)のです。
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次回をお楽しみに! (明智憲三郎)
2011-05-09 22:54:03
 フロイス・2様のおっしゃる通り、藤本・鈴木両氏及び両氏が範とする高柳氏の主張する方法論は実証的なのですが、実際に高柳氏が展開し、藤本・鈴木両氏が追認している具体論はこの方法論から逸脱しているのです。この点の理解が歴史学界にもその周辺の方々にも欠落していると思います。
 たとえば高柳氏が口を極めて悪書と決め付けた『明智軍記』に書かれていることを高柳氏自身が肯定してしまっているのです。また、「この書の記述は出鱈目が多い」と評価した『川角太閤記』に対して、『この書はよいところもとらえている』と都合よく「つまみ食い」をしているのです。
 それを次回書かせていただきますので、ご期待ください。私のブログで既に何回も書いてきたことの再確認になりますが。
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